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第4話:仮面
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こうして、柳田八雲の奇妙で、しかし彼にとっては切実な二重生活が始まった。現実世界の彼は、教室の隅でヘッドフォンに耳を塞ぎ、SF小説のページをめくるか、ノートに思考の回路図を描き続ける、相変わらず寡黙で目立たない存在。しかしひとたびスマートフォンの画面の向こう側、匿名性の高いSNSの広大な海に漕ぎ出せば、彼は「深読みのシグレ」というもう一つの顔を持っていた。それは『星詠みのエトランゼ』の深い考察で多くのファンを魅了し、称賛を浴びる、知的で繊細な感性を持つ存在。現実の自分とは違うこのもう一つの人格を演じることに、彼は後ろめたさを感じながらも、抗いがたい一種の高揚感のようなものを感じ始めていた。
そしてオンラインの世界、すなわち「深読みのシグレ」として存在する匿名の、しかし彼にとっては輝かしく自由な空間では、彼は栞――「月の雫」との間に、秘密の、そしてどこか倒錯した親密な交流を深めていった。最初は互いのポストに対するリプライの応酬だった。シグレが投稿する『星エト』の緻密な考察ポストに、月の雫が丁寧な、時に感動を滲ませた感想コメントを送る。
「シグレさんの視点、本当に素晴らしいです!」
「この解釈には、涙がこぼれました…」
八雲はその一つ一つの言葉に心臓を高鳴らせた。画面の向こうの彼女の純粋な反応に胸が温かくなると同時に、自分が偽りの姿であるという事実に冷や水を浴びせられるような感覚もあった。それでも、自分の言葉が彼女に届いているという事実は、何物にも代えがたい喜びだった。
「月の雫さん、コメントありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。ちなみに…」と感謝と更なる考察を交えて返信する指先は、興奮と、隠しきれない罪悪感で微かに震えていた。
あるいは、月の雫が投稿する『星エト』の美しいファンアート――彼女は絵も驚くほど上手かった。繊細な線で描かれたキャラクターたちの切ない表情や、物語のワンシーンを切り取ったようなイラスト――や、作中の心に残ったセリフの引用に、シグレがコメントを寄せる。
「このシーン、私も大好きです」
「月の雫さんの感性は本当にキャラクターの内面に寄り添っていますね」
栞はそれに「わあ、シグレさん、ご覧いただけて嬉しいです!」と素直な喜びを表すリプライを返す。八雲は彼女の才能や言葉選びに感心し、教室で見る彼女とは違う一面を知ることに喜びを感じながらも、それが「覗き見」に近い行為であるという自覚が、常に心のどこかにあった。
シグレのアカウントには、月の雫以外からも多くの反応が寄せられるようになっていた。彼の考察ポストには常にたくさんの「いいね」がつき、様々なファンからのリプライが届いた。「この伏線の解釈、目から鱗でした!」「カイルの心情、シグレさんの言葉で初めて理解できた気がします」。八雲はそれらのコメントに目を通し、時には短い返信を送ることもあった。
「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
「その視点も面白いですね」
他の考察アカウントと互いのポストについて短い意見交換をすることもあった。それはオープンで知的な刺激に満ちた交流だった。自分の考察が認められ、議論の輪が広がっていくことに、彼は純粋な喜びと確かな手応えを感じていた。「シグレ」としての彼は、このオンラインの世界で着実にその存在感を増していたのだ。だが、そうしたオープンな交流とは別に、彼の心を最も強く捉え、揺さぶっていたのは、やはり特定の相手との秘密の対話だった。
月の雫とのDMでのやり取りは、特に彼にとって格別な意味を持つようになっていた。性別についての誤解が解けた、あのDMでのやり取りを経て、二人のDMでの会話は、まるで堰を切ったように頻繁になった。『星エト』の最新話が掲載される漫画雑誌の発売日には、まるで示し合わせたかのように互いに感想を送り合った。
「シグレさん、最新話お読みになりましたか!? 今回のリナの決意!」
