ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第四章

2. ヒトの選択

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 どれだけの時が経ったか、ガルドには分からなかった。

 意識がゆっくりと戻る。
 影の群れ、斬撃、苦痛、悔恨────
 重い記憶が呼び戻される。

 身体を動かそうとして、ようやく気づく。
 指先が痺れ、うまく動かせない。
 そこに、自分という輪郭が戻ってくる。
 皮膚の下で、鈍い痛みが幾筋も重なり、呼び起こされた。
 耳の奥で、遅れて戦場の残響がよみがえる。

 叫び。肉が裂かれ、骨の折れる音。
 そして──砕けたものが、闇の底へ吸い込まれていく気配。
 心臓だけがやけに近くで鳴っている。
 生きているのだと告げるその音が、なぜか他人のもののように遠かった。


 薄く瞼を開けると、血にまみれた着衣が目に入る。どれが自分の血でどれが他人の血なのか、判然としなかった。
 
 辺りを見回す。
 そこは、森の奥深くに沈んだ遺跡のようだった。

 天井は失われ、夜空が裂け目のように覗いている。崩れた石壁は苔と蔓に覆われ、しかしその苔は湿った緑ではなく、かすかに赤みを帯びて脈打っているようにも見えた。

 空気は、重い。
 森の夜気とは異なり、肺に吸い込むたび、微かな熱と鉄の匂いが混じる。

 風は吹いていないのに、石柱の間を低い唸りが巡っていた。遠くの風音なのか、地鳴りなのか──判別がつかなかった。

 足元の石畳には、はるか昔に刻まれたであろう、消えかけた紋様が残っている。
 見覚えのない文字、意匠。理解できぬほど古いのか、人のために彫られたものではないのか。

 ぼやける視線を上げた先────
 崩落した壁の向こうに、小山のような影が横たわっていた。
 崩れた塔か、岩か。
 しかしそれは、ゆっくりと膨らみ、縮み、規則正しく動いているように見えた。
 それが〝呼吸〟だと理解するまで、数拍を要した。


「気がついたか」

 地響きのような声が響く。
 は空を覆い尽くさんばかりの翼を広げた。
 そして、人の身丈ほどもある頭が近づく。
 巨大な赤き竜だった。

「……助けてくれたのか」

 呆然と、呟くように言った。

「成り行きを見ていたが──」

 竜は巨大な眼をガルドの隣に向けた。

「──魔獣使いの声に応えてやったまで。
 古き盟約に従って」

 ようやくはっきりと戻る視界。
 隣でクリスが身を起こし、ミリアがそれを支えていた。

「咄嗟に……思い出したの。お母さんが教えてくれた言葉……
 どうしても助けが欲しい時に、って。
 でも決して、みだりに口にしてはいけないって……」

 少女の目から、涙が止めどなく溢れた。

「まさか竜皇さまが……もっと早く唱えていれば……」

 竜は鼻から吐息を漏らし、言った。

「我はまこと必要とするときにこそ応える」

 その声に情は感じられなかったが、冷たくもなかった。

「あの神官の働きもあってのことだ。悔いることはない」


 辺りを見回すと、アディルとダインが横たわっていた。深い傷が塞がった跡がある。
 目を閉じたままの二人の手は、なお剣を握ろうとしているかのように強張っていた。浅い息を繰り返しながら、眉を寄せている。

