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第四章
1. 崩壊の戦陣
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西に臨む森の中に、日が落ちた。
丘の上に立つガルドの視界には、すでに灯りを失いつつあるサリスファの城塞都市があった。
夕時までは生活の火で満ちていた街が、今は不気味な暗がりに沈んでいる。
眼下に迫る軍に怯えるように息を潜めていた。
丘と城塞の間の平原に、トルイデア軍の陣は横たわっていた。
中央の一際大きな陣幕を囲み、多くの兵のたちの天幕、篝火が連なっている。
ふと。それらに、ざわついた動きを感じた。
嫌な予感が、背骨を這い上がる。
クリスの肩に、偵察に出ていた紅き鳥が戻ってきた。ムゥに顔を寄せると、彼女の小さな身体が震えた。
「……影が、濃くなってる。騒ぎが起きてて、悲鳴も……」
そこで、言葉を切った。
ガルドはさらなる異変に気づいた。
トルイデア軍と自陣の間。
何もなかったはずの草原に、夜闇よりも濃い影が湧き出している。
一筋、また一筋。
影は地面から染み出すように現れ、瞬く間に数を増やしていった。
「……『異形』……すごい数だ」
低く呟いた声は、誰に向けたものでもない。
影は徐々に形を持ち始める。
影が姿を成すまでに、わずかな時間があった。
ほんの数呼吸分。
だが戦場では、それが永遠のように引き伸ばされる────誰もが判断を保留した。
前へ出るべきか、陣を固めるべきか、あるいは退くべきか。
命令を待つ者、勝手に動き出す者、動けなくなる者────
整えられていたはずの戦線に、見えない歪みが走る。
トルイデア軍の陣に、動きはない。
敵影の数が、距離が、把握できない。
戦として測れぬものに対し、兵たちの経験は役に立たなかった。
ガルドは歯を噛み締めた。
獣、蟲、そして人の形が浮き上がる。
それらが歪に組み合わさり、蠢き、無数の紅い光がこちらを見据える。
「皆こっちを向いてやがるぞ……!」
ダインが剣を抜き、アディルがそれに並ぶ。
ミリアとサルフェンは即座に距離を取り、詠唱に入った。
傭兵たちも、八司祭騎士たちも、次々と武器を構え、歯を食いしばる。
それは、数で脅かすばかりではなかった。
後方には人型に加え、竜の姿も現れた。
世界の裏側が、表へ溢れ出してきた──そんな光景だった。
「エルケス・サトスヴァラ!」
ミリアの詠唱が放たれ、閃光が夜を裂く。
群れの一角が焼き払われ、黒い塊が崩れ落ちた。
続けてクリスの号令とともにムゥが炎を纏い、低空を駆ける。
燃えさかる翼が、多くの『異形』たちを薙ぎ払い、地面に火の帯を引いた。
だが、空白はすぐに埋まった。
倒れた数と同じだけ、影が補われる。
いや、それ以上だった。
「……減らない」
誰かが呟いた。
サルフェンが守りの術を終え、さらに術式を続ける。
「サトステラ・ロウル・トゥ!」
光が剣へと流れ込み、ダインとアディルが前に出た。人型の異形へと斬り込む。
刃は通る。
だが、倒れても終わらない。
異形に触れられた兵が、悲鳴を上げた。
「──っ、離れるんだ!」
ガルドが叫ぶ。
だが声は、剣戟と咆哮に掻き消えた。
兵の皮膚が黒く変色し、脈打つ。
喉を掻きむしるように呻き、膝をついた。
骨が軋む音が、嫌なほどはっきり聞こえた。
それは、人だったものが壊れる音だった。
「斬れ! こいつはもうだめだ!」
傭兵の斧が振り下ろされる。
だが刃は、肉ではなく、粘ついた膜に弾かれた。
次の瞬間、変異したそれが跳ぶ。
人の速度ではない。
血が宙を舞い、声が途切れた。
「近接戦は危険すぎる!」
サルフェンが叫び、ダインが号令をかける。
「群れから距離を取れ! 向かって来るものを迎撃しろ!」
その時────
サリスファの城壁が、轟音と共に崩れ落ちた。
土煙の奥から、濁流のように異形が溢れ出す。
街を、呑み込む。
炎が上がり、瓦礫が崩れ、人の悲鳴が遠く夜空を裂いた。
ガルドは、剣の柄を握り締めた。
「──これは、戦じゃない。
人の戦ならまだ……勝ち筋も読めた」
防衛線は、押されている。
街が削られていく。
壊されている。
守る前提そのものが、否定されていた。
『異形』の群れは、もはや押し返す対象ではない。湧き、満ち、流れ込む〝現象〟だった。
「……これは、もはや……」
サルフェンが、低く呟いた。
老神官は杖を突き立て、地を見据えている。
詠唱でも、祈りでもない。
それは──測量するような沈黙だった。
「サルフェン様……!」
