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一話
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放課後の図書室は、一種の真空地帯である。
窓から差し込む西日は、空気中に漂う塵の一つ一つを黄金の粒へと変え、古い革装本の背表紙を容赦なく照らしつけていた。羽鳥圭は、貸出カウンターの奥で、カフカの短編集に視線を落としている。
その指先は、紙の端をなぞる微かな音だけを室内に響かせていた。
「おい、羽鳥」
静寂を裂いたのは、石鹸の香りと、それからいくらかの野性的な熱気だった。
顔を上げずともわかる。織田准だ。彼は陸上部の練習上がりらしく、短い髪の先から陽光の欠片を振りまきながら、カウンターに身を乗り出してきた。
「またその難しい顔だ。頁を睨んでも、活字が踊り出すわけじゃないだろう?」
「踊り出されては困る。僕は整理整頓を愛しているんだ」
羽鳥は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ようやく顔を上げた。
目の前の織田は、制服の第一ボタンを外し、日焼けした鎖骨を臆面もなく晒している。彼の腕からは、校庭の砂を噛んだような、生命力の塊とも言うべき体温が放射されていた。
「これ、返却だ。期限ぴったりだろう」
差し出されたのは、太宰治の『走れメロス』。
羽鳥は無言で本を受け取り、返却期限票を確認する。織田の指先が、受け渡しの瞬間に羽鳥の指に触れた。
その皮膚の熱さは、まるで白磁の皿に熱湯を注いだかのような衝撃を羽鳥の指先に残した。羽鳥は喉の奥が乾くのを感じ、僅かに視線を逸らす。
「……随分と読み込まれた跡があるね。ページが波打っている」
「ああ、部室で読んでいたら、隣で奴らが水をこぼしやがって。慌てて拭いたんだが、どうにも元には戻らなくてな」
織田は申し訳なさそうに頭を掻く。その動作一つ一つが、静謐な図書室の中では異質なほど躍動的で、滑稽なほどに眩しい。羽鳥は、彼のそんな「生活の雑音」のような存在感に、いつの間にか毒されていた。
「弁償しろとは言わない。けれど、次からは雨の日の散歩にでも連れ出すつもりで扱ってほしい」
「手厳しいな。お詫びにと言っちゃなんだが、これ、やるよ」
織田が制服のポケットから取り出したのは、掌に収まるほどの小さな蜜柑だった。
皮の表面には、まだどこか冬の名残のような冷たさと、それ以上に鮮烈な橙色の光が宿っている。
「蜜柑? ここで食べるわけにはいかないよ。図書室は飲食禁止だ」
「わかってる。帰りに食え。お前の顔、さっきから活字の色と同じで真っ白だからな。少しは血の気の付くものを食った方がいい」
織田はそう言うと、羽鳥の返答を待たずに背を向けた。
彼の去り際、図書室の重い扉が開閉する音が、心地よい余韻を残して消えていく。
羽鳥は残された蜜柑を手に取った。
指先から伝わる微かな弾力。鼻先を近づければ、皮越しに甘酸っぱい香りが、肺の奥まで侵入してくる。
それは、書架に並ぶどの名作文学よりも雄弁に、羽鳥の心臓の鼓動を早めていた。
「……乱暴な人だ」
独り言ちた言葉は、西日の中に溶けて消えた。
羽鳥は蜜柑を机の引き出しの奥、誰にも見えない場所に隠した。
まるで、自分だけが知ってしまった「秘密」を、栞のように挟み込むように。
窓から差し込む西日は、空気中に漂う塵の一つ一つを黄金の粒へと変え、古い革装本の背表紙を容赦なく照らしつけていた。羽鳥圭は、貸出カウンターの奥で、カフカの短編集に視線を落としている。
その指先は、紙の端をなぞる微かな音だけを室内に響かせていた。
「おい、羽鳥」
静寂を裂いたのは、石鹸の香りと、それからいくらかの野性的な熱気だった。
顔を上げずともわかる。織田准だ。彼は陸上部の練習上がりらしく、短い髪の先から陽光の欠片を振りまきながら、カウンターに身を乗り出してきた。
「またその難しい顔だ。頁を睨んでも、活字が踊り出すわけじゃないだろう?」
「踊り出されては困る。僕は整理整頓を愛しているんだ」
羽鳥は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ようやく顔を上げた。
目の前の織田は、制服の第一ボタンを外し、日焼けした鎖骨を臆面もなく晒している。彼の腕からは、校庭の砂を噛んだような、生命力の塊とも言うべき体温が放射されていた。
「これ、返却だ。期限ぴったりだろう」
差し出されたのは、太宰治の『走れメロス』。
羽鳥は無言で本を受け取り、返却期限票を確認する。織田の指先が、受け渡しの瞬間に羽鳥の指に触れた。
その皮膚の熱さは、まるで白磁の皿に熱湯を注いだかのような衝撃を羽鳥の指先に残した。羽鳥は喉の奥が乾くのを感じ、僅かに視線を逸らす。
「……随分と読み込まれた跡があるね。ページが波打っている」
「ああ、部室で読んでいたら、隣で奴らが水をこぼしやがって。慌てて拭いたんだが、どうにも元には戻らなくてな」
織田は申し訳なさそうに頭を掻く。その動作一つ一つが、静謐な図書室の中では異質なほど躍動的で、滑稽なほどに眩しい。羽鳥は、彼のそんな「生活の雑音」のような存在感に、いつの間にか毒されていた。
「弁償しろとは言わない。けれど、次からは雨の日の散歩にでも連れ出すつもりで扱ってほしい」
「手厳しいな。お詫びにと言っちゃなんだが、これ、やるよ」
織田が制服のポケットから取り出したのは、掌に収まるほどの小さな蜜柑だった。
皮の表面には、まだどこか冬の名残のような冷たさと、それ以上に鮮烈な橙色の光が宿っている。
「蜜柑? ここで食べるわけにはいかないよ。図書室は飲食禁止だ」
「わかってる。帰りに食え。お前の顔、さっきから活字の色と同じで真っ白だからな。少しは血の気の付くものを食った方がいい」
織田はそう言うと、羽鳥の返答を待たずに背を向けた。
彼の去り際、図書室の重い扉が開閉する音が、心地よい余韻を残して消えていく。
羽鳥は残された蜜柑を手に取った。
指先から伝わる微かな弾力。鼻先を近づければ、皮越しに甘酸っぱい香りが、肺の奥まで侵入してくる。
それは、書架に並ぶどの名作文学よりも雄弁に、羽鳥の心臓の鼓動を早めていた。
「……乱暴な人だ」
独り言ちた言葉は、西日の中に溶けて消えた。
羽鳥は蜜柑を机の引き出しの奥、誰にも見えない場所に隠した。
まるで、自分だけが知ってしまった「秘密」を、栞のように挟み込むように。
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