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第3話 初夜をすっぽかされた令嬢と真実の愛?
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夫が初夜に姿を見せなかった翌日。
クロフォード侯爵邸の玄関ホールは、朝からざわついていた。
「レイモンド様ーっ!」
甲高い声と一緒に、ピンク色のドレスが飛び込んでくる。
レースもリボンもフリルも、盛れるだけ盛りましたと言わんばかりの格好だ。
彼女――ルルゥ・ブラン男爵令嬢は、まっすぐ夫のもとへ駆け寄った。
「昨夜は、帰ってこられなかったって聞きましたわ! 大丈夫でした? あの、その……あの人と、ちゃんと話せました?」
「あの人」とは誰のことか。考えるまでもない。
自分のいる家を指して「あの人」呼ばわりする来訪者。なかなかの度胸だと思う。
私は階段の踊り場からその光景を見下ろし、タイミングを計ってからゆっくりと降りていった。
「おはようございます、レイモンド様。――それから、ブラン男爵令嬢」
ルルゥが、はっとしたようにこちらを振り向く。
「……あなたが、その……」
「アリア・クロフォードです。昨日、レイモンド様の妻になりました」
できるだけ柔らかい声で名乗ると、彼女の視線が私のドレスから髪型、指先のリングまで忙しなく上下した。
値踏みしているつもりなのだろうが、立場を理解していない。
「まあ……思っていたより、冷たそうな方ですわね」
第一声がそれだったので、私は少しだけ感心した。
噂通り、ネジがいくつか足りないらしい。
「ルルゥ、やめろ」
レイモンドが慌てて彼女の肩をつかむ。
「アリア、違うんだ。彼女は――」
「レイモンド様」
私は夫の言葉を、やんわりと遮った。
「事情のご説明は後ほどゆっくり伺いますわ。今はひとつだけ、確認させてください」
傍らに控えていた侍女に目配せすると、あらかじめ用意させておいた紙束を持ってこさせる。
クロフォード侯爵家とグレイス伯爵家の間で取り交わされた婚姻契約書、その写しだ。
「こちら、両家で締結した婚姻契約です。内容は……もちろん、ご存知ですよね?」
レイモンドの顔が、わずかに引きつる。
一方でルルゥは、完全に意味を理解していない顔をしていた。
「えっ、そんな紙切れより、心が大事じゃありません? 愛があれば、契約なんて――」
「紙切れ?」
私は、あくまで穏やかに首をかしげた。
「これは、財政難のクロフォード侯爵家の負債の一部を、グレイス伯爵家が肩代わりする代わりに、その見返りとして私が嫁ぐ、という合意を形にしたものです。――つまり、あなたが今立っているこの床も、この屋敷の維持費も、この紙切れの上に乗っているんですよ、ブラン男爵令嬢」
「……え?」
ようやく、ルルゥの顔から色が引いていく。遅すぎる。
「もちろん、愛を大事にすること自体は、否定しませんわ」
私は紙束を軽く持ち上げた。
「ただし、契約を結んだ“後”でそれをないがしろにする場合。
侯爵家側には、それ相応の違約金と責任が発生することになります」
「り……やく、きん?」
「そう。具体的には――」
一枚を抜き取り、いくつかの条項を指で示す。
「借款の即時返還。利子の割増。クロフォード侯爵家への支援打ち切り。 加えて、この結婚を後押しした王家と諸侯への“面目を潰した”という評価」
説明するごとに、レイモンドの顔色が目に見えて悪くなっていく。
「もっとも、その程度でしたら、真実の愛のためには安いものかもしれませんね」
私はにっこりと笑った。
「レイモンド様がそれでも『愛を貫く』とおっしゃるのであれば、私は止めません。
その場合は、あなたはただの“契約違反者”として、然るべき場所で処理されるだけです」
玄関ホールが、しんと静まり返る。
ルルゥはまだ状況を飲み込めておらず、目をぱちぱちさせている。
レイモンドだけが、自分の足元の床がきしりと音を立てたことに気づいている顔をしていた。
「アリア、その……昨日の夜は、本当に悪かった。飲みすぎて、その……」
「ええ。楽しいお時間だったのでしょうね」
私は形だけ微笑み、ゆっくりと階段に視線を向ける。
上から、義母と使用人たちが固まった顔でこちらを見ていた。
見られている。だからこそ、ここまでで十分だ。
「詳しいお話は、後ほどお二人きりのときに伺いますわ。今は――ご客人がお帰りになるのを、きちんと見送って差し上げてはいかがですか?」
それだけ言って、私は踵を返した。
背後で、ルルゥの「レイモンド様……?」という不安げな声が小さくなる。
レイモンドが何か言い訳しようとしている気配もしたが、振り返るつもりはなかった。