ミリアが呼びかける。
「……この後ろには司祭騎士の陣がある」
その声は、芯を帯びていた。
「調停者が落ちれば、この場の証人が不在となる」
杖の先が、震えた。
「彼らと、その旗、そしてお主らは、何としても守らねばならぬ。これから歩む道の為に」
ガルドは、理解した。
「……やめろ。機を見て撤退を!」
「機は……待てども来ぬ。撤退は〝道〟があってこそ成り立つものじゃ」
サルフェンは、振り返らなかった。
「……老いぼれが、最後にやれることなど、たかが知れておる」
ガルドは叫んだ。だが老神官は肩越しに答える。
「わしが残せるのは、道だけじゃ」
長杖を上げ、もう一度、突き立てる。
その瞬間、地面に光の紋様が走った。
丘から平地へ、そして崩れ落ちた城壁の先まで──巨大な封呪陣が、夜の大地に浮かび上がる。
光を浴びた『異形』たちの動きが、明らかに鈍った。咆哮が、悲鳴に変わる。
湧き出しかけた影の塊が、欠片となってのたうち回る。
「今だ! 退け!」
ガルドの号令が、戦場を貫いた。
兵が、傭兵が、騎士たちが──
生き残った者たちが、一斉に下がる。
その背後で。
サルフェンの膝が、静かに折れた。
「……これが……限界じゃ」
吐息のような声だった。
封呪陣の光が沈んでゆく。
その瞬間、老神官の身体から、力が抜け落ちた。
「散開! 別れて退け……!」
その声を引き取るように、フェイラスが叫んだ。
「かたじけない……! 司祭騎士団、続け!
我らは街道へ退く! 旗を落とすな!」
騎士団が、傭兵団が、水竜中隊が、散開し撤退してゆく。
「クリス! 君も逃げろ!」
彼女は首を横に振った。
その瞳には固い意志が宿っていた。
隊が去るのを見届け、ガルドの元には四人の仲間たちだけが残った。
徐々に動きを取り戻した無数の『異形』たちに囲まれる。
皆それぞれに技を尽くして抗う。
後衛の二人を守るダイン、アディルの腕、足には、黒き刃が次々とかすめ、血しぶきが散る。
守りの術で防ぎきれぬ猛攻。
膝をつきながらも剣を振るい続ける。
────人型の一撃がガルドの盾を割り、身体が後ろに叩きつけられた。
意識が遠のく。
「エルケルス・ヴィゲラ・スクァエラ──!」
クリスの声が遠く聞こえた。
守り抜くと約束したばかりの少女。
死地に連れて来てしまった悔恨が胸を強く締め付けた。
ぼやける視界を巨大な影が覆った。
そして、全ての知覚が闇の底へ沈んだ────
丘の上に立つガルドの視界には、すでに灯りを失いつつあるサリスファの城塞都市があった。
夕時までは生活の火で満ちていた街が、今は不気味な暗がりに沈んでいる。
眼下に迫る軍に怯えるように息を潜めていた。
丘と城塞の間の平原に、トルイデア軍の陣は横たわっていた。
中央の一際大きな陣幕を囲み、多くの兵のたちの天幕、篝火が連なっている。
ふと。それらに、ざわついた動きを感じた。
嫌な予感が、背骨を這い上がる。
クリスの肩に、偵察に出ていた紅き鳥が戻ってきた。ムゥに顔を寄せると、彼女の小さな身体が震えた。
「……影が、濃くなってる。騒ぎが起きてて、悲鳴も……」
そこで、言葉を切った。
ガルドはさらなる異変に気づいた。
トルイデア軍と自陣の間。
何もなかったはずの草原に、夜闇よりも濃い影が湧き出している。
一筋、また一筋。
影は地面から染み出すように現れ、瞬く間に数を増やしていった。
「……『異形』……すごい数だ」
低く呟いた声は、誰に向けたものでもない。
影は徐々に形を持ち始める。
影が姿を成すまでに、わずかな時間があった。
ほんの数呼吸分。
だが戦場では、それが永遠のように引き伸ばされる────誰もが判断を保留した。
前へ出るべきか、陣を固めるべきか、あるいは退くべきか。
命令を待つ者、勝手に動き出す者、動けなくなる者────
整えられていたはずの戦線に、見えない歪みが走る。
トルイデア軍の陣に、動きはない。
敵影の数が、距離が、把握できない。
戦として測れぬものに対し、兵たちの経験は役に立たなかった。
ガルドは歯を噛み締めた。
獣、蟲、そして人の形が浮き上がる。
それらが歪に組み合わさり、蠢き、無数の紅い光がこちらを見据える。
「皆こっちを向いてやがるぞ……!」
ダインが剣を抜き、アディルがそれに並ぶ。
ミリアとサルフェンは即座に距離を取り、詠唱に入った。
傭兵たちも、八司祭騎士たちも、次々と武器を構え、歯を食いしばる。
それは、数で脅かすばかりではなかった。
後方には人型に加え、竜の姿も現れた。
世界の裏側が、表へ溢れ出してきた──そんな光景だった。
「エルケス・サトスヴァラ!」