「カイルのあの表情、切なすぎます…。シグレさんはどのように読み解かれましたか?」
DMの通知がスマートフォンの画面を夜中に青白く照らす。ピコンという控えめな通知音が鳴るたびに、八雲の心臓は期待に高鳴った。この秘密、──自分が柳田八雲であること──がバレればこの繋がりは終わるという恐怖と隣り合わせの、この危うい繋がりだけが、今の彼の支えだった。夜が更けるのも忘れ、ベッドの中でスマートフォンの冷たい画面に映し出される栞の言葉を、一言一句貪るように追い、返信を打ち込む。彼女の言葉に共感し、自分の考察が受け入れられるたびに、現実の自分では得られなかった、深く理解されるという感覚が彼を満たした。
「シグレさんの考察を読むと、物語が何倍も面白くなります! まるで作者様の思考を覗かせていただいているようです!」
「月の雫さんのご感想を読むと、キャラクターたちの気持ちがダイレクトに伝わってきて、いつも胸が締め付けられます。月の雫さんの感性、本当に素敵です」
互いを称賛し、深く共感し合う言葉のキャッチボール。それは現実世界の八雲が決して得ることのできなかった、甘美で酔わせるような時間だった。まるで自分が本当に「シグレ」という、栞にとって理想的な、繊細で知的な理解者になれたかのような危険な錯覚。性別についてはもう誤解されていないはずだが、自分が「柳田八雲」であることを隠しているという事実は変わらない。その秘密への後ろめたさは確かに心の片隅にはあったが、この抗いがたいほどの心地よさの前では、その棘はまだ小さく、彼の高揚感を邪魔するほどではなかった。
そして、そんな心地よい関係の中で、シグレと月の雫の関係は、より深く、そして危うい領域へと踏み込んでいく。
最初にクラスでの些細な出来事に関する愚痴のようなものが届いた。
「あの、シグレさん…。今日、クラスで少し苦手な方がいて…席がお隣になってしまって、なんだか一日ずっと憂鬱で…。その方、別に悪い人じゃないとは思うんですけど、どうしてもペースが合わないというか…。お話ししていると、なんだかどっと疲れてしまうんです。…こういう時、シグレさんだったら、どうやって気持ちを切り替えていらっしゃいますか…?」
そのDMを読んだ瞬間、八雲の背筋に一瞬冷たいものが走った。
「苦手な方」
「席がお隣」
自分のことか? ドキリとしたが、彼はすぐに冷静さを取り戻そうとした。
(いや、考えすぎだ。俺であるはずがない)
それでもわずかな動揺を隠しながら、「シグレ」として穏やかに、そして共感的に返信を打ち始めた。
「そういうこと、ありますよね。人間関係は難しいものですから。無理にペースを合わせようとなさらなくても、よろしいのではないでしょうか。ご自身の心を守ることも大切ですよ。私でしたら、好きな音楽でも聴いて、意識的に自分の世界に籠る時間を作るかもしれません」
画面の向こうの栞の沈んだ表情を想像する。彼女の悩みに寄り添えることに喜びを感じる一方で、その悩みの対象が自分である可能性を完全に否定できない恐怖、そして彼女の個人的な感情に土足で踏み込んでいるような感覚が彼を苛んだ。
するとしばらくして、栞から返信があった。
「シグレさん、ありがとうございます…! そうですよね、無理はしない方が良いですよね…。今日お隣だった方、お話しするとすぐにご自分の好きなアイドルの話になってしまって、こちらの話を全く聞いてくださらなくて…。悪気はないのだとは思うのですけれど、少し疲れてしまいました。シグレさんのおっしゃる通り、少し距離を置いてみようと思います」
そのメッセージを読んだ八雲は、内心で大きく息をついた。「アイドルの話ばかりする方…」。彼の記憶を探る。栞の隣の席は通路を挟んで彼がいる。そしてその反対側の隣の席に座っているのは、特定の男性アイドルグループに熱狂している快活だが少しお喋りな女子生徒だったはずだ。
(俺のことじゃ…なかったか…)
安堵感が広がった。よかった。だが、その安んども束の間、自分が彼女の悩みの種でなかったことに安堵しつつも、他人の(しかもクラスメイトの)愚痴を聞いてしまったこと、そしてそれにアドバイスまでしてしまったことへの罪悪感がすぐに彼を襲った。そしてすぐに「シグレ」の仮面を被り直す。