「この者ら……よく魂を奪われなかったものだ」

 ミリアは胸に手を当て、目を伏せた。涙がこぼれ落ちる。

「サルフェン様の封呪がまだ効いていたのね……」

 老神官の献身によって、多くの者が生き長らえたはず────ガルドは目を伏せた。



「トルイデア軍はどうなったか、ご存じですか」

「城塞前に布陣していた軍のことか」

 竜の瞳は澄んでいた。だが、その奥は奈落のようだった。

「あの者らは影に襲われてはおらん。
 影らは去り、その後程なくして引き上げたようだ」

 襲われていない────ガルドは戦慄した。

 竜は続ける。

「神を宿した娘。あれに覚えが?」

 眼を細める竜に、『玉』と禁忌の儀式について、ヘルドゥラ遺跡の記述、ナルバの語った話を伝える。
 竜はただ聞き入った。しばらくの沈黙ののち、口を開く。

「邪神が、娘の中で目覚めた。
 その手足たる影どもを操っている」

「……カルラが……」

 ガルドの眼窩に苦悶が滲んだ。
 自分の無力さが、胸の奥で鈍く疼く。
 石畳の冷たさが、掌に沁みた。言葉が続かなかった。

「時は、長く残されてはいない」

 竜は首をもたげた。

「封印は、『玉』と娘の肉と命で、今なお保たれている」

「まだ……完全ではない……」

 ミリアの言葉に、竜はゆっくりと頷く。

「しかし、あの娘の灯は、もう細い。
 その重荷に、一月ひとつきともつまい」

 胸の奥で、何かが静かにひび割れた。
 それでも声は出なかった。

「選ぶことから、逃れられぬ」

 その声音が、強く響いた。

「五神器を集める事は、諸刃の剣。
 それは封印を修復する道でもあり──同時に、彼奴きゃつが『座』へ手を伸ばす道でもある」

 竜は、しばしガルドを見つめていた。
 その赤き瞳に、憐れみはなかった。
 あるのは、量るような静けさだけだった。


 やがて、前肢が動く。
 石畳の一部が低く鳴り、淡い光が滲み出した。

 石畳の下から現れたそれは、飾り輪のようだった。透き通るような金色の輪の内側で、かすかな光の脈動が続いている。

「火の『冠』、ギートメリア」

 短い言葉だった。

「五神器がひとつ。長き間、ヒトが触れたことはない」

 その瞳が、クリスを見据えた。
 少女は、息をのんだ。

「だが、我を喚んだお前にならば、託そう」

 沈黙。

「戴けば、引き返せぬ。
 拒めば────かの娘と共に、世界は沈むだろう。
 ────選べ」

 竜は、それ以上何も言わなかった。

 クリスは一歩、前へ出た。
 震えはあったが、視線は逸らさなかった。

「……わかりました」

 竜は頷きもせず、否定もせず、ただ『冠』への道を開いている。

 クリスの指が、ためらいがちに輪へ触れた。
 次の瞬間、微かな熱が掌へ流れ込み、心臓の鼓動と呼応するように脈打つ。
 怖い————その表情に、一瞬だけ影が走る。
 しかし少女は、そっと唇を結んだ。

 ふと、手首の守り紐に目が行く。
 焚き火の明かりに笑っていた少年の横顔がよぎる。
 言葉は浮かばない。

 震えは消えないまま、それでも『冠』から指を離さず、頭へと運んだ。
 それは額へ吸い付くように嵌った。

「竜皇さま……感謝します」

 クリスが言うと、竜は首を横に向けた。

「竜皇……ヒトはそう呼ぶが……」

 遠くを見据えるように首を上げ、夜空を見つめる。

「我は生き残りに過ぎぬ。一族の殆どは、遥か遠い昔にこの地を捨てて旅立った。
 僅かに残った仲間たちすら、この十年程で皆、影に喰われてしまった」

 竜は瞼をしばし細め、沈黙が流れた。
 そしてふと、遺跡の片隅を見やった。そこには小さな箱があった。

「それも持ってゆけ。魔獣使い」

 クリスが箱を開けると、そこには鈍く輝く石の首飾りがあった。
 首にかけ、握りしめる。首飾りは、冷たかった。しかし、掌の奥で、かすかな鼓動のような熱が動いた気がした。



「──もうひとつ、話しておくことがある」

 竜皇は、低く続けた。

「土の『盾』、サリスレドゥア」

 ガルドは、息を詰めた。

「メドゥルがサリスファに要求していた……」

「あれは打ち捨てられた。サリスファの、音も無き地に」

 ミリアが、震える声で小さく呟く。

「……神器を、捨てるなんて……」

「神器とて、持つ者を選ぶ」

 竜は、静かに告げた。

「道を誤れば、ただの重荷となる」

 沈黙が落ちる。


「我は、この地に残った最後の竜────ヒトの選択を、見届けよう」

 竜は翼を伏せた。

「未だ、ここは安息の場」

 深き瞳が、各々を見渡す。

「だが、道は再び血に濡れる。それを選んだのは、我ではない」

 ガルドは深く一礼した。
 ミリアが両手を組み、祈るように言う。

「……忘れません」

「忘れよ」

 竜は即座に返した。

「記憶に縋る者は、道を誤る」

 低い風が遺跡を抜けた。
 赤き鱗が闇に溶け、やがてそこには、崩れた石と夜気だけが残った。

 クリスは『冠』に触れ、呟いた。

「……もう、戻れないね」

 ガルドは頷いた。

「ああ。だが……まだ、進める」

 進まねば、ならない────
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