海の向こう側

杠葉 縞

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18.鳥葬

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 ペンションから外に出た。朝日が目に入って眩しい。そして俺は手分けして二人を探すことを提案したが、竹川に却下された。
「確かに効率的ではありますが、こんな状況だし、一人で行動するのは心配ですよ。俺と一緒に行動しましょう」
 それも一理ある。というわけで、二人で島を探索することになった。
「カエデさん、一緒に来てくれてありがとうございます」
「ああ」
 何だ、こいつ。俺と一緒に行動できることを、やけに喜んでいる気がするが。
 その直後、俺はハッとなった。そういえば俺、こいつにアッチの趣味の疑いをかけたことがあったんだ。だって俺のあとを追いかけて、うちのダイビングショップに入社したんだぜ。こんな非常時だっていうのに、俺と二人きりになりたいのか。いやこんな非常時だからこそ、興奮状態になっているのかもしれない。
「あの。俺、カエデさんに、聞いてもらいたいことがあるんです」
 申し訳ないが、俺はお前のこと、ただの後輩としか思っていない。お前は顔も悪くないし、コミュニケーション能力も素晴らしいと思う。でも俺は女性としかお付き合いするつもりはないんだ。
「という訳で、すまないが、他を当たってくれないか?」
「何の話ですか?」
 竹川は俺の言葉をなかったこととして扱うと……俺に愛の告白をしてきた。
「実は、俺にとって、初恋の相手なんですよ……仁美さん」
 そっちかよ。こいつは俺じゃなくて、仁美のことが気になっていたのか。
「ひょっとして昔から、ずっと好きだったのか? でもお前、高校のとき、彼女がいたって言っていなかったか?」
 相手がどこの誰か聞いても、はぐらかされて教えてもらえなかったが。まさか仁美と付き合っていたとか?
「そっちはまあ、何となく付き合う流れになって付き合ったんですけど。もう付き合っていないですし。俺、本当はずっと、仁美さんのことが気になっていたんです。俺の学年の男子のほとんどは、村松さんの方が美人だと言っていましたが、俺は仁美さんの方がキレイだと思っていました」
 竹川の学年の男子たちの中でも、その二人がツートップだったのか。というかお前の学年には、可愛い女子はいなかったのか?
「久々に再開しましたが、すごくキレイになっていました。俺は今、彼女いないですし。仁美さんさえ良ければ、俺を彼氏にしてくれないかなって、ちょっと期待していたんです」
 あーあ。こいつ、男子中学生みたいに、顔を赤らめちゃって。
「そうか。お前も仁美のことが気になっているのか……」
「え? お前も、って、どういう意味ですか?」
「いやこっちの話だ」
 俺はそうごまかしたが、複雑な心境だった。竹川が仁美のことを好いている。まったく気付かなかったし、予想もしなかった。
「あの、それで……昨晩は二人でペンションから出て行きましたよね? もしかして二人は今、いい感じだったりするんですか?」
 なるほど。それが聞きたくて、俺と二人きりになるよう図ったのか。しかしここで、仁美と付き合うことになりそうだからお前は邪魔するな、とは言えないだろう。こんな非常時だし、誰かと衝突することはできるだけ避けたい。
「いや、ただの世間話しかしてない。同級生の誰が今は何をしている、とか。俺と仁美が付き合うことは、ないと思うぞ」
 竹川は隣で「やったー」と嬉しそうにガッツポーズを取っている。そうか、そんなに仁美のことを好きなのか。それならサクラとの間でフラフラしている俺より、お前の方が彼女にふさわしいだろう。俺はなんとなく諦めの姿勢になっていた。