「そうでしたか。それはお疲れになりましたね…。ご自身の好きなことに夢中になるのは素晴らしいですが、相手の話を聞く姿勢も大切ですよね。少し距離を置かれるのは、良い考えかと存じます。もし、また何かおありでしたら、いつでもお聞きしますから」
優しい言葉を紡ぎながら、彼の心はこの秘密の関係がもたらす興奮と、増していく罪悪感の間で激しく揺れていた。「いつでもお聞きします」という言葉が、まるで自分自身に枷をはめるように感じられた。
ある夜には、栞から友人関係のこじれに関するさらに切実なDMが届いた。
「小学校からのお友達と、なんだか上手くいかなくなってしまって…。避けられているような気がするのですけれど…どうしたら、いいんでしょうか…?」
その文面には、彼女の真面目さゆえの悩みと、相手を傷つけたくないという優しさが滲んでいた。八雲は自分の経験にはない友人関係の機微に戸惑いながらも、「シグレ」として慎重に言葉を選んで返信した。
(俺が答えていいことなんだろうか…)
そのような迷いが常にあったが、彼女からの信頼を裏切りたくない一心だった。
さらに別の日には、深夜に将来への不安が吐露された。「親の期待に応えられないかもしれません…。自分が本当に何をしたいのか、分からなくて…。周りの方々はどんどん進路を決めていらっしゃるのに、私だけ取り残されているようで、焦ってしまって…なんだか、胸が締め付けられるように苦しいんです」。その言葉には、普段の彼女からは想像できないほどの脆さと焦燥感が表れていた。
そういった、よりパーソナルで脆弱な部分に触れるような悩みを、彼女は「シグレ」に、まるで暗闇の中で差し伸べられた手にすがるかのように、打ち明けてくるようになったのだ。
「シグレさんになら、なんだか安心して、お話しできる気がするんです…。ごめんなさい、いつも変なことばかりお話ししてしまって。お話が重いですよね…?」と彼女はいつも少し申し訳なさそうな、あるいは自分を卑下するような言葉を付け加えた。その言葉が彼女の孤独を物語っているようで、八雲の胸を締め付けた。自分が彼女にとって唯一無二の相談相手であるという事実に酔いしれる気持ちと、彼女の弱さに付け込んでいるのではないかという自己嫌悪が、彼の中で渦巻いていた。
八雲はその度に、胸が高鳴るような甘さと苦しさが混じり合った、複雑な思いだった。栞のこれまで知らなかった弱い部分、繊細な一面に触れることができる喜び。彼女が自分を、いや自分が作り上げた虚像である「シグレ」を心から信頼してくれているという、陶酔するような甘美な感覚。それは紛れもなく本物だった。しかし、それと同時に、自分が「柳田八雲」であることを隠し、彼女が最も無防備になっている領域に深く踏み込んでいることへの激しい罪悪感。そして「シグレ」という虚像への信頼が深まれば深まるほど、いつかこの秘密が露見するかもしれないという恐怖。夜、電気を消してベッドに入ると、その日のDMのやり取りを反芻し、興奮と不安、そして後悔に近い感情でなかなか寝付けないこともあった。
彼は、栞の将来への不安に対する返信の中に、自身の葛藤から滲み出たような言葉を、そっと忍ばせた。
「焦る必要はありませんよ。あなただけの道がきっとあるはずですから。周りの方々と比べる必要なんてないのです。…でも、こういう本当に大事なお悩みは、誰にでも簡単に打ち明けて良いわけではないと、私は思います。ネットの世界は、顔が見えないからこそ、色々な方がいらっしゃいますから。ですから、少しだけ、慎重さも持っていてほしい、と。もちろん、私にお話ししてくださるのは、大変嬉しいですし、いつでも力になりたいと思っていますが…」
それは、彼女を心配する気持ちと、自分がその「信頼できないかもしれない相手」であるという罪悪感がない混ぜになった、彼なりの精一杯の誠実さのつもりだった。
しかし、栞からの返信は、彼の予想とは少し違っていた。
「シグレさん、ありがとうございます…。はい、分かっています。ネットの世界が、怖い面もあるということは。でも、シグレさんは特別ですから。シグレさんの言葉は、いつも本当に私のことを考えてくださっていると分かるのです。だから、安心して、お話しできるんです。…もしかして、私、シグレさんにご迷惑をおかけしていますでしょうか…? こんなお話ばかりで、やはり、ご迷惑でしたか…?」
(特別…か。そうじゃない、俺は…!)
