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8 家の中に広がる線
母屋へ戻ると、家の中はもう夜の顔になっていた。
雨上がりの湿り気を閉じ込めないよう、廊下の端の高窓だけが少し開けられている。
そこから入る空気は冷たくはないが、磨かれた木や漆喰の匂いに、濡れた土の匂いを薄く混ぜていた。
壁の燭台には火が入り、長い廊下の床に橙色の光が途切れ途切れに落ちている。
セリーヌは温室脇の硝子戸を静かに閉めた。
庭から戻ったことを、誰かに告げる必要はない。
家族は今ごろ居間か、あるいは父の小書斎の近くでまだ何か話しているかもしれない。
使用人たちは食後の片づけに追われている時間だ。
こういう時刻の屋敷は、広いぶんだけ、人の目の薄い場所が増える。
廊下を折れたところで、セリーヌは足を止めた。
遠くではなく、比較的近いところで話し声がする。母の声だった。
抑えてはいるが、相手に指図している時の、角の取れた硬さがある。
相手は侍女ではない。返事の短さからして、使いに出る若い男か、書類を運ぶ下男だろう。
声は一階奥の小書斎の方から聞こえていた。
セリーヌは廊下の壁に沿って歩き、食堂の手前で一度立ち止まった。
そこから先は、正面から行けば見つかりやすい。
けれど食堂と小書斎のあいだには、暖炉の飾り棚と、柱の陰で半歩だけ死角になる場所がある。
昔、父に見つからずに食後の菓子をつまみたくて、エレオノールと競うように覚えた場所だった。
結局、見つかるのはいつも自分のほうだったけれど。
燭台の火に背を向けるようにしてその陰へ寄ると、声は思ったよりはっきり聞こえた。
「今夜はもう無理です。道も悪いですし、あちらも夜更けに使いを受けたくはないでしょう」
母の声。
「では明朝いちばんに。旦那様がお目通しのあとで封をなさいます」
「承知しました」
「表玄関からよ。裏手は使わないで。庭のほうはまだぬかるんでいますから」
若い男の返事のあと、紙の擦れる音がした。封筒か、書状の下書きか。
母は少し間を置いてから、今度はもっと低く言った。
「ベッリーニ家へは、こちらから先にお伝えしなければなりません。向こうから何か言い出す前に」
その語尾には、昼の小客間で見せた困惑めいた柔らかさはなかった。
もう母の中では、話は進めるものに変わっている。
娘の気持ちがどうであれ、家の段取りとして整えなければならない一件なのだ。
足音が近づいてきて、セリーヌは息を止めた。
若い男が小書斎から出てくる。手には革の書類挟みを持っていた。
顔までは見えないが、歩き方で誰か分かる。父の用を主に走るラウルだ。
表への使いも任される男で、仕事は早いが、気を取られると足元が少し荒くなる。
ラウルは食堂の前を通り過ぎ、そのまま玄関広間の方へ消えた。
母はまだ小書斎の中にいるらしい。机の上の何かを整えるような小さな物音が続いている。
セリーヌはその場を離れた。
今ここで中を覗くのは危うい。
母は、乱れのない部屋を好む一方で、手を入れたあとのわずかな違和感にも敏い。昼の父と違って、書状そのものの動きには目が利く。
さっき小書斎に入らなかったのは正しかったと、歩きながら思う。
廊下の先、玄関広間に面した大窓の前まで来ると、外の夜が硝子にぴたりと張りついていた。
雨はもう完全に上がっている。雲の切れ間がどこかで開いたのか、空の低いところにだけ、遅れた青白さが残っていた。
大窓の下には、昼に飾られた花がまだそのまま置かれている。白い百合と、まだ開ききらない薄紅の薔薇。
春の終わりの花は、豪奢に見えて少し息が短い。今夜の湿り気の中にあると、匂いばかりが濃くなって、かえって落ち着かない。
セリーヌは二階へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
玄関広間の脇、表階段の下に近いところに、外套掛けが置かれている。
