ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第五章

2. 貪欲の王

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 城壁の上に、炎と魔光が交錯していた。

 遠目にもわかる。王都レシャンクレイは、すでに戦の只中だった。

 フェイラスは馬上で息を吐く。

「……間に合ってくれ」

 八司祭騎士たちが続き、クリスはメデス王と共にその中央に守られていた。
 ムゥが肩の上で低く鳴き、緊張を告げる。

 門前には避難しきれない人々があふれていた。
 泣く子を抱きかかえる母、荷を捨てて走る老人。
 誰もが振り返り、黒い地平を見つめている。

(この人たち……全部、守らなきゃ)

 胸がきゅっと締め付けられた。

 門が開き、迎えに出た術士団長が叫ぶ。

「援軍か! 助かった、もう持たぬところだった!」

 休む間もなく指示が飛ぶ。

「王はここで身をお守りください!
 騎士は前線に!
 術師は支援に回れ! 
 貴女は危険地帯には──」

 フェイラスが遮った。

「彼女は『冠』の神器を持つ。戦力だ。私が守る」

 クリスは唇を噛み、頷いた。

 黒い影が、波となって押し寄せる。
 矢は通らず、斬れば煙のように散る。
 しかし散った残滓が地を這い、また形を取り戻す。

 ひとりの若い騎士が影に絡め取られ、叫びも届かぬまま引きずり込まれた。
 仲間が手を伸ばすが、もう姿はない。

 喉が凍りつく。

「怯むな! 剣に術士の支援を受けろ! 押し返せ!」

 フェイラスが長剣を掲げ、号令をかける。
 術士団の詠唱が重なり、光の刃が作られた。

 背後でクリスが息を整える。
 額の『冠』ギートメリアにそっと触れ、ムゥを飛び立たせた。
 炎の翼が群れを焼き払う。

 果てしなく湧き出る『異形』たち。
 だが、レシャンクの術士らと八司祭騎士団の連携、そしてクリスの奮闘によって耐え凌ぐ────

 今は、まだ。



 ────四日後。預言の日。

 黒い雲が低く垂れこめ、天から降りる紫黒の光が、城の塔を呑み込んでいく。
 空は裂け、世界の底から染み出すように、それは姿を現した。

 その影が広場を横切るだけで、石畳が音もなく沈んだ。
 倒れた家々は、ただ「形」を忘れるように、輪郭から消えていく。

 玄関先に干された洗濯物も、子どもの木馬も、音もなく溶けて消えた。
 逃げ惑う人々の影が、地に縫いとめられ、身体より先に裂けていった。

 小さな少年が母の手を振りほどき、影を踏み越えようとして──そのまま、消えた。
 母の腕だけが、宙をつかんでいた。

 ────影の王。

 塔よりも高い影の塊。

 見ているそばから、輪郭が変わっていく。
 蛇のように見えたそれに腕が生えて蜥蜴のようになったかと思うと、頭の部分には数多の目が現れた。
 その無数の目は、たしかにこちらを向いているのに、誰ひとりを見てはいない。
 まるで、世界をそのものを眺めているかのようだった。

 背から多くの触手が生え、のたうつ。
 まるで、人々の恐怖を弄ぶように。
 複雑に絡み合う闇の触手が、地を探り、空を舐め、遠くの山々を締め上げる。

 耳を澄ませると、無数の囁きが混じり合っていた。祈りの声にも、泣き声にも聞こえる。
 けれど、そのどれもが、意味をはかれない。
 ただ、混じり、ねじれ、ひしめく音だけが続く。


 騎士たちが陣形を組み直そうと号令を飛ばす──しかし言葉は途中でちぎれ、手振りだけが宙を彷徨った。
 盾は列を失い、秩序を失い、恐怖に呑まれた。
 叫びが交錯する。
 誰かの槍が落ち、踏まれ、折れた。
 〝守る〟という形そのものが崩れていた。

「なんということだ……」

 メデス王が呆然と呟いた。
 兵たちの喉から、小さな悲鳴が零れた。

「術士隊、結界を維持せよ!
 騎士は民の退避を最優先!」

 フェイラスの声は鋭い。
 それでも誰もが、祈るしかなかった。

(……怖い。)

 気づけば、クリスの手は震えていた。
 握りしめた指に、爪が食い込む。

(死ぬのは怖い。
 でも、誰かが死ぬのを見るほうが、もっと怖い)

 少女は一歩前へ出る。
 冠が頭上で、低く唸るように震えた。

 胸の奥で、言葉が立ち上がる。

「エルケルス・ヴィゲラ・スクァエラ!」

 澄んだ声が響き、それに応えるように、遠く空に咆哮が響きわたった。

 次の瞬間、雲の中から赤き竜が飛来した。
 巨大な翼が影の王を纏う暗雲を払い、その口から吐き出される炎が、『異形』の群れを焼き払った。

 地上を揺るがす轟音が響く。

「また、我を喚ぶか。ヒトの子よ」

 地に着いた竜皇の声が、轟いた。

「ヒトの生涯で二度喚ぶ者は──これが最初だ」

 フェイラスが思わず膝を折る。
 術師たちも言葉を失っていた。
 クリスはムゥに引き上げられ、竜皇の背に向かう。
 竜は拒まなかった。その背は、焼けた土のように熱かったが、しかし不思議と恐ろしくはない。

 その翼が広げられた。
 風が唸り、空が近くなる。

 見下ろせば、影の王の頭部らしき部分が、ゆっくりとこちらを向いた。

(届く……!)

