ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第三章

4. 沈黙の裁定

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 城塞都市サリスファ。
 多重構造の都市を三重に囲んだ城壁は、夕暮れの空を背に沈黙していた。
 石造りの門は固く閉ざされ、その上に掲げられた紋章だけが、風に晒されてかすかに軋んでいる。

 その手前一帯に、トルイデア軍の陣が広がっていた。

 規模は想定以上だった。
 夥しい数の兵たち、整列した天幕、攻城兵器の姿も見える。
 ────本気だ。単なる威圧ではない。攻め落とせるだけの兵力。

 軍の上空を、紅き鳥が大きく旋回し、クリスの肩に戻った。

「……まだ、準備をしてるみたい。それに、兵隊たちの動きも纏まってない……」

 ミリアは瞼を閉じて気を研ぎ澄ます。

「不安、畏れ……暗い想いが渦巻いてる」

 この陣は、まだ〝ひとつ〟になっていなかった。兵の視線は城壁に向いているが、その奥にあるものは揃っていない。
 早く終わらせたい者、命令を疑わぬ者、畏れて従う者。それぞれが別の場所を見ている。

「……どうする?」

 低く、ダインが尋ねる。

「このまま使者として入るか。
 それとも、もう少し様子を見るか」

 アディルは唇を噛んだ。

「正式な使者ならまだしも、私たちだけですんなり話せるかどうか……」

 サルフェンが唸る。

「……しかし、遅れれば取り返しはつかん」

 誰も答えを出せない。
 軽率に近づけば捕らえられる可能性がある。
 だが、躊躇えば、その間に戦が始まるかもしれない。

 ガルドは視線を陣へ戻す。
 ────迷っている。
 それを、自分でもはっきりと自覚していた。


 その時だった。
 南の街道から近づく騎馬軍があった。
 見れば八司祭議会の旗章を掲げている。

「ガルド殿! ご無事であったか!」

 夕闇を裂くように、張りのある声が響いた。
 街道から現れたのは、整然とした騎馬の列だった。 
 白地を金糸が縁取り、八芒星を描いた旗章。八司祭議会直属、調停と裁定を担う騎士団。 その隊列には、無駄が一切なかった。武装は抑えられているが、隙はない。
  ────戦うために来たのではない。だが、戦になれば迷わず踏み込む。そういう気配だった。

 先頭の騎士が馬を止め、兜を外す。
 鋭い目元と、灰色の短髪。年の頃は四十前後か。 
 その名を、ガルドは知っていた。

「八司祭騎士長フェイラス・エスディエル」

「覚えておられましたか。光栄です」

 騎士は小さく口元を緩めるが、すぐに表情を引き締めた。

「八司祭議会、並びに議長シリス様の名において、調停のため参上した。 
 この地で起きている事は、もはや一国の専断では済まされぬ」

 その言葉に、周囲の空気がわずかに軋んだ。 
 トルイデア軍の陣から、明らかに視線が集まってくる。

「我らは戦を止めるために来た。 だが、止められぬと判断すれば────議会は、別の裁定を下す」

 脅しではない。
 ただ事実を述べているだけの声音だった。

 ガルドは一歩前に出る。

「来て頂き感謝する、フェイラス殿。
 だが……間に合うでしょうか」

「それを見極めるのも、我らの役目。
 我らはあなた方の味方として来たのではない。
 剣を抜かんとする者を見定めるために来たのです」

 フェイラスは視線を城壁と軍陣の双方へ巡らせた。

「トルイデアは本気のようだ。だが、まだ引き返せる────あなた方が、最初の火を点けなければ、ですが」

 その言葉に、周囲の兵たちが小さく息を呑むのが分かった。
 城壁の上でも、弓を携える兵が一瞬、視線を揺らす。彼らはまだ命令を受けていない。だが同時に、いつ号令が飛んでもおかしくない。

 トルイデア軍の陣では、兵たちの影が慌ただしく動いている。
 調停の旗が現れたことで、動揺が広がっているのだ。兵たちの間に走るざわめきは、恐怖というより戸惑いに近かった。

 ────まだ、誰も血を流していない。
 だが、誰もが「流れるかもしれない」と理解している。
 ガルドは拳を握り、ゆっくりと開いた。
 ここで事を荒げれば、どちらかの覚悟を決めさせてしまう。
 沈黙を保てば、時間は稼げるが、その分だけ犠牲も膨らむ。
 正しさではなく、順番の問題だった。