八雲は心の中で叫んだ。彼女の絶対的な信頼が、今は重い。そして、彼女は核心を突いてくる。迷惑ではないか、と。
迷惑だなんて、そんなこと言えるはずがない。むしろ、もっと聞きたいとすら思っているのに…! 彼は慌てて、そして必死に、彼女を安心させる言葉を打ち込んだ。
「そんなことはありませんよ! 全く迷惑ではありません。むしろ、頼っていただけて嬉しいです。いつでもお聞きしますから、安心してください」
結局、彼は彼女の信頼を裏切ることも、突き放すこともできなかった。ただ、この甘美で危険な関係を続けることを選んでしまった。
(これでいいのか? 本当に?)
自問自答が頭の中で響いたが、彼はそれを振り払った。
彼は「シグレ」として返信する際、栞が求めているであろう言葉を、まるで役者のように的確に選んでいる自分に気づいていた。優しく包容力があり、共感的で、決して彼女を否定しない、理想的な「聞き役」。「わかります、そういうお気持ち」「無理なさらないでくださいね」「あなたは一人ではありませんよ」。それは現実の自分からはかけ離れた姿だった。時折、画面に映る自分の返信を見て「こんなのは俺じゃない」と冷めた気持ちになることもあったが、それもすぐに彼女からの感謝の言葉によってかき消された。
その信頼の深さは、八雲にとって抗いがたい魅力であり、同時に、いつか破綻するかもしれないという恐怖、そして自分が求めていたのはこういう形の繋がりだったのだろうかという疑問を伴っていた。
(俺はただ、だれかと『星エト』の話がしたかった。そして、隣の席の彼女と、普通に言葉を交わせるようになりたかっただけなのに…)
彼女がパーソナルな悩みを打ち明けてくれるたびに、彼は嬉しさと同時に、偽りの姿で彼女の最も柔らかな部分に触れていることへの罪悪感を感じずにはいられなかった。これは「仲良く」なっていると言えるのだろうか? むしろ、彼女を欺き、利用しているだけではないのか?
しかし、栞からの「シグレさんのお言葉で、少しだけ気持ちが楽になりました」「お話を聞いてくださって、本当にありがとうございます。シグレさんとお話しできてよかったです!」という心からの感謝が伝わってくるような温かい返信が届くと、わずかな罪悪感や自己嫌悪は吹き飛び、彼はまた「優しくて理解のあるシグレさん」を演じることに喜びを見出してしまうのだった。この甘美な肯定とスリリングな自己欺瞞の繰り返し。ネット上の倒錯的な親密さが深まる一方で、この秘密の重みは少しずつ増し、彼の心に影を落とし始めていた。
そしてオンラインの世界、すなわち「深読みのシグレ」として存在する匿名の、しかし彼にとっては輝かしく自由な空間では、彼は栞――「月の雫」との間に、秘密の、そしてどこか倒錯した親密な交流を深めていった。最初は互いのポストに対するリプライの応酬だった。シグレが投稿する『星エト』の緻密な考察ポストに、月の雫が丁寧な、時に感動を滲ませた感想コメントを送る。
「シグレさんの視点、本当に素晴らしいです!」
「この解釈には、涙がこぼれました…」
八雲はその一つ一つの言葉に心臓を高鳴らせた。画面の向こうの彼女の純粋な反応に胸が温かくなると同時に、自分が偽りの姿であるという事実に冷や水を浴びせられるような感覚もあった。それでも、自分の言葉が彼女に届いているという事実は、何物にも代えがたい喜びだった。
「月の雫さん、コメントありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。ちなみに…」と感謝と更なる考察を交えて返信する指先は、興奮と、隠しきれない罪悪感で微かに震えていた。
あるいは、月の雫が投稿する『星エト』の美しいファンアート――彼女は絵も驚くほど上手かった。繊細な線で描かれたキャラクターたちの切ない表情や、物語のワンシーンを切り取ったようなイラスト――や、作中の心に残ったセリフの引用に、シグレがコメントを寄せる。
「このシーン、私も大好きです」
「月の雫さんの感性は本当にキャラクターの内面に寄り添っていますね」
栞はそれに「わあ、シグレさん、ご覧いただけて嬉しいです!」と素直な喜びを表すリプライを返す。八雲は彼女の才能や言葉選びに感心し、教室で見る彼女とは違う一面を知ることに喜びを感じながらも、それが「覗き見」に近い行為であるという自覚が、常に心のどこかにあった。