 だが、触手の群れが天を突き破り、竜皇の身体をかすめる。
 ムゥは炎の翼を幾度も薙ぎ、竜は炎を浴びせ、触手を次々と焼き払う。

 しかし、触手は焼け落ちるそばから芽吹き、数を倍にして伸びてくる。

 斬られた一本の触手が地面に落ちる。
 だが、落ちた地点から影が逆流し、まるで時間が巻き戻るように、もとの形へと戻っていく。
 切り離したはずなのに、〝切り離された〟という事実そのものが消えていく。


 火の手が、住宅街へと移っていた。
 乾いた木材がはぜる音と、焦げた油の匂いが風に乗る。
 泣き声が上がり──煙に呑まれて、消えた。

 倒れた塀の向こうで、誰かの食卓が横倒しになっていた。
 皿が割れ、スープが石畳を流れ──その跡ごと影に飲まれて消えた。

 たった一本の触手が屋根を撫でただけで、家族の暮らしがまるごと、夜の底へ沈んでいく。

 クリスは、手を伸ばしても届かない距離を、ただ見ているしかなかった。

(止められない──!)

 触手の一本が、少女に迫った。
 冷たい闇が頬を撫で、時間が細く引き延ばされた。
 その刹那、死を覚悟した。

 竜皇が身をよじり、炎を吐き、ムゥがその先端を打ち払う。
  助かった、と思った────

 次の瞬間、さらに太い触手が、幾重にも重なって押し寄せる。 炎が弾き返され、光は裂けた。

 「……っ!」

 竜の巨体が、触手に捕らえられ、低い呻きを上げた。
 ムゥの鳴き声が震え、翼の炎が細くなる。

(まだ、だめ……!)

 クリスは必死に周囲を見回した。
 別の術は? 冠の力は? 援軍は?

 ────どこにも、ない。
 何も、残されていない。

 ……そのはずだった。
 そのとき、胸の奥で、しまっていたひとつの言葉が息を吹き返す。
 母が、最後まで教えたがらなかった言葉。


 暗い部屋。
 灯火の下、紙に書かれた古の言葉たち。母はその言葉だけを指で隠した。

〝これは、最後の最後まで使ってはいけない〟

 と、震える声で。

 喉が乾き、心臓が痛む。
 それでも、唇が動いた。


エウルヴリド・汝、我が命を糧にフィラス・力のすべてロウルディエを現し給え!」

 世界から、音が消えた。
 自分の鼓動だけが、遠くで鳴っている。
 瞬間、心臓を掴まれたような痛みが走る。

(ごめんなさい……みんな……ムゥ……お母さん……でも……!)

 死の冷たさが、骨の奥へ入り込んでくる。

 ────何かが、割れた。
 耳元で、ひび割れる音がした。
 首にかけた石の首飾りが、まばゆい光を放っている。
 クリスはそれを握りしめた。熱い鼓動が手に伝わる。

 ムゥの身体に、秘法と『冠』の光が宿り、炎の翼が裂けるように大きく広がる。
 その羽ばたきは、竜を捕らえた触手を断ち切った。

 紅き鳥を包む光は膨れ、輪郭を飲み込んでいく。それはひとつの眩い球体となり、影の王へ突進した。

 触手が襲いかかる。
 だが、球体の光が、それらを焼き払っていく。

 衝突。
 眩い爆裂。
 影の王の巨体が大きくうねり、崩れ、沈み込んだ。
 闇は霧のように散り、深い淵へと戻ってゆく。
 ──その巨体の半分を失い、崩れた。

 下半身のみとなった影は、まだ蠢いていた。
 だが、立ち上がる気配はなかった。



 竜皇が翼を広げ、静かに降下する。

「よく抗った。ヒトよ──
 だが、これは終わりではない」

 竜の瞳は遠くを見据えていた。

「私は……生きてる……?」

 クリスは手の中で砕けた石を見つめた。

 竜皇の瞳が、静かに細められた。

「それには──我を畏れて贄とされた、哀れな魂が眠っていた」

 崩れ、砂となった石は、風に溶けるように消えていく。

「おまえの代わりに、代償を負った。
 これで、ようやく眠れよう」

「……」

 クリスは、言葉を失った。
 ムゥは傍らで羽根を震わせ、慰めるように静かに鳴いた。

 フェイラスが駆け寄る。

「命を賭して……ここまで……」

 クリスは、風とともに石が消えた手のひらを見つめ、静かに息を吐いた。

(……ありがとう)

 メデス王が崩れた影を指さす。

「あれならば……! 術士団の封呪で抑えられるぞ!」

 術士団長が強く頷く。
 それを受けたフェイラスが言う。

「ここは一旦任されよ! クリス殿は他へ助力を!」

 遠く、黒雲はまだ地平に残っていた。
 戦いは、終わっていない。

 少女を乗せた竜は、次の地──シル・エザリスへ向かい飛び立った。
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