婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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46 「長女様が」

 その綻びは、翌日になると帳場の外へも顔を出した。

 朝のうち、マドレーヌ夫人は久しぶりに小客間へ古くからの取引先を迎えることになっていた。
 大きな商談ではない。だが軽く見てもいけない相手だ。
 モレッティ夫人――南から嫁いできた寡婦で、香料や薄絹の細い取引をいくつも握っている女である。社交の席では柔らかく笑うくせに、仕入れや贈答の好みとなると驚くほど細かい。
 こういう相手に対して、マドレーヌ夫人はいつも小さな気を使う。
 香りの強すぎない茶。卓布の色。手土産に見せる品の順。
 そして、何気ない会話の途中で相手の求めるものへ自然に話を寄せること。
 ……以前なら、その最後のところをセリーヌが静かに支えていた。
 モレッティ夫人は、派手な品を好まない。だが上質さには敏い。南方の色を懐かしみはするが、露骨な異国趣味は嫌う。
 夫人はその匙加減をし、セリーヌはそれを
 今朝は、それがない。小客間には別の布がかけられていた。
 前日の花染め布の件を引きずって、夫人は無難な淡灰の卓布を選ばせた。
 悪くはない。だが、モレッティ夫人の好む柔らかな南の記憶からは少し遠い。
 迎えた相手は、やはりすぐそこへ目を留めた。

「今日はずいぶん落ち着いたお色ね」

 穏やかに笑って言う。

「ええ、このところ空が不安定でしょう」

 マドレーヌ夫人が返す。

「せめて室内だけでも静かにと思って」
「まあ、そういう静けさも好きよ」

 言葉としては褒めている。けれど、ほんの少しだけ物足りないと思っている時の声だと、夫人には分かった。
 茶が運ばれ、話は季節の贈り物へ移る。例年なら、ここでセリーヌがさりげなく香料箱か薄絹見本の位置を整え、モレッティ夫人の好む薄い金茶や乾いた青を手前へ出す。
 今は侍女がただ言われた通りの順に並べているだけだった。
 モレッティ夫人は箱の中を見て、少しだけ首を傾げた。

「今年は、あの落ち着いた青は無いの」
「あの青」
「ええ、去年の初夏に見せてくださったでしょう。雨上がりの石みたいな色」
「……」

 マドレーヌ夫人は一瞬、返事に詰まった。
 覚えていないわけではない。だが、どの仕入れのどの箱だったかまでは曖昧だ。
 あれはたしか、セリーヌが「この方にはこちらのほうが」と静かに入れ替えていた色だ。会話の最中には自然すぎて、彼女は自分が最初からそれを用意させたような顔をしていた。
 いざ自分だけで再現しようとすると、その「自然」がどこにも無い。

「今年はまだ、そこまで揃っていないの」

 マドレーヌ夫人は笑みを崩さずに言った。

「そう」

 モレッティ夫人が小さく頷く。

「いつも、あの静かな娘さんが上手に見せてくださっていたから」

 その一言が、夫人の胸へひどく静かに落ちた。
 静かな娘さん。つまりセリーヌだ。
 相手は悪気なく言っている。むしろ褒めている。
 だが今、その名の不在を、外の人間の口からこういうふうに指でなぞられると、思った以上に堪える。

「……長女は少し静養しておりますの」

 夫人は整えた声で言う。

「まあ。お大事に」
「ええ、ありがとう」

 そこまでは何とか形を保てた。保てたが、そのあとの品の話では、やはり少しずつ噛み合わないものが出た。
 モレッティ夫人は色を一つずつ確かめ、香りの強さを問い、包みの紙質まで見る。
 マドレーヌ夫人も応じる。応じるが、いちばん必要な「あの方は何を選ばせれば満足し、どこを少し落とせば気づかれないか」という勘所だけが薄い。
 以前ならセリーヌが埋めていた隙だ。
 話が終わり、モレッティ夫人が帰る頃には、何とか形整った。だが夫人には、その「何とか」の感触がありありと残った。相手もきっと、今日はいつもより少し骨が折れたと思っているだろう。