家族のものは上へ運ばれるが、客や使いの外套、庭から入った者が一時的に置くものは、ここへ寄せられることがあった。
今も数枚の上着が掛かっている。その中に、庭の泥が乾ききらずに残った濃い色の外套が一枚混じっていた。
ジュリアンのものだと、なぜかすぐ分かった。
庭番の息子で、直接の使用人ではない。だから庭番小屋からそのまま帰ることもあるし、用があれば勝手口から母屋へ入ることもある。
家の中の人間でも、完全な外の人間でもない。その半端さが、この屋敷では案外自由を生むのだろう。
誰もが当然と思って見過ごす場所に、彼は自然に立てる。そのことが、今になって少しだけ心に引っかかった。
セリーヌは外套掛けの前を通り過ぎ、そのまま表階段へ向かった。
上ではもう、二階の燭台にもすべて火が入っているらしい。踊り場へかかる光が柔らかく揺れていた。
階段を上がりきる直前、下から母の声がした。
「セリーヌ」
振り向くと、母が一階の廊下から出てくるところだった。
昼の薄藤色のドレスのままではなく、夜用の落ち着いた濃紺に着替えている。火の色の中では、その濃紺がほとんど黒に見えた。
「まだ起きていたのね」
「少し、風に当たっていました」
「そう」
母は階段の下で立ち止まり、上を見上げた。その顔には、心配も、叱責も、どちらも中途半端にのっている。
夜が更ける前に娘の所在を確かめておきたい気持ちはあるのだろうが、今はそれ以上に、明朝の段取りのほうに気持ちが向いているのが透けて見えた。
「明日は少し早く起きなさい。ベッリーニ家からも、何かしら返事があるかもしれませんから」
「私にも関わることですものね」
「そういう言い方はよしなさい」
母の声は穏やかだった。穏やかなぶんだけ、余計に何かを覆っているように聞こえる。
「あなたにとっても辛いことであるのは分かっています。ですが、こうなった以上は、なるべく波立てずに済ませるほうが良いのです」
――波立てずに。
その言葉はこの家の祈りみたいなものだと、セリーヌは思った。
誰かが理不尽を飲み込むことで成り立つ静けさを、いつも「波立っていない」と呼んできたのだ。
「分かっております」
そう答えると、母は目を細めた。満足というより、安心に近い表情だった。
「あなたは本当に、そういうところだけは助かるわ」
言ってしまってから気づいたらしく、母の睫毛がわずかに揺れた。けれど取り消しはしなかった。
たぶん、もう遅いと思ったのだろう。
セリーヌは階段の手すりに手を置いたまま、母を見下ろしていた。
――助かる。
昼にも似たようなことを聞いた気がする。マルコの「助かる」、母の「助かる」。
意味は少し違うようでいて、結局どちらも、自分が黙って引けば都合が良いというだけの話だ。
その単純さを、今はむしろ冷静に見ることができる。
「おやすみなさいませ、お母様」
礼を崩さないままそう言うと、母は何か言いかけ、結局「ええ」とだけ答えた。
二階へ上がってからも、しばらく背中に視線を感じた。
だが振り返らなかった。振り返れば、またそこで母の都合の良い娘の顔をしなければならなくなる気がしたからだ。
自室の前まで来ると、廊下の端の高窓から、少しだけ夜風が入っていた。
濡れた庭の匂いは薄れ、代わりに、雨のあとによくある、石と土の熱がゆっくり抜けていくような匂いに変わっている。
マルトはすでに寝支度を整えて待っていたが、セリーヌはすぐには寝台へ入らなかった。
「灯りを一つだけ残して、下がってちょうだい」
侍女が下がると、部屋は急に広くなる。窓辺に立つと、庭の一部だけが暗がりの中に沈んで見えた。
白い石縁も、温室の輪郭も、昼や夕方ほどはっきりしない。
ただ、どこに何があるかは、見えなくても分かる。敷地の端の月桂樹、奥の果樹、庭番小屋、勝手口へ回る細道。
――明朝いちばんに書状が動く。
父の小書斎を通り、封がされ、表から使いが出る。
母はその順序を疑っていない。ラウルも、明日の道順をもう頭に入れているはずだ。