シグレのアカウントには、月の雫以外からも多くの反応が寄せられるようになっていた。彼の考察ポストには常にたくさんの「いいね」がつき、様々なファンからのリプライが届いた。「この伏線の解釈、目から鱗でした!」「カイルの心情、シグレさんの言葉で初めて理解できた気がします」。八雲はそれらのコメントに目を通し、時には短い返信を送ることもあった。
「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
「その視点も面白いですね」
他の考察アカウントと互いのポストについて短い意見交換をすることもあった。それはオープンで知的な刺激に満ちた交流だった。自分の考察が認められ、議論の輪が広がっていくことに、彼は純粋な喜びと確かな手応えを感じていた。「シグレ」としての彼は、このオンラインの世界で着実にその存在感を増していたのだ。だが、そうしたオープンな交流とは別に、彼の心を最も強く捉え、揺さぶっていたのは、やはり特定の相手との秘密の対話だった。
月の雫とのDMでのやり取りは、特に彼にとって格別な意味を持つようになっていた。性別についての誤解が解けた、あのDMでのやり取りを経て、二人のDMでの会話は、まるで堰を切ったように頻繁になった。『星エト』の最新話が掲載される漫画雑誌の発売日には、まるで示し合わせたかのように互いに感想を送り合った。
「シグレさん、最新話お読みになりましたか!? 今回のリナの決意!」
「カイルのあの表情、切なすぎます…。シグレさんはどのように読み解かれましたか?」
DMの通知がスマートフォンの画面を夜中に青白く照らす。ピコンという控えめな通知音が鳴るたびに、八雲の心臓は期待に高鳴った。この秘密、──自分が柳田八雲であること──がバレればこの繋がりは終わるという恐怖と隣り合わせの、この危うい繋がりだけが、今の彼の支えだった。夜が更けるのも忘れ、ベッドの中でスマートフォンの冷たい画面に映し出される栞の言葉を、一言一句貪るように追い、返信を打ち込む。彼女の言葉に共感し、自分の考察が受け入れられるたびに、現実の自分では得られなかった、深く理解されるという感覚が彼を満たした。
「シグレさんの考察を読むと、物語が何倍も面白くなります! まるで作者様の思考を覗かせていただいているようです!」
「月の雫さんのご感想を読むと、キャラクターたちの気持ちがダイレクトに伝わってきて、いつも胸が締め付けられます。月の雫さんの感性、本当に素敵です」
互いを称賛し、深く共感し合う言葉のキャッチボール。それは現実世界の八雲が決して得ることのできなかった、甘美で酔わせるような時間だった。まるで自分が本当に「シグレ」という、栞にとって理想的な、繊細で知的な理解者になれたかのような危険な錯覚。性別についてはもう誤解されていないはずだが、自分が「柳田八雲」であることを隠しているという事実は変わらない。その秘密への後ろめたさは確かに心の片隅にはあったが、この抗いがたいほどの心地よさの前では、その棘はまだ小さく、彼の高揚感を邪魔するほどではなかった。
そして、そんな心地よい関係の中で、シグレと月の雫の関係は、より深く、そして危うい領域へと踏み込んでいく。
最初にクラスでの些細な出来事に関する愚痴のようなものが届いた。
「あの、シグレさん…。今日、クラスで少し苦手な方がいて…席がお隣になってしまって、なんだか一日ずっと憂鬱で…。その方、別に悪い人じゃないとは思うんですけど、どうしてもペースが合わないというか…。お話ししていると、なんだかどっと疲れてしまうんです。…こういう時、シグレさんだったら、どうやって気持ちを切り替えていらっしゃいますか…?」
そのDMを読んだ瞬間、八雲の背筋に一瞬冷たいものが走った。
「苦手な方」
「席がお隣」
自分のことか? ドキリとしたが、彼はすぐに冷静さを取り戻そうとした。
(いや、考えすぎだ。俺であるはずがない)
それでもわずかな動揺を隠しながら、「シグレ」として穏やかに、そして共感的に返信を打ち始めた。
「そういうこと、ありますよね。人間関係は難しいものですから。無理にペースを合わせようとなさらなくても、よろしいのではないでしょうか。ご自身の心を守ることも大切ですよ。私でしたら、好きな音楽でも聴いて、意識的に自分の世界に籠る時間を作るかもしれません」