ミリアの詠唱が放たれ、閃光が夜を裂く。
群れの一角が焼き払われ、黒い塊が崩れ落ちた。
続けてクリスの号令とともにムゥが炎を纏い、低空を駆ける。
燃えさかる翼が、多くの『異形』たちを薙ぎ払い、地面に火の帯を引いた。
だが、空白はすぐに埋まった。
倒れた数と同じだけ、影が補われる。
いや、それ以上だった。
「……減らない」
誰かが呟いた。
サルフェンが守りの術を終え、さらに術式を続ける。
「サトステラ・ロウル・トゥ!」
光が剣へと流れ込み、ダインとアディルが前に出た。人型の異形へと斬り込む。
刃は通る。
だが、倒れても終わらない。
異形に触れられた兵が、悲鳴を上げた。
「──っ、離れるんだ!」
ガルドが叫ぶ。
だが声は、剣戟と咆哮に掻き消えた。
兵の皮膚が黒く変色し、脈打つ。
喉を掻きむしるように呻き、膝をついた。
骨が軋む音が、嫌なほどはっきり聞こえた。
それは、人だったものが壊れる音だった。
「斬れ! こいつはもうだめだ!」
傭兵の斧が振り下ろされる。
だが刃は、肉ではなく、粘ついた膜に弾かれた。
次の瞬間、変異したそれが跳ぶ。
人の速度ではない。
血が宙を舞い、声が途切れた。
「近接戦は危険すぎる!」
サルフェンが叫び、ダインが号令をかける。
「群れから距離を取れ! 向かって来るものを迎撃しろ!」
その時────
サリスファの城壁が、轟音と共に崩れ落ちた。
土煙の奥から、濁流のように異形が溢れ出す。
街を、呑み込む。
炎が上がり、瓦礫が崩れ、人の悲鳴が遠く夜空を裂いた。
ガルドは、剣の柄を握り締めた。
「──これは、戦じゃない。
人の戦ならまだ……勝ち筋も読めた」
防衛線は、押されている。
街が削られていく。
壊されている。
守る前提そのものが、否定されていた。
『異形』の群れは、もはや押し返す対象ではない。湧き、満ち、流れ込む〝現象〟だった。
「……これは、もはや……」
サルフェンが、低く呟いた。
老神官は杖を突き立て、地を見据えている。
詠唱でも、祈りでもない。
それは──測量するような沈黙だった。
「サルフェン様……!」
ミリアが呼びかける。
「……この後ろには司祭騎士の陣がある」
その声は、芯を帯びていた。
「調停者が落ちれば、この場の証人が不在となる」
杖の先が、震えた。
「彼らと、その旗、そしてお主らは、何としても守らねばならぬ。これから歩む道の為に」
ガルドは、理解した。
「……やめろ。機を見て撤退を!」
「機は……待てども来ぬ。撤退は〝道〟があってこそ成り立つものじゃ」
サルフェンは、振り返らなかった。
「……老いぼれが、最後にやれることなど、たかが知れておる」
ガルドは叫んだ。だが老神官は肩越しに答える。
「わしが残せるのは、道だけじゃ」
長杖を上げ、もう一度、突き立てる。
その瞬間、地面に光の紋様が走った。
丘から平地へ、そして崩れ落ちた城壁の先まで──巨大な封呪陣が、夜の大地に浮かび上がる。
光を浴びた『異形』たちの動きが、明らかに鈍った。咆哮が、悲鳴に変わる。
湧き出しかけた影の塊が、欠片となってのたうち回る。
「今だ! 退け!」
ガルドの号令が、戦場を貫いた。
兵が、傭兵が、騎士たちが──
生き残った者たちが、一斉に下がる。
その背後で。
サルフェンの膝が、静かに折れた。
「……これが……限界じゃ」
吐息のような声だった。
封呪陣の光が沈んでゆく。
その瞬間、老神官の身体から、力が抜け落ちた。
「散開! 別れて退け……!」
その声を引き取るように、フェイラスが叫んだ。
「かたじけない……! 司祭騎士団、続け!
我らは街道へ退く! 旗を落とすな!」
騎士団が、傭兵団が、水竜中隊が、散開し撤退してゆく。
「クリス! 君も逃げろ!」
彼女は首を横に振った。
その瞳には固い意志が宿っていた。
隊が去るのを見届け、ガルドの元には四人の仲間たちだけが残った。
徐々に動きを取り戻した無数の『異形』たちに囲まれる。
皆それぞれに技を尽くして抗う。
後衛の二人を守るダイン、アディルの腕、足には、黒き刃が次々とかすめ、血しぶきが散る。
守りの術で防ぎきれぬ猛攻。
膝をつきながらも剣を振るい続ける。
────人型の一撃がガルドの盾を割り、身体が後ろに叩きつけられた。
意識が遠のく。
「エルケルス・ヴィゲラ・スクァエラ──!」
クリスの声が遠く聞こえた。
守り抜くと約束したばかりの少女。
死地に連れて来てしまった悔恨が胸を強く締め付けた。
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