 誰が、最初に踏み出すのか。
 誰が、最初に矢を放つのか。

 ガルドは、城壁でも陣でもなく、その「間」に生まれつつある空白を見つめていた。


 その時。
 トルイデア軍の一角に動きがあった。

 一中隊が軍を離れてこちらに向かってくる。
 一同に警戒が走ったが、その掲げる旗をみてガルドは制止した。
 白旗と並んではためく、青地に水竜の意匠。

「水竜中隊……?」

 その先頭から声を上げる者がいる。

「ガルド様! 水竜中隊は隊長に従います!」

 それは、ジャクスだった。

「カイルをシリス様に託したのち、私はトルイデアで密かに有志を集めました!
 中隊全員は……無理でした。
 俺も正直……」

 彼はその瞳を潤ませ、嗚咽した。

「……逃げたほうが楽だと、何度も思いました。
 でも……それでも。隊長の背中が、忘れられなくて……」

「いや、よくやってくれた……!」

 ガルドは忠実な部下の鎧に拳をつけて頷いた。


 程なくして、山陰に伏していた傭兵たちの一団が、姿を現した。大軍とは言えぬが、それでも一個隊を名乗れる数だった。

「来ていたか」

 ダインが呟く。そこには血のように紅い双頭の禿鷹の旗がはためいていた。

「おかしら! 集められるだけ集めてきたぜ!」

 一同は目を丸くし、サルフェンが驚きの声を上げる。

「なんと……いかにして傭兵たちを」

「エデルテ村でな。うちの手の者が居たんで言付けを頼んでたのさ────謝礼は後払いで構わねえ」

 だが、ダインの眼は険しい。

「議会が現れれば加勢するよう伝えていた。
 しかしトルイデアが本気で潰しに来たら、その時は散る。恨むなよ」


 トルイデア側には及ばぬものの、一軍が形成された。サリスファ側と合わせれば、トルイデア軍を抑止する事も可能に思えた。
 だが、それは均衡であって、優位ではない。


 ガルドは八司祭騎士から馬を借り受け、ダイン、フェイラス、それに騎士四名を連れ、使者として歩み出した。
 
 すると、トルイデア軍からも七名の騎馬が向かってくる。両軍の間の草原で対面する形となった。

 その中央の一人の姿に、ガルドは胸が締めつけられた。

「……ヴァルス」

 ヴァルスは目を伏せ、静かに言った。

「まだ……、まだ事を起こすつもりはない。サリスファへ『盾』を引き渡すよう求める使者が向かった。
 世界メティルを脅かす『異形』への対策に必要なものだ」

「……拒否されたら?」

 ガルドは友に鋭い眼差しを向けた。

「……」

 ヴァルスの横からもう一騎、気配の薄い馬が進み出た。

「世界を救うため、五神器が必要なのです」

 フードを深くかぶっていたが、その声色には聞き覚えがあった。ナルバだ。

「オーヴが封じられし『玉』、これに綻びが生じています。
 修繕し、封印を確たるものに戻すには、古き神々の遺した『ヘルドゥラの座』へ五神器を集める必要があるのです」

 淡々と述べる。それはどちらの側に向けてのものなのか、分からなかった。

「今はカルラ様の命によって守られています。
 が、その中にはヴィリドと邪神オーヴ、二つの神が宿っている────」

 一同はただ聞き入った。

「────オーヴの目覚めは近い。
 器の命が潰え、邪神が解き放たれる前に。
 それが、世界メティルから滅びを退ける唯一の手段」

 ナルバの言葉が、夕闇の中に沈んでいく。
 風が吹き、両軍の旗が一斉に鳴った。その音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ──器の命が潰える。抑揚なく語られたその言葉に、ガルドの胸に抗えぬ焦燥を覚えた。
 ヴァルスもまた、目を見開きナルバを見つめている。

 世界を救う。
 そのために戦という犠牲を払うのなら。
 そして重荷を背負うのが、カルラであり、友であるというのなら────
 それは、本当に救いと呼べるのか。

 ガルドは、ヴァルスを見た。
 かつて背を預け合い、同じ焚き火を囲んだ男は、今は何も語らず、ただ地を見つめている。
 否定もしない。肯定もしない。
 まるで、すでに答えを出してしまった者のようだった。

「……盾が穏便に託されることを願おう」

 ガルドが絞り出すように言うと、八司祭騎士長フェイラスが、静かに口を開く。

「……双方の主張は、確かに聞き届けた。
 ほどなくサリスファにも使者が行く」

 その声音には、感情も裁きも含まれていない。
 それは、誰の側にも立たぬ者の声だった。

「今この場で剣が抜かれることはない。
 議会の裁定が下るまで、誰も動くな」

 命令とも、願いとも取れる言葉だった。

 沈黙が落ちる。
 その重みを、ガルドははっきりと感じていた。

 彼はゆっくりと息を吸い、前を見据えた。
 城塞。軍勢。友。未だ見ぬ敵。
 そのすべてが、まだ一線を越えていない。

「……今は、それでいい」

 それが、ガルドの出した唯一の答えだった。

 夕闇は、完全に夜へと変わりつつあった。
 戦は始まっていない。
 だが、もう誰も、元の場所へは戻れない────
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