 竹川の恋バナを聞きながら、姫島の南の浜辺にやってきた。砂浜には相変わらず、お菓子の袋や煙草の吸殻がたどり着いていた。このゴミを捨てたのは誰だ!? どうせ磯野だろう!?
 ザザーン、と波の音が聞こえる。逆に言えば、波の音しか聞こえない。とても静かだ。人の気配はない。つまり仁美もアーヤも、ここにはいないだろう。
「仁美! アーヤ! どこだ!?」
「仁美さん、アーヤさん、出てきてください!」
 念のため二人で大声で名前を呼んでみたが、返ってくるのは波の音だけだった。物置小屋も覗いてみたが、ダイビングの器材しか目に入らなかった。
「カエデさん、あれ見てください!」
 突如、竹川が指差した方向に、俺は顔を向けた。白くて大きな塊が二つ見える。
「ボートだ!」
 クマノミダイビングクラブ所有の、俺たちが網島から乗ってきたボートだ。もう一つはクリスが熱海港までの往復に使ったものだろう。この辺の海に捨てられたものは何時間かかっても、いずれこの砂浜に打ち上げられる。こんな大きなボートだって例外ではない。
「やった! これで俺たち、姫島から出られるぞ!」
 磯野と新田の死亡を報告しないといけないことを考えると憂鬱だが、でも日常の生活に戻れるのはありがたい。
 俺たちはボートの側まで駆け寄った。まさか傷がついたり故障したりはしていないよな。いや二つもあるんだし、片方が使えなくても、もう片方が使えるなら問題ない。
 希望が見えた俺たちだったが、みるみるその希望が失われつつあるのを感じた。ボートに異常は感じられなかったが、鍵が差さっていなかった。これではボートを動かせない。
「最後に乗っていたのって、大西だよな」
 姫島でボートを盗むやつなんていないから、いつも鍵は差しっぱなしだった。いちいち抜き差しをするのも、面倒というより、鍵を失くしそうで怖いし。
「なあ。大西のやつ、今回はボートの鍵を抜いたのか?」
「いや、あいつがボートを降りるのを見ましたが、鍵は抜いていませんでした。ペンションに向かう途中も、ボストンバッグを背負っているのしか見ませんでした」
 竹川に見られないよう鍵を抜き、素早くボストンバッグの中にしまった、なんてことはないだろうか。いやでも今回に限ってそんなことをする理由が分からない。ちなみにクリスも、いつもボートの鍵は差しっぱなしだ。あいつは姫島どころか、網島に来たときも鍵を差しっぱなしにする。さすがに不用心だと忠告しても止めようとしない。いつも「箸より重い物なんて持てない」と言い訳をする。
「とりあえず仁美さんたちを探して、ペンションに戻ったときに、鍵のことを聞いてみましょう。網島に戻ることも大事ですが、二人を探すことも大事です」
 それはごもっともだ。俺たちはとりあえずボートを波に攫われない位置に移動させてから、砂浜をあとにした。

