婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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18 名刺入れの中の紙片

 ベッリーニ家の門前に着いた時、ヴァレール会頭はようやく一度だけ深く息を吐いた。
 馬車の揺れは短くもなく長くもなかったが、そのあいだじゅう気が休まることはなかった。書状が消えた朝の不手際を、頭の中で何度も押し戻してきたからだ。
 あれは紛失だ。誰かの意志ではない。家の中の不手際。
 そう片づけるほうが、まだ物事は前へ進む。

 ――そうでなければ困る。

 門をくぐり、庭を横切る石畳の先にベッリーニ家の玄関が見える。
 ヴァレール家ほど敷地は広くないが、商会としての手堅さがそのまま形になったような屋敷だった。
 見栄えよりも手入れが行き届き、余計な飾りは少ない。彼はこういう家を嫌いではない。むしろ話が早い家だと見てきた。
 だが今日ばかりは、その整い方が妙に息苦しい。

 玄関先で名を告げ、案内される。
 通されたのは一階奥の客間ではなく、小ぶりな応接室だった。内々の話に使う部屋なのだろう。余計な使用人の出入りが少なく、扉も厚い。
 アルド・ベッリーニは、ほどなく姿を見せた。
 年齢のわりに姿勢の崩れない男で、挨拶のひとつにも商家の会頭らしい無駄のなさがある。
 笑みを浮かべる時も、それがどこまで礼で、どこから値踏みか分かりにくい顔をしていた。

「これはこれは、わざわざお越しとは」
「急ぎ、お耳に入れておきたいことがありましてな」

 向かい合って腰を下ろす。茶が運ばれ、すぐに下がる。
 その短いあいだにも、ヴァレール会頭は話の切り出し方を整えていた。本来なら書状でひとまず筋を置き、今日はその補足に留めるつもりだったのだ。
 だがもうそうはいかない。
 だからこそ、余計に最初の一言を誤りたくない。上着の内側へ手を入れ、名刺入れを取り出す。
 そこまではいつも通りだった。
 銀の蓋を押し開き、一枚目の名刺を指に挟む。相手へ渡す、その動きの途中で、指先に妙な厚みが触れた。
 名刺ではない。紙の角だ―― ヴァレール会頭の指が、ほんのわずか止まる。
 止まったのは一拍にも満たないはずだった。
 だが目の前のアルド・ベッリーニは、そういうわずかな止まり方を見逃す男ではなかった。会頭の顔に、ほんの少しだけ別の色がさしたのを、たしかに見た。

「……失礼」

 名刺を渡したあと、ヴァレール会頭は続きを取り出すふりをして、その薄い紙に指を触れる。
 折り畳まれた細い紙片。自分で入れた覚えはない。家で誰かが紛れ込ませたのか。あるいは、さっき玄関で。
 いや、そんなことを今ここで考えても仕方がない。だが捨て置くには異物すぎた。

「どうかなさいましたか」

 ベッリーニが穏やかに問う。穏やかだが、その目はもう相手の動揺を拾っていた。

「いえ」

 ヴァレール会頭は名刺入れをいったん膝の上へ置き、その細い紙片だけを指先で抜く。
 見ないまましまうことも出来た。けれど、この場で触れてしまった以上、何かしら厄介なものなら自分の知らぬまま相手の前へ持ち込むほうがまずい。
 折り畳みを開く。字は見覚えのないものだった。
 だが書かれていることは、見覚えがありすぎた。

 ――四月半ば以降の庭側出入りをお確かめください。ヴァレール家庭番記録に、「ベッリーニ家の若君、庭より来訪。奥様ご承知とのこと」とあります。

 たったそれだけの文面を読み終えるまでに、会頭の顔から血の気がどれほど引いたか、自分では分からなかった。

 ――庭側。
 ――若君。
 ――奥様ご承知。

 それらは、結びついてはならない語だった。
 アルド・ベッリーニは何も言わない。
 ただ、相手の沈黙が普通の沈黙ではないことだけは、見て取っている。商談なら、この一拍で値が変わる。そういう間だった。

「……どうやら、まず確認すべきことが出来ましたな」

 ベッリーニは静かに言う。その声で、ヴァレール会頭はようやく紙から目を上げた。
 応接室の空気はさっきと同じはずなのに、もう別の場所へ来てしまったような感じがする。ここで「何でもない」と押し切れるような紙ではない。
 よりによって、相手の家の若君の名が書かれている。
 そして何より、これがただの中傷の紙切れではない可能性を、ヴァレール会頭自身がいちばん感じてしまっていた。
 四月半ば。春の社交が一段落し、家の出入りが表より裏で増え始める時期。
 エレオノールの様子が少し落ち着かなかった頃。妻が、妙に物分かりよくなったように見えた頃。
 ……セリーヌとマルコの婚約を、改めて急がねばと妻が言い出した頃。
 それらが、今、この一枚の細い紙の上でぴたりと重なる。