画面の向こうの栞の沈んだ表情を想像する。彼女の悩みに寄り添えることに喜びを感じる一方で、その悩みの対象が自分である可能性を完全に否定できない恐怖、そして彼女の個人的な感情に土足で踏み込んでいるような感覚が彼を苛んだ。
するとしばらくして、栞から返信があった。
「シグレさん、ありがとうございます…! そうですよね、無理はしない方が良いですよね…。今日お隣だった方、お話しするとすぐにご自分の好きなアイドルの話になってしまって、こちらの話を全く聞いてくださらなくて…。悪気はないのだとは思うのですけれど、少し疲れてしまいました。シグレさんのおっしゃる通り、少し距離を置いてみようと思います」
そのメッセージを読んだ八雲は、内心で大きく息をついた。「アイドルの話ばかりする方…」。彼の記憶を探る。栞の隣の席は通路を挟んで彼がいる。そしてその反対側の隣の席に座っているのは、特定の男性アイドルグループに熱狂している快活だが少しお喋りな女子生徒だったはずだ。
(俺のことじゃ…なかったか…)
安堵感が広がった。よかった。だが、その安んども束の間、自分が彼女の悩みの種でなかったことに安堵しつつも、他人の(しかもクラスメイトの)愚痴を聞いてしまったこと、そしてそれにアドバイスまでしてしまったことへの罪悪感がすぐに彼を襲った。そしてすぐに「シグレ」の仮面を被り直す。
「そうでしたか。それはお疲れになりましたね…。ご自身の好きなことに夢中になるのは素晴らしいですが、相手の話を聞く姿勢も大切ですよね。少し距離を置かれるのは、良い考えかと存じます。もし、また何かおありでしたら、いつでもお聞きしますから」
優しい言葉を紡ぎながら、彼の心はこの秘密の関係がもたらす興奮と、増していく罪悪感の間で激しく揺れていた。「いつでもお聞きします」という言葉が、まるで自分自身に枷をはめるように感じられた。
ある夜には、栞から友人関係のこじれに関するさらに切実なDMが届いた。
「小学校からのお友達と、なんだか上手くいかなくなってしまって…。避けられているような気がするのですけれど…どうしたら、いいんでしょうか…?」
その文面には、彼女の真面目さゆえの悩みと、相手を傷つけたくないという優しさが滲んでいた。八雲は自分の経験にはない友人関係の機微に戸惑いながらも、「シグレ」として慎重に言葉を選んで返信した。
(俺が答えていいことなんだろうか…)
そのような迷いが常にあったが、彼女からの信頼を裏切りたくない一心だった。
さらに別の日には、深夜に将来への不安が吐露された。「親の期待に応えられないかもしれません…。自分が本当に何をしたいのか、分からなくて…。周りの方々はどんどん進路を決めていらっしゃるのに、私だけ取り残されているようで、焦ってしまって…なんだか、胸が締め付けられるように苦しいんです」。その言葉には、普段の彼女からは想像できないほどの脆さと焦燥感が表れていた。
そういった、よりパーソナルで脆弱な部分に触れるような悩みを、彼女は「シグレ」に、まるで暗闇の中で差し伸べられた手にすがるかのように、打ち明けてくるようになったのだ。
「シグレさんになら、なんだか安心して、お話しできる気がするんです…。ごめんなさい、いつも変なことばかりお話ししてしまって。お話が重いですよね…?」と彼女はいつも少し申し訳なさそうな、あるいは自分を卑下するような言葉を付け加えた。その言葉が彼女の孤独を物語っているようで、八雲の胸を締め付けた。自分が彼女にとって唯一無二の相談相手であるという事実に酔いしれる気持ちと、彼女の弱さに付け込んでいるのではないかという自己嫌悪が、彼の中で渦巻いていた。
八雲はその度に、胸が高鳴るような甘さと苦しさが混じり合った、複雑な思いだった。栞のこれまで知らなかった弱い部分、繊細な一面に触れることができる喜び。彼女が自分を、いや自分が作り上げた虚像である「シグレ」を心から信頼してくれているという、陶酔するような甘美な感覚。それは紛れもなく本物だった。しかし、それと同時に、自分が「柳田八雲」であることを隠し、彼女が最も無防備になっている領域に深く踏み込んでいることへの激しい罪悪感。そして「シグレ」という虚像への信頼が深まれば深まるほど、いつかこの秘密が露見するかもしれないという恐怖。夜、電気を消してベッドに入ると、その日のDMのやり取りを反芻し、興奮と不安、そして後悔に近い感情でなかなか寝付けないこともあった。