 姫島を探索してから一時間が経とうとしている。俺のダイコンは九時を差していた。姫島は三十分から一時間も歩けば一周できてしまうような小さな島だ。つまりほとんどの場所を探した。それなのに二人は見つからない。どこに行ったのだろう。そして二人どころか、さっき竹川が可能性を挙げていた「第三者」も見つからなかった。つまり第三者が姫島に潜んでいる可能性は低いだろう。
 俺たちは最終的に、教会にたどり着いた。俺も竹川もこの場所に来るのは、何となく避けていた。磯野の死体が置いてある霊安室になるし。この時期だから、腐敗が進んで大変なことになっていそうだし。
 教会は昨日、見たときより、重々しく感じた。神に守られているというより、むしろ悪魔に支配されているような気がする。ここだけ空気もヒンヤリしているし、屋上にはやたらカラスが集まっているような……。
「おい竹川。ここはスルーして、ペンションに戻ろうぜ。何かゾンビとか出てきそうな雰囲気だし」
 ウォーキングデッド系の映画の撮影に使われそうな風景だ。そういう映画のお約束は、ゾンビの集団の中に仲が良かった家族や友人を見つけてしまい、そいつらに襲われるがままになるか、涙を飲んで引き金を引くか、そのどちらかだろう。ちなみに俺は磯野がゾンビとなって襲ってきたら、ためらいなく引き金を引くぞ。
「カエデさん、何だかあのカラス、多くないですか?」
「まったくだ。だからペンションに戻ろうぜ。襲われる前に」
「そうじゃなくて、何か違和感あるんですよ。ひょっとして教会の中に、何かあるのでは?」
 教会の中に何かあるって? あそこには磯野の遺体しかないぞ。椅子もオルガンも祭壇もないことを、俺が昨日、この目で確かめたからな。
「もしかして天窓が開いていて、そこからカラスが入り込んで、磯野さんの死体に群がっているのかもしれません。このままだと、あとで警察の人たちに怒られるかもしれません。カラスを追っ払って天窓を閉めないと」
「ええっ。嫌だよ」
 磯野の遺体なんて、どうだっていいじゃないか。そういえばゾロアスター教は、鳥葬を取り入れていた気がするし、それでいいじゃないか。死体を網島に持って帰る手間も省けるし、カラスたちもお腹いっぱいになる。一石二鳥だ。
「でもカラスたちを追っ払わないと。姫島にカラスが増えて、次は直樹さんの遺体を狙ってきそうじゃないですか」
「それは困るな」
 何が困るかって、新田の遺体はリビングに置いてある。それをカラスたちが狙うということは、奴らがペンションの中に入ってくる可能性があるということだ。
「仕方ない。カラスを追っ払って、天窓を閉めてくるか」
 俺はペンションに戻って、クリスに教会の鍵を借りにいこうとした。しかしその直後に気付いた。俺はずっと教会の鍵を、この海水パンツ(黄)のお尻のポケットに入れっぱなしだった。すっかり忘れていた。
「カエデさん。昨日も一昨日も、その海水パンツ(黄)、履いていますよね。いくらなんでも三日間、同じ海水パンツ(黄)は、衛生的に悪いような……」
「お前も似たようなものだろうが」
 竹川が履いているジーンズだって、昨日、一昨日と、同じものじゃないか。俺みたいに海水パンツ(黄)を短パン代わりにするまではしていないが、衛生的に悪くないとは言えない。
「俺は同じものを何着か持って来ているんですよ。カエデさんと一緒にしないでください」
「本当かよ。じゃあ臭くないか、匂いを嗅いでみるよ」
 しかし腰を落として竹川のジーンズに鼻を近付けた瞬間、彼は逃げだした。やっぱり俺と同類じゃないか。
 とりあえず竹川のことは放っておいて、俺はお尻のポケットから教会の鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。鍵は昨日と同じくすんなりと回った。
 そして教会の扉を開けた瞬間、信じがたい光景が俺の目に飛び込んできた。教会のほぼ中心に位置する天窓(数センチだけ開いているが、カラスが入ってくるほどの幅ではない)から、ロープで人間が吊るされていた。肩までの髪、生気のない白い顔、力なく垂らした腕と脚。バスローブ(クリスがないと騒いでいたやつ?)を着て、腰の高い位置で紐を巻いている。靴は履いていない。
 天窓からのロープは、首にかかっている。死んでいることは明らかだった。首吊り死体というやつだ。屋上には風見鶏があったはずだ。ロープの先端はそこに引っかけてあるのだろう。
「仁美さん!」
 竹川が、磯野の遺体にぶつかるのもお構いなしに彼女に駆け寄った。しかし天窓から吊るされている状態なので、その直下に行くのが精いっぱいだった。彼は仁美の足元で、悔し涙をこらえるような形で泣き崩れた。
「仁美、さん。何で、どうして……」
 俺も涙腺が熱くなっているのを感じたが、そこはグッとこらえた。竹川があれだけ泣いているのに、俺まで泣いてはいけない気がした。
「俺、ペンションに行って、皆を呼んでくる」
 俺は竹川に背を向けて、教会をあとにした。あいつがあんなに声を上げて泣くのを初めて見た。
「仁美が、どうして、こんなことに……」
 自殺の可能性も考えた。しかしすぐにその考えを打ち消した。教会には踏み台になるようなものはなかった。あるのは磯野の死体くらいだが、あれでバランスを取りながら俺たちの手の届かない高さで首を吊るのは不可能だろう。そもそもあんなの、靴を履いていたとしても踏みたくない。間違いなく仁美は誰かに殺されたんだ。
「……仁美、守ってやれなくて、ごめん……」
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