セリーヌは窓枠に指を置いた。
今までこの家の中で覚えてきたことは、ほとんどが耐えるための知識だった。
どの時間なら誰と顔を合わせずに済むか。どこなら泣いても見つかりにくいか。どうすれば妹の気まぐれを先に察して、傷を浅くできるか。
けれど、その知識は、使い方を変えれば別のものになる。
夜の庭は静かだった。夏のような濃い生命のざわめきはまだない。
葉の影もまだ若く、どこか頼りない。それでも春の終わりの空気には、次の季節へ向かう気配が確かにあった。
セリーヌは目を閉じ、明日の朝の家の動きを頭の中でなぞった。
父が起きる時刻。母が先に侍女を呼ぶ時刻。食堂へ温かい飲み物が運ばれる順番。
ラウルが表の扉へ向かうまでに通る廊下。勝手口の辺りに出入りする者たちの顔ぶれ。
その途中で、ふと一つ、昼には浮かばなかったことが頭をよぎった。
表から出るものは目立つ。
だが、庭から入るもの、庭へ出るものは、家の中ほどには気を配られない。
そして庭には、家族でも使用人でもないような顔で、自然に行き来できる人間がいる。
ジュリアンのことを思ったとたん、セリーヌは目を開けた。
利用しようと思ったわけではない。
ただ、その存在の置かれ方が、今の自分には妙に鮮やかに見えたのだ。
家の内側に染まりきっていないのに、屋敷の動きは分かっている。
誰かの命令で縛られているわけでもないから、かえって誰にも強く意識されない。
窓の外、雲の切れたところに、遅い月の光がほんの少しだけ滲んだ。
明日は晴れると、彼は言っていた。
それが本当なら、この湿った屋敷の輪郭も、朝には少し違って見えるかもしれない。
だが晴れたからといって、昼間に言われたことが消えるわけではない。むしろ、明るいぶんだけ、よく見えるだけだ。
セリーヌは窓辺を離れ、残した一つの灯りの下へ戻った。
寝台の脇の小机には、まだ何も置いていない。白い紙も、封も、鍵も、どれも表には出していない。
けれど頭の中では、家の中に広がる線が少しずつ別の形に組み替わりはじめていた。
雨上がりの湿り気を閉じ込めないよう、廊下の端の高窓だけが少し開けられている。
そこから入る空気は冷たくはないが、磨かれた木や漆喰の匂いに、濡れた土の匂いを薄く混ぜていた。
壁の燭台には火が入り、長い廊下の床に橙色の光が途切れ途切れに落ちている。
セリーヌは温室脇の硝子戸を静かに閉めた。
庭から戻ったことを、誰かに告げる必要はない。
家族は今ごろ居間か、あるいは父の小書斎の近くでまだ何か話しているかもしれない。
使用人たちは食後の片づけに追われている時間だ。
こういう時刻の屋敷は、広いぶんだけ、人の目の薄い場所が増える。
廊下を折れたところで、セリーヌは足を止めた。
遠くではなく、比較的近いところで話し声がする。母の声だった。
抑えてはいるが、相手に指図している時の、角の取れた硬さがある。
相手は侍女ではない。返事の短さからして、使いに出る若い男か、書類を運ぶ下男だろう。
声は一階奥の小書斎の方から聞こえていた。
セリーヌは廊下の壁に沿って歩き、食堂の手前で一度立ち止まった。
そこから先は、正面から行けば見つかりやすい。
けれど食堂と小書斎のあいだには、暖炉の飾り棚と、柱の陰で半歩だけ死角になる場所がある。
昔、父に見つからずに食後の菓子をつまみたくて、エレオノールと競うように覚えた場所だった。
結局、見つかるのはいつも自分のほうだったけれど。
燭台の火に背を向けるようにしてその陰へ寄ると、声は思ったよりはっきり聞こえた。
「今夜はもう無理です。道も悪いですし、あちらも夜更けに使いを受けたくはないでしょう」
母の声。
「では明朝いちばんに。旦那様がお目通しのあとで封をなさいます」
「承知しました」
「表玄関からよ。裏手は使わないで。庭のほうはまだぬかるんでいますから」
若い男の返事のあと、紙の擦れる音がした。封筒か、書状の下書きか。
母は少し間を置いてから、今度はもっと低く言った。