彼は、栞の将来への不安に対する返信の中に、自身の葛藤から滲み出たような言葉を、そっと忍ばせた。
「焦る必要はありませんよ。あなただけの道がきっとあるはずですから。周りの方々と比べる必要なんてないのです。…でも、こういう本当に大事なお悩みは、誰にでも簡単に打ち明けて良いわけではないと、私は思います。ネットの世界は、顔が見えないからこそ、色々な方がいらっしゃいますから。ですから、少しだけ、慎重さも持っていてほしい、と。もちろん、私にお話ししてくださるのは、大変嬉しいですし、いつでも力になりたいと思っていますが…」
それは、彼女を心配する気持ちと、自分がその「信頼できないかもしれない相手」であるという罪悪感がない混ぜになった、彼なりの精一杯の誠実さのつもりだった。
しかし、栞からの返信は、彼の予想とは少し違っていた。
「シグレさん、ありがとうございます…。はい、分かっています。ネットの世界が、怖い面もあるということは。でも、シグレさんは特別ですから。シグレさんの言葉は、いつも本当に私のことを考えてくださっていると分かるのです。だから、安心して、お話しできるんです。…もしかして、私、シグレさんにご迷惑をおかけしていますでしょうか…? こんなお話ばかりで、やはり、ご迷惑でしたか…?」
(特別…か。そうじゃない、俺は…!)
八雲は心の中で叫んだ。彼女の絶対的な信頼が、今は重い。そして、彼女は核心を突いてくる。迷惑ではないか、と。
迷惑だなんて、そんなこと言えるはずがない。むしろ、もっと聞きたいとすら思っているのに…! 彼は慌てて、そして必死に、彼女を安心させる言葉を打ち込んだ。
「そんなことはありませんよ! 全く迷惑ではありません。むしろ、頼っていただけて嬉しいです。いつでもお聞きしますから、安心してください」
結局、彼は彼女の信頼を裏切ることも、突き放すこともできなかった。ただ、この甘美で危険な関係を続けることを選んでしまった。
(これでいいのか? 本当に?)
自問自答が頭の中で響いたが、彼はそれを振り払った。
彼は「シグレ」として返信する際、栞が求めているであろう言葉を、まるで役者のように的確に選んでいる自分に気づいていた。優しく包容力があり、共感的で、決して彼女を否定しない、理想的な「聞き役」。「わかります、そういうお気持ち」「無理なさらないでくださいね」「あなたは一人ではありませんよ」。それは現実の自分からはかけ離れた姿だった。時折、画面に映る自分の返信を見て「こんなのは俺じゃない」と冷めた気持ちになることもあったが、それもすぐに彼女からの感謝の言葉によってかき消された。
その信頼の深さは、八雲にとって抗いがたい魅力であり、同時に、いつか破綻するかもしれないという恐怖、そして自分が求めていたのはこういう形の繋がりだったのだろうかという疑問を伴っていた。
(俺はただ、だれかと『星エト』の話がしたかった。そして、隣の席の彼女と、普通に言葉を交わせるようになりたかっただけなのに…)
彼女がパーソナルな悩みを打ち明けてくれるたびに、彼は嬉しさと同時に、偽りの姿で彼女の最も柔らかな部分に触れていることへの罪悪感を感じずにはいられなかった。これは「仲良く」なっていると言えるのだろうか? むしろ、彼女を欺き、利用しているだけではないのか?
しかし、栞からの「シグレさんのお言葉で、少しだけ気持ちが楽になりました」「お話を聞いてくださって、本当にありがとうございます。シグレさんとお話しできてよかったです!」という心からの感謝が伝わってくるような温かい返信が届くと、わずかな罪悪感や自己嫌悪は吹き飛び、彼はまた「優しくて理解のあるシグレさん」を演じることに喜びを見出してしまうのだった。この甘美な肯定とスリリングな自己欺瞞の繰り返し。ネット上の倒錯的な親密さが深まる一方で、この秘密の重みは少しずつ増し、彼の心に影を落とし始めていた。
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