ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第四章

3. 祈りの行方

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 ミリアの献身的な癒しの術によって力を取り戻した一行は、森を抜けて元居た場所へと歩みを進める。
 向かう東の遠景には重い空気がたちこめ、暗く沈んでいるように見えた。


 サリスファ、であった場所────

 瓦礫と煙と、おびただしい屍の山。
 鼻をつく腐臭と、煤けた匂いがたちこめている。
 屍の中には、人の形を留めず、この世の物とは思えぬ姿となっているものもある。

 先日、無数に湧き出たはずの『異形』の姿は、どこにも無かった。

「なんて有様だ……」

 ダインが眉をひそめる。

「こんな事が……あっていいの」

 アディルが呆然と呟いた。

 言葉が出なかった。
 見るたび、胸の奥で何かが鈍く沈んでいく。
 
 トルイデア軍の陣していた野だけは、奇妙なほど戦火の跡がなかった。
 踏み荒らされた草はまだ倒れ、土は固く押し固められている。
 焚き火の跡。残された杭。
 だが、血も、焼け跡も、絶叫の痕も──ここにはない。
 誰かが、ただ〝撤収した〟だけの場所。
 同じ戦いの中にあったとは、とても思えなかった。

 野の中央に、土が整えられ、丸く側溝が掘られた場所があった。そこが指揮の陣幕だったのだろう。


 その中で、陽光が一筋だけ、きらりと跳ねた。突き立てられた短剣。
 そして、その下に何かが埋められた痕跡────

 予感が、背のあたりを冷たく撫でた。
 喉の奥で、何かが固まった。
 歩を止めようとしたはずなのに、足は勝手に前へ進んでいた。
 胸の奥に、遅れて重たい鼓動が落ちる。

「あれは……」

 言葉にした瞬間、逃げ道が消える気がした。
 それでも、視線は逸らせない。

「……ヴァルスのものだ」

 口の内側が一気に乾く。
 砂を噛んでいるような感覚だけが残った。
 誰かが声をかけるよりも早く、膝を付いていた。
 地に触れた指先が、ひやりと冷たい。
 掘り返すたび、爪の間に泥が入り込み、土の音が耳の奥で鳴る。

 分けた土の中から、鈍い光が滲み出した。
 そこには、盾があった。
 土に汚れた隙間から、古の意匠が覗いている。
 微かな光が、命の終わり際の呼吸のように明滅していた。

「それは……『盾』……サリスレドゥア」

 アディルの声が、遠くで響く。
 耳に入っているはずなのに、現実感がなかった。
 手を伸ばす。
 だが、指先は盾の直前で止まった。

 触れた瞬間、何かを背負わされる──そんな予感が、重く肩にのしかかる。

(……どうして、ここに)

 問いが喉元で渦巻く。
 だが、声にはならなかった。

 
 ミリアは、盾から目を離さなかった。
 泥に汚れたまま、ただそこに在るだけだった。
 差し出されたもの。守るための象徴。
 それが、誰にも抱えられず、静かに打ち捨てられている。

 周囲には、瓦礫と屍の山。
 その中に、整然と片づけられた陣地跡。
 守るために捧げられたものと、
 奪うために失われたもの。
 どちらも、今は空虚だった。
 その落差が、胸の奥で冷たく鳴る。

「わたしは……何を、祈っていたの」

 ミリアの声が震えた。
 サリスファの民のため。
 争いが起こらぬように。
 流れる血が少しでも減るように──
 結果は、瓦礫と屍だった。

「……神々は、見ておられたはずなのに」

 思わず零れた言葉に、答える者はいない。
 ミリアは膝をつき、両手で顔を覆った。
 祈りの言葉が喉まで込み上げているのが、痛いほど分かった。
 だが、声にはならなかった。

「ここでまた祈ったら…… わたしは、自分をごまかすことになるの?」

 ガルドは何も言えなかった。

「祈らなければ……あの人たちは、本当に無駄になってしまうの?」

 口が開きかけて────閉じた。
 どんな言葉も、喉で砕けた。

「ミリア……祈らないの……?」

 クリスが、静かに問う。
 責める響きではない。
 ただ、そっと差し出された問い。
 ミリアは、長く黙り────そして絞るように言った。

「……今ここで祈れば、きっと私は……〝仕方なかった〟って思ってしまいそうで……」

 涙が、頬を流れ落ちた。

「仕方なくなんて、ないのに」

 クリスは、ただ傍にいた。
 
 ミリアは、盾を見つめ続けていた。
 泥に半ば沈み、苔に汚れ、弱い光を吐き続けているそれは──
 もはや象徴でも、神話でもなかった。
 ただ、捨てられた道具のように、そこにあった。