「何か、私どもの家に関わることでしょうか」

 ベッリーニはあくまで礼を崩さないまま言う。
 だがその目の色はもう、最初に客を迎えた時のものではなかった。相手の訪問を“内々の相談”として受ける目から、“何を持ち込まれたのか見定める”目に変わっている。
 ヴァレール会頭はすぐには答えられなかった。
 こういう時、父としての顔と会頭としての顔は、必ずしも同じ方向を向かない。
 父ならば、まず紙を握りつぶして否定したい。会頭ならば、紙をなかったことにはせず、相手に見せるべきか隠すべきかを一瞬で決めねばならない。
 だが今日に限っては、そのどちらも鈍った。
 朝の書状紛失から続く不快が、まだ体のどこかに残っている。その上に、こんな紙が名刺入れへ紛れ込んでいた。
 家を出るまで誰も気づかなかった。
 いや、自分だけが気づかなかったのかもしれない。そう考えた途端、怒りより先に薄い寒気がした。
 そっとベッリーニは手を差し出す。

「拝見しても?」

 問いかけの形ではあったが、断ればそれ自体が答えになる。ヴァレール会頭は、ほんのわずか迷ったあと、その紙を渡した。
 受け取ったベッリーニは、ひと目で文面を追った。
 追い終えたあともすぐには返さない。紙の大きさ、字の癖、余白の取り方まで見ているのが分かる。
 やがて、彼はひどく静かに紙を畳んだ。

「……これは?」
「出所は分かりません」

 ヴァレール会頭は、ほとんど反射でそう言った。

「だが、だからといって無視出来る類のものではないでしょうな」
「そのようですな」

 ベッリーニは紙をテーブルの上へ置いた。指先は穏やかだが、その穏やかさの下で何かが動いている。
 息子の名前が、他家の庭の裏手と一緒に書かれている。それを平然と飲み込める父親なら、会頭にはなっていない。

「私は本日、別件で伺ったのです」

 ヴァレール会頭はそう言ったが、言いながらその言葉がひどく白々しく聞こえた。
 別件。
 ほんの数分前まではそうだった。けれど今、あの書状の中身をそのまま切り出すことは、もはや不可能に近い。
 ベッリーニはそれを承知で、わざと聞かない。

「まずはこちらの確認が先でしょう」

 ただ低く、そう言う。
 ヴァレール会頭の胸に、じわりとした怒りが戻ってきた。誰へ向かう怒りなのか、まだ自分でも分からない。
 マルコか。妻か。エレオノールか。紙を差し込んだ何者かか。あるいは、そうしたものを一つも見抜けなかった自分か。
 その怒りの中に、別の感情も混じっていた。――恥だ。
 商家の会頭として、他家へ出向きながら、相手の前で家の内側の腐りを見せつけられた。その恥が、皮膚のすぐ下まで来ている。

「若い者の浅慮というなら、それはそれで済む話ではありません」

 ベッリーニの声音は穏やかなままだった。

「しかも『奥様ご承知』とある」

 その一言で、ヴァレール会頭のこめかみがわずかに動く。言われたくないところを、正確に押されたのだ。
 もしこれがただの逢引きなら、まだマルコ一人の問題に押し込めることも出来た。だが母親の了承めいた言葉が添えられていれば、話は家の顔へつながる。
 ヴァレール会頭は、そこでようやく妻の顔を思い出した。
 朝の静かな焦り。書状が消えたあとでも、やけに段取りよく次を整えようとしていた様子。
 昨夜からずっと、自分より一歩先へ進んでいるように見えたこと。

 ――あれは、ただ家を回すための落ち着きだったのか?
 ――あるいは、別の何かを知っていたからか?

 思った瞬間、胸の中の怒りは形を変えた。外へ向けるより先に、家の中へ戻ってくる怒りだった。

「……本日は、これで失礼したほうがよさそうですな」

 ヴァレール会頭が言うと、ベッリーニは否定しなかった。

「そのほうがよろしいでしょう。こちらも、息子に確かめねばなりません」
「当然です」
「そして、そちらも」

 最後まで言わずに、言葉を切った。
 そちらも家の中を確かめねばならない。そういう意味であることは、言われなくても分かる。

 ◇

 応接室を辞したあと、ヴァレール会頭は玄関までの短い廊下を妙に長く感じた。
 使用人に案内されながらも、頭の中ではもう帰ったあとのことが渦巻いている。
 妻に何を聞くか。マルコの出入りを誰が知っていたか。あの紙を誰が名刺入れへ入れたか。
 そして、その全部の出発点として、朝に失われた書状がもうどうでもよくなりかけていることに、途中で気づいた。
 いや、どうでもよくはない。だが優先順位が変わったのだ。

 馬車へ乗り込む時、会頭は上着の内側の名刺入れにもう一度だけ触れた。そこにはもう、異物はない。だが指先の感覚は消えなかった。
 門を出る馬車の中で、彼は初めてはっきりと思った。

 ――家の中で、誰かがこちらの顔を知っている。
 ――そして、その顔をずらしに来ている。

 その思いは、不快であると同時に、得体が知れず、妙に落ち着かなかった。
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