あの二人の会話は、私にとって「材料」であって、耳を傾ける価値のある言葉ではない。
クロフォード侯爵邸の玄関ホールは、朝からざわついていた。
「レイモンド様ーっ!」
甲高い声と一緒に、ピンク色のドレスが飛び込んでくる。
レースもリボンもフリルも、盛れるだけ盛りましたと言わんばかりの格好だ。
彼女――ルルゥ・ブラン男爵令嬢は、まっすぐ夫のもとへ駆け寄った。
「昨夜は、帰ってこられなかったって聞きましたわ! 大丈夫でした? あの、その……あの人と、ちゃんと話せました?」
「あの人」とは誰のことか。考えるまでもない。
自分のいる家を指して「あの人」呼ばわりする来訪者。なかなかの度胸だと思う。
私は階段の踊り場からその光景を見下ろし、タイミングを計ってからゆっくりと降りていった。
「おはようございます、レイモンド様。――それから、ブラン男爵令嬢」
ルルゥが、はっとしたようにこちらを振り向く。
「……あなたが、その……」
「アリア・クロフォードです。昨日、レイモンド様の妻になりました」
できるだけ柔らかい声で名乗ると、彼女の視線が私のドレスから髪型、指先のリングまで忙しなく上下した。
値踏みしているつもりなのだろうが、立場を理解していない。
「まあ……思っていたより、冷たそうな方ですわね」
第一声がそれだったので、私は少しだけ感心した。
噂通り、ネジがいくつか足りないらしい。
「ルルゥ、やめろ」
レイモンドが慌てて彼女の肩をつかむ。
「アリア、違うんだ。彼女は――」
「レイモンド様」
私は夫の言葉を、やんわりと遮った。
「事情のご説明は後ほどゆっくり伺いますわ。今はひとつだけ、確認させてください」
傍らに控えていた侍女に目配せすると、あらかじめ用意させておいた紙束を持ってこさせる。
クロフォード侯爵家とグレイス伯爵家の間で取り交わされた婚姻契約書、その写しだ。
「こちら、両家で締結した婚姻契約です。内容は……もちろん、ご存知ですよね?」
レイモンドの顔が、わずかに引きつる。
一方でルルゥは、完全に意味を理解していない顔をしていた。
「えっ、そんな紙切れより、心が大事じゃありません? 愛があれば、契約なんて――」
「紙切れ?」
私は、あくまで穏やかに首をかしげた。
「これは、財政難のクロフォード侯爵家の負債の一部を、グレイス伯爵家が肩代わりする代わりに、その見返りとして私が嫁ぐ、という合意を形にしたものです。――つまり、あなたが今立っているこの床も、この屋敷の維持費も、この紙切れの上に乗っているんですよ、ブラン男爵令嬢」
「……え?」
ようやく、ルルゥの顔から色が引いていく。遅すぎる。
「もちろん、愛を大事にすること自体は、否定しませんわ」
私は紙束を軽く持ち上げた。
「ただし、契約を結んだ“後”でそれをないがしろにする場合。
侯爵家側には、それ相応の違約金と責任が発生することになります」
「り……やく、きん?」
「そう。具体的には――」
一枚を抜き取り、いくつかの条項を指で示す。
「借款の即時返還。利子の割増。クロフォード侯爵家への支援打ち切り。 加えて、この結婚を後押しした王家と諸侯への“面目を潰した”という評価」
説明するごとに、レイモンドの顔色が目に見えて悪くなっていく。
「もっとも、その程度でしたら、真実の愛のためには安いものかもしれませんね」
私はにっこりと笑った。
「レイモンド様がそれでも『愛を貫く』とおっしゃるのであれば、私は止めません。
その場合は、あなたはただの“契約違反者”として、然るべき場所で処理されるだけです」
玄関ホールが、しんと静まり返る。
ルルゥはまだ状況を飲み込めておらず、目をぱちぱちさせている。
レイモンドだけが、自分の足元の床がきしりと音を立てたことに気づいている顔をしていた。
「アリア、その……昨日の夜は、本当に悪かった。飲みすぎて、その……」
「ええ。楽しいお時間だったのでしょうね」
私は形だけ微笑み、ゆっくりと階段に視線を向ける。
上から、義母と使用人たちが固まった顔でこちらを見ていた。
見られている。だからこそ、ここまでで十分だ。
「詳しいお話は、後ほどお二人きりのときに伺いますわ。今は――ご客人がお帰りになるのを、きちんと見送って差し上げてはいかがですか?」
それだけ言って、私は踵を返した。
背後で、ルルゥの「レイモンド様……?」という不安げな声が小さくなる。
レイモンドが何か言い訳しようとしている気配もしたが、振り返るつもりはなかった。
あの二人の会話は、私にとって「材料」であって、耳を傾ける価値のある言葉ではない。
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