「ベッリーニ家へは、こちらから先にお伝えしなければなりません。向こうから何か言い出す前に」
その語尾には、昼の小客間で見せた困惑めいた柔らかさはなかった。
もう母の中では、話は進めるものに変わっている。
娘の気持ちがどうであれ、家の段取りとして整えなければならない一件なのだ。
足音が近づいてきて、セリーヌは息を止めた。
若い男が小書斎から出てくる。手には革の書類挟みを持っていた。
顔までは見えないが、歩き方で誰か分かる。父の用を主に走るラウルだ。
表への使いも任される男で、仕事は早いが、気を取られると足元が少し荒くなる。
ラウルは食堂の前を通り過ぎ、そのまま玄関広間の方へ消えた。
母はまだ小書斎の中にいるらしい。机の上の何かを整えるような小さな物音が続いている。
セリーヌはその場を離れた。
今ここで中を覗くのは危うい。
母は、乱れのない部屋を好む一方で、手を入れたあとのわずかな違和感にも敏い。昼の父と違って、書状そのものの動きには目が利く。
さっき小書斎に入らなかったのは正しかったと、歩きながら思う。
廊下の先、玄関広間に面した大窓の前まで来ると、外の夜が硝子にぴたりと張りついていた。
雨はもう完全に上がっている。雲の切れ間がどこかで開いたのか、空の低いところにだけ、遅れた青白さが残っていた。
大窓の下には、昼に飾られた花がまだそのまま置かれている。白い百合と、まだ開ききらない薄紅の薔薇。
春の終わりの花は、豪奢に見えて少し息が短い。今夜の湿り気の中にあると、匂いばかりが濃くなって、かえって落ち着かない。
セリーヌは二階へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
玄関広間の脇、表階段の下に近いところに、外套掛けが置かれている。
家族のものは上へ運ばれるが、客や使いの外套、庭から入った者が一時的に置くものは、ここへ寄せられることがあった。
今も数枚の上着が掛かっている。その中に、庭の泥が乾ききらずに残った濃い色の外套が一枚混じっていた。
ジュリアンのものだと、なぜかすぐ分かった。
庭番の息子で、直接の使用人ではない。だから庭番小屋からそのまま帰ることもあるし、用があれば勝手口から母屋へ入ることもある。
家の中の人間でも、完全な外の人間でもない。その半端さが、この屋敷では案外自由を生むのだろう。
誰もが当然と思って見過ごす場所に、彼は自然に立てる。そのことが、今になって少しだけ心に引っかかった。
セリーヌは外套掛けの前を通り過ぎ、そのまま表階段へ向かった。
上ではもう、二階の燭台にもすべて火が入っているらしい。踊り場へかかる光が柔らかく揺れていた。
階段を上がりきる直前、下から母の声がした。
「セリーヌ」
振り向くと、母が一階の廊下から出てくるところだった。
昼の薄藤色のドレスのままではなく、夜用の落ち着いた濃紺に着替えている。火の色の中では、その濃紺がほとんど黒に見えた。
「まだ起きていたのね」
「少し、風に当たっていました」
「そう」
母は階段の下で立ち止まり、上を見上げた。その顔には、心配も、叱責も、どちらも中途半端にのっている。
夜が更ける前に娘の所在を確かめておきたい気持ちはあるのだろうが、今はそれ以上に、明朝の段取りのほうに気持ちが向いているのが透けて見えた。
「明日は少し早く起きなさい。ベッリーニ家からも、何かしら返事があるかもしれませんから」
「私にも関わることですものね」
「そういう言い方はよしなさい」
母の声は穏やかだった。穏やかなぶんだけ、余計に何かを覆っているように聞こえる。
「あなたにとっても辛いことであるのは分かっています。ですが、こうなった以上は、なるべく波立てずに済ませるほうが良いのです」
――波立てずに。
その言葉はこの家の祈りみたいなものだと、セリーヌは思った。
誰かが理不尽を飲み込むことで成り立つ静けさを、いつも「波立っていない」と呼んできたのだ。
「分かっております」