 客を見送ったあと、マドレーヌ夫人はしばらく小客間に立ち尽くした。
 卓布は落ち着いている。茶器も乱れていない。
 会話も決定的に外したわけではない。
 ……なのに、がずっと足りない。その足りなさが、自分の手際不足だけと分かるのが、また腹立たしかった。
 同じ頃、帳場では別の客が声を荒げていた。今度は古い織物商だ。
 ベルナール会頭が先月口約束で値を動かした件で、番頭の控えと食い違いが出ている。
 それもまた、以前ならセリーヌが「この方は前にこう言っておられた」とそっと控えを出し、会頭の顔を潰さずに話を収めていた類の揉め事だった。

「私は、あの時たしかに――」

 織物商が言う。

「それを示す紙は」

 若い番頭が答える。

「紙ではなく、会頭の前で長女様が」
「長女様?」

 相手がそこで怪訝な顔をした。
 ベルナール会頭は奥でその言葉を聞いた。聞いて、しばらく出ていけなかった。
 また長女様だ。またセリーヌだ。しかも今度は帳場の内輪ではなく、外の商人の口から出た。
 結局、会頭自ら出ていき、値を少し下げることで収めた。
 損は小さい。だが損より嫌なのは、相手が帰り際にぽつりと言った一言だった。

「いつも、あのお嬢様がいらっしゃる時は話が早いのですがな」

 皮肉ではない。本当にそう思っているだけの、商人らしい感想だった。
 だからこそ、余計に効いた。

 その日の夕方、ベルナール会頭が屋敷へ戻ると、マドレーヌ夫人は食堂ではなく小客間にいた。卓の上には、モレッティ夫人へ見せたままの香料箱がまだ半分開いている。
 夫人はそこへ手をつけず、窓の外を見ていた。初夏に届く前の陽が、部屋の隅だけを少し金色にしている。

「そちらもか」

 会頭が入るなり言う。夫人は振り向いた。

「ええ」
「何が」
「モレッティ夫人に、セリーヌのことを言われたわ」
「……」
「“いつもあの静かな娘さんが上手に見せてくださっていたから”ですって」

 ベルナール会頭は何も言わなかった。代わりに、近くの椅子へ腰を下ろす。
 疲れているのは分かっていた。
 だが今日の疲れは、単なる商いの疲れではない。自分が見ていなかったものを、外から順番に指さされる疲れだ。

「帳場でも同じだ」

 会頭が言う。

「織物商にまで言われた。“あのお嬢様がいらっしゃる時は話が早い”と」
「ええ」
「……」
「ええ」

 二人のあいだで、その「ええ」だけが妙に長く残る。
 セリーヌは、家の内だけで働かせていたつもりだった。少なくともベルナール会頭もマドレーヌ夫人も、そう見ていた。
 だが実際には、内にいたまま外へも効いていたのだ。それも、静かに、自然に、誰の顔も立てながら。
 今になって、その不在だけが外側からも見える。

「……あの子は、ずっと」

 マドレーヌ夫人がぽつりと言う。

「私達より先に、相手の好みも、帳場の癖も、覚えていたのかもしれないわね」
「かもしれんな」
「かもしれない、ではないのかもしれない」
「……」

 ベルナール会頭は答えず、机の上の香料箱を見た。
 南の香り、乾いた青、雨上がりの石の色。そういうものを、誰にも大袈裟に見せず、相手の前へ出す娘だった。
 その娘を、自分達は“地味で分別がある”で済ませていた。今はもう、その言い方がどれほど雑だったかしか見えない。
 窓の外で風が動き、卓布の端がほんの少しだけ揺れた。誰もそれを押さえなかった。
 いつもなら、セリーヌがごく自然に手を伸ばしていたような気がする。そんな小さなことまで、今は妙に目につく。
 部屋の中に、静かな疲れだけが積もっていった。
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