 声をかけられない。


 肩が、かすかに震えている。
 無理に言葉を挟げば、きっと何かを壊してしまう──
 そんな予感だけがあった。

 ミリアの指が、胸元をぎゅっと掴む。
 だが、手は組まれない。

「……助けては、くれないの……?」

 その小さな声は、祈りでも、問いでもなかった。
 拳を握る。
 夥しい死の跡。
 そして、泥に沈んだ盾。
 祈りが届いた結果が、これなのか――
 そんな思いが、喉の奥で重く渦巻いた。
 
 ミリアが膝をついたまま、呼吸を乱す。
 祈りの言葉が何度も生まれては、潰れていくのが分かる。

 その肩が、大きく震えた。
 ミリアは泣いた。
 近づくことすら、罪のように思えた。
 慰める言葉も、叱咤する言葉も、どれも違う。
 クリスが、そしてアディルが、そっと寄り添う。

 静けさが、肩に重くのしかかる。
 やがて、ミリアは袖で涙を拭い、静かに立ち上がった。

「……それでも、祈るわ」

 その細い身体は、折れてはいなかった。

「許しを乞うためじゃない。 神さまのためでもない」

 視線が、瓦礫へ、屍へ、そして盾へ向く。

「忘れないために、祈る」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが、ようやく緩んだ。
 祈りに逃げるのではなく、傷の痛みを抱えたまま、前へ進むための祈り。

(……強いな)

 言葉にはしない。
 ただ、心の中で呟く。
 その祈りが、どこへ行くのかは分からない。
 だが、決して消えない灯のように、胸の中で揺れ続けた。


 ふと、アディルが引き寄せられるように盾へと歩み寄った。
 指先が、ためらいがちにその縁に触れる。

 ——冷たい。

 だが次の瞬間、底の方から温もりが立ち上がった。
 掌に吸い付くような感触。逃がすまいと絡みつく重み。

 淡い光が、脈を打つように広がる。
 アディルは息を呑んだ。
 見えない何かに、静かに覗き込まれているような気配。

 そっと持ち上げようとした。
 それは、重かった。
 物としての重さではなく、肩へ、背へ、静かにのしかかる責務の重さ。

 一瞬、指が緩む。
 それでも、離れなかった。

 盾は、音もなく光を鎮める。
 収まる場所を見つけたように、静かに馴染んだ。

「……」

 アディルは言葉を失ったまま、胸の前で抱きしめる。
 まるで、失われた誰かの体温を、確かめるように。

「盾は……」

 ミリアが、小さく呟くように告げた。

「盾は、姉さんを選んだのね」


 ────


 サリスファ城塞都市跡へと向かった。
 生きる者の気配は感じられない。
 大声で呼びかけても、こだまが返るばかり。

 風が一度だけ、瓦礫の隙間を鳴らした。
 乾いた音が、骨の軋みのように響く。

 視線を逸らしたくなる衝動を、奥歯で噛み殺した。
 見ていられない、と思った瞬間、同時に分かる。
 ——見なければ、俺は逃げる。


 ヴァルスと対面したあのとき。
 俺は心のどこかで願っていたはずだ。
 ——最小限で済めばいい——何とか収まってくれ——と。
 だが、惨劇は訪れ、何も収まらなかった。

 もし、あの判断を一つ違えていたら。
 もし、あの瞬間、別の言葉を投げられていれば——

 答えは、どこにもない。
 頭では分かっている。戦は、誰か一人の責任で転ぶものではない。
 それでも、指先にこびりついた泥の感触が、責めるように冷たかった。

 瓦礫の端に、擦り切れた布が絡みついている。
 兵の名を書いた印だ。風に揺れて、音もなくほどけていく。
 名を失い、形を失い、最後には土に還る。
 祈りも、そうやって静かに消えていくのだろうか。

 ミリアの嗚咽が、次第に落ち着いていく。
 泣き尽くしているのではない。
 涙の奥で、何か別の硬いものが、ゆっくりと形になりつつあった。

 祈りは、強い者のためのものではない。
 折れかけた者が、どうにか立つために掴む細い糸だ。
 だが——糸を掴む手すら震えるとき、人はどうすればいいのか。

 瓦礫の隙間から、子どもの靴が半ば覗いていた。
 片方だけ。小さな、青い飾り。
 伸ばしかけた手を、そっと引き返す。
 埋め戻すことすら、いまは許されない気がした。

 ミリアの肩が、静かに上下する。
 その背を見つめながら、ガルドは初めて、自分の中の空洞を自覚した。
 怒りでも、悲しみでも埋まらない穴。
 それは、守れなかったものの形をしている。

 だからだろう。
 彼女の立ち上がる気配を感じたとき、胸のどこかで、わずかな音がした。
 ——まだ終わっていない、と。
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