赤月-AKATSUKI-

月夜野 すみれ

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第三章 未月椛

第四話

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 太一が行ってしまうと、お里達は歩き出した。
 見世とは反対方向に向かおうとしている。

「お見世に帰るんじゃないの?」
「これから祖母の家に届け物をしに行くんです。それから帰ります」
 お里は当然のように言った。
 夕輝はげんなりしながらお里達と共に歩き出した。

 すっかり遅くなっちゃったな。
 暮れ六つはとっくに過ぎ、辺りは暗くなっていた。
 夕輝は一人で帰り道を急いでいた。
 そのとき、叫び声が聞こえた。

 近くだ!

 夕輝は駆けだした。

 駆けつけてみると、椛が牢人風の男に腕を掴まれているところだった。

「椛ちゃん!」
「夕輝さん!」
 椛が夕輝の顔を見て叫んだ。

「十六夜」
 いつの間にか繊月丸が隣にいた。
 繊月丸が刀の姿になる。
 夕輝は繊月丸が刃引きになっているのを確認してから、男に刀を向けた。
「小僧、やめとけ」
 男が言った。

 夕輝は構わずに刀を青眼に構えた。
 男は椛を放すと抜刀した。
 白刃はくじんが闇の中でかすかな光を放った。
 男は八相はっそうに構えた。

 こいつ、出来る!

「椛ちゃん、逃げろ!」
 夕輝は男から目を離さずに言った。
 椛は一瞬逡巡した後、背を向けて駆けだした。

 夕輝と男は睨み合ったまま動かなかった。
 やがて、男が足裏を擦るようにしてじりじりと間を詰めだした。
 夕輝は斬撃の起こりを待っていた。
 男が一足一刀の間境まざかいの半歩手前で止まった。

 二人の睨み合いがどれくらい続いたろうか。

 不意に夕輝の剣先がわずかに上がった。
 男の気迫に押されて剣先が浮いてしまったのだ。
 その瞬間、男は八相から袈裟に振り下ろした。
 夕輝は青眼から真っ向へ。
 二人の刀が弾き合った。
 青白い火花が散った。
 刹那、二人は二の太刀を放った。
 夕輝は小手へ、男は胴へ。
 夕輝の放った小手は、男の手の甲をわずかに打ったが、刃引きなので斬れたりはしなかった。
 男の刀は夕輝の着物の腹部を裂いたが身体には届かなかった。

 二人は同時に後ろに跳びさすると再び剣を構えた。
 夕輝は青眼に、男は八相に。
 今度は即座に技を放った。
 夕輝は胴に、男は袈裟に。
 夕輝の剣が胴に届く前に、男の刀が夕輝の左肩を切り裂いた。

 斬られた!

 夕輝はとっさに後ろに跳んだ。
 左肩の焼け付くような痛みに、初めて殺されるかもしれないと思った。
 その瞬間、恐怖が夕輝の身体を貫いた。
 恐怖と痛みで身体が硬くなり、剣先が震えた。
 いや、身体が震えているのだ。

 このままでは本当に殺される!

 初めて斬られる事を恐れた。
 パニックになりそうなのを何とか押さえようとした。

 落ち着け!

 夕輝は何とか冷静になろうとした。
 みんなこんな怖い思いをして戦ってたんだ。
 男がにやりと笑った。
 夕輝は少しずつ後ずさりし始めた。
 男が八相に構えて間合いを詰めてくる。
 夕輝は男の剣を受けようとわずかに剣先を上げた。

 来る!

 剣が振り下ろされそうになった時、
 びしっ!
 石礫いしつぶてが男の額に当たった。

 石が当たったところから血が流れた。

 今なら逃げられる!
 でも、椛ちゃんは無事に逃げられたのか?

 男が憤怒の形相で、それでも剣を振り下ろそうとした時、石礫が立て続けに飛来し、顔に当たった。
 逃げろと言うことらしい。
 夕輝は逃げることにした。
 椛のことは気になったが、そちらへ行くことは出来ない。
 それに、男に背を向ければ斬られる。

 タァッ!

 夕輝は裂帛れっぱくの気合いを上げると男に斬り付けた。
 構えも何もない。
 ただ振り下ろしただけだった。
 男が剣先を弾いた。
 夕輝はそのまま男の脇を走り抜けた。
 男が追ってくる。

 夕輝は懸命に走った。
 恐ろしかった。
 ただ、この恐怖から逃れたくて必死に駆けた。
 しかし、肩からの出血が思いの外多いらしく、頭から血が引いて顔が冷たく感じた。

 椛ちゃんは……。

 夕輝が男をまこうと角を曲がった時、何者かが夕輝と併走し始めた。
 右を向くと椛だった。
 いつもより遅いとは言え、男の夕輝と同じ速さで走っていた。

「夕輝さん、こちらへ」
 椛が不意に左に曲がった。
 慌てて夕輝も曲がった。

 狭い路地を何度か曲がり、小さな稲荷の祠の陰に逃げ込んだ。
 二人はしばらく息を潜めていたが男は追ってきていなかった。
 諦めたらしい。
 夕輝は思わず溜息をついた。
 気が抜けた途端、痛みが戻ってきた。

「痛っ……!」
 思わず顔をしかめて肩を押さえた。
「怪我を見せて下さい」
 夕輝は椛に言われるままに着物の上半身を脱いで傷を見せた。
 流れ出した血で肩から下は裾まで真っ赤に染まっていた。
 椛は、夕輝の破けた着物の袖を切り裂いてさらしのようにすると、肩に巻き始めた。

「さっき石投げたのって、椛ちゃん?」
 痛みに顔をしかめながら訊ねた。
「はい」
「足も速かったし、この前の破落戸も倒しちゃったし、ホントに普通の女の子?」
 椛は小首をかしげて考え込むような表情をした後、
「私の一族は忍びの訓練をしています」
 と答えた。

「忍びって、お庭番って言う……」
「お庭番ではありません。お庭番というのは公方様直属の隠密です」
「公方様の部下じゃないって事?」
「そうです」
「でも、忍びの訓練をしたんだよね?」
「そうですが、見世物や芝居でやってるような荒唐無稽な忍術が出来るとは思わないで下さい」
 手際よく夕輝の肩に布を巻き付けながら答えた。

「天井に張り付いたり、水の上を歩いたりは出来ないって事?」
 夕輝が痛みに顔をしかめながらも冗談めかして訊いた。
「そうです」
 椛が微笑んだ。
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