そう答えると、母は目を細めた。満足というより、安心に近い表情だった。
「あなたは本当に、そういうところだけは助かるわ」
言ってしまってから気づいたらしく、母の睫毛がわずかに揺れた。けれど取り消しはしなかった。
たぶん、もう遅いと思ったのだろう。
セリーヌは階段の手すりに手を置いたまま、母を見下ろしていた。
――助かる。
昼にも似たようなことを聞いた気がする。マルコの「助かる」、母の「助かる」。
意味は少し違うようでいて、結局どちらも、自分が黙って引けば都合が良いというだけの話だ。
その単純さを、今はむしろ冷静に見ることができる。
「おやすみなさいませ、お母様」
礼を崩さないままそう言うと、母は何か言いかけ、結局「ええ」とだけ答えた。
二階へ上がってからも、しばらく背中に視線を感じた。
だが振り返らなかった。振り返れば、またそこで母の都合の良い娘の顔をしなければならなくなる気がしたからだ。
自室の前まで来ると、廊下の端の高窓から、少しだけ夜風が入っていた。
濡れた庭の匂いは薄れ、代わりに、雨のあとによくある、石と土の熱がゆっくり抜けていくような匂いに変わっている。
マルトはすでに寝支度を整えて待っていたが、セリーヌはすぐには寝台へ入らなかった。
「灯りを一つだけ残して、下がってちょうだい」
侍女が下がると、部屋は急に広くなる。窓辺に立つと、庭の一部だけが暗がりの中に沈んで見えた。
白い石縁も、温室の輪郭も、昼や夕方ほどはっきりしない。
ただ、どこに何があるかは、見えなくても分かる。敷地の端の月桂樹、奥の果樹、庭番小屋、勝手口へ回る細道。
――明朝いちばんに書状が動く。
父の小書斎を通り、封がされ、表から使いが出る。
母はその順序を疑っていない。ラウルも、明日の道順をもう頭に入れているはずだ。
セリーヌは窓枠に指を置いた。
今までこの家の中で覚えてきたことは、ほとんどが耐えるための知識だった。
どの時間なら誰と顔を合わせずに済むか。どこなら泣いても見つかりにくいか。どうすれば妹の気まぐれを先に察して、傷を浅くできるか。
けれど、その知識は、使い方を変えれば別のものになる。
夜の庭は静かだった。夏のような濃い生命のざわめきはまだない。
葉の影もまだ若く、どこか頼りない。それでも春の終わりの空気には、次の季節へ向かう気配が確かにあった。
セリーヌは目を閉じ、明日の朝の家の動きを頭の中でなぞった。
父が起きる時刻。母が先に侍女を呼ぶ時刻。食堂へ温かい飲み物が運ばれる順番。
ラウルが表の扉へ向かうまでに通る廊下。勝手口の辺りに出入りする者たちの顔ぶれ。
その途中で、ふと一つ、昼には浮かばなかったことが頭をよぎった。
表から出るものは目立つ。
だが、庭から入るもの、庭へ出るものは、家の中ほどには気を配られない。
そして庭には、家族でも使用人でもないような顔で、自然に行き来できる人間がいる。
ジュリアンのことを思ったとたん、セリーヌは目を開けた。
利用しようと思ったわけではない。
ただ、その存在の置かれ方が、今の自分には妙に鮮やかに見えたのだ。
家の内側に染まりきっていないのに、屋敷の動きは分かっている。
誰かの命令で縛られているわけでもないから、かえって誰にも強く意識されない。
窓の外、雲の切れたところに、遅い月の光がほんの少しだけ滲んだ。
明日は晴れると、彼は言っていた。
それが本当なら、この湿った屋敷の輪郭も、朝には少し違って見えるかもしれない。
だが晴れたからといって、昼間に言われたことが消えるわけではない。むしろ、明るいぶんだけ、よく見えるだけだ。
セリーヌは窓辺を離れ、残した一つの灯りの下へ戻った。
寝台の脇の小机には、まだ何も置いていない。白い紙も、封も、鍵も、どれも表には出していない。
けれど頭の中では、家の中に広がる線が少しずつ別の形に組み替わりはじめていた。
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