婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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49 再会と落雷と

 南の倉の前で、エレオノールは一度だけ立ち止まった。
 ここまで来るあいだ、頭の中では何度も会う場面を繰り返していた。
 マルコが驚き、駆け寄り、何より先に「来てくれたのか」と言う。あるいは、せめて名前を呼ぶ。
 そういう、熱と疲れの向こうに置いてきた期待だけが、どうにか足を動かしていたのだ。
 けれど今、目の前にあるのは低い倉と、川気を含んだ重い空気と、板敷きの荷場だけだった。
 木箱の匂い。縄の擦れる音。遠くの雷。
 ……どれも、逢引きの続きを迎える場所ではない。
 倉の脇で人足が二人、麻袋を積み替えている。ひとりがこちらを見て、怪訝そうに眉を寄せた。
 そりゃそうだろうと、エレオノールは思う。
 帽子もケープも埃っぽく、頬には熱が残り、汗で襟元まで貼りついている。ここへ来る前の自分なら、こんな姿で人前へ立つなど耐えられなかった。
 だが今は、それどころではないだけだ。

「どなたに御用で?」

 年かさの番人が問う。エレオノールは喉の渇きを飲み込み、まっすぐ言う。

「マルコ様に」
「若旦那様に?」
「ええ。伝えてちょうだい。エレオノールが来たと」

 番人の顔が変わる。名を聞いて、事のまずさを悟ったのだろう。
 けれど、その時にはもう遅かった。倉の奥の帳場口に、人影が現れたからだ。マルコだった。
 昼の仕事の途中なのだろう。上着は着ているが襟元は少し緩み、袖もいつもより無造作だ。
 顔色は日に焼け、頬の線もこのひと月でわずかに削がれて見えた。以前のような、磨かれた若旦那の余裕とは違う。
 だがいま目を見開いて立ち止まったその顔には、見覚えのある若い男の動揺が、ひどくむき出しに出ていた。
 そしてその目が、エレオノールを頭から足元まで一度に見た。
 ……華やかな娘ではなかった。
 髪は帽子の下で乱れ、旅の埃が裾にうっすらつき、頬には汗の乾いたあとが残っている。
 いつもなら薄く香るはずの花の匂いもない。ただ暑さと長い道のりと、必死でここまで来た疲れが、そのまま立っている。
 マルコの顔に浮かんだものは、まず驚きだった。次に、ひどくはっきりした動揺。
 そして、そのあとに来たのが――喜びではなかった。

「……どうして来た」

 最初の言葉は、それだった。
 エレオノールの胸のどこかが、その場で小さく切れた。

 ――どうして来た。

 来てくれたのか、ではなく。名前でもなく。抱き留めるでもなく。
 ここまで意地で来た熱が、その一言で急に別の熱へ変わる。

「……どうして、ですって?」

 声が少し掠れた。
 それでも笑わなかったのは、今の自分には笑う余裕が無かったからだ。

「あなたが何も寄越さないからよ……」
「エレオノール」
「……電報を打ったでしょう?」
「だからだ。だから、どうして本当に来たんだ?」

 マルコは数歩こちらへ来たが、駆け寄るわけではない。その半端な近づき方が、余計にエレオノールを苛立たせた。
 荷場の空気はむっとするほど暑い。川からの湿りが服へまとわりつき、帽子の下の額だけがじわじわ熱い。
 そこへきてこの男は、心配と困惑を同じ顔で出している。

「本当に来たんだ、ですって?」

 エレオノールは言う。

「来るしかなかったのよ」
「来るしかなかったことなんてない」
「あるわ! だって私、何も知らされないままだったもの! 白紙にするとか、会うなとか、私だけ部屋へ閉じ込められて、あなたからは何も来ないで」
「寄越せるわけがないだろう」
「そんなの分かってるわよ!」

 思った以上に大きな声が出た。
 人足たちが手を止める。番人が困った顔で周囲を見る。夏の重い空気の中で、声だけがやけに遠くまで飛んだ。

「だから来たの! 私が! ねえ、分かるでしょう、そんなこと!」

 そこまで言った時、息が上がっているのに気づいた。
 暑さのせいだけではない。ここまで堪えてきたものが、一気に口から出ようとしているせいだ。
 マルコは一瞬だけ顔をしかめた。それは怒りではなく、痛みを見た時の顔に近かった。
 だが次の言葉は、やはりエレオノールの欲しいものではなかった。

「君は来てはいけなかった……」

 その一言が、今度はもっと深く刺さった。

 ――来てはいけなかった。

 ここまで来たのに。
 暑さも、道も、向いていないことも、全部飲んで、意地で来たのに。

「……そう」

 エレオノールは笑いそうになった。うまくいかない時にだけ出る、薄い笑いだ。

が最初なのね」
「そうじゃない」
「そうよ。だってあなた、私を見て最初に“どうして来た”って言ったもの」
「エレオノール、今は」
「今は? 今は何? 家の話? 倉の仕事? またそうやって私より先に別のことを言うの?」

 マルコが何か言い返しかけたところで、空が低く鳴った。
 今度ははっきりした雷だ。遠くではない。
 荷場の人足の一人が「来るぞ」と叫び、もう一人が慌てて麻袋へ覆い布をかけに走る。暑さに煽られた空気が、一気に動いた。
 風が吹き込む。川の湿りと土の匂いが混じった重たい風で、エレオノールの帽子の縁があおられる。
 押さえた手が間に合わず、帽子がひとつ横へ飛んだ。

「あっ」

 思わず追いかけたのが、まずかった。
 帽子は板敷きの端を転がり、その先の荷の積み場へ入る。そこにはちょうど、覆い布をかけかけた木箱が仮置きされていて、足元の板も少し湿っていた。
 エレオノールは裾を押さえるのも忘れて一歩踏み出し、――次の瞬間、靴底がずるりと滑った。

「危ない!」

 誰かが叫ぶ。だがその声より先に、体が傾いた。
 荷場の端は川へ落ちるわけではない。けれど板の下はぬかるみで、その横には積み替え前の木箱が不安定に寄せてある。
 エレオノールの肩が最初の箱へぶつかり、その箱が傾き、後ろの小さな木箱が一つ崩れた。
 マルコが手を出したのは、その瞬間だった。
 腕を掴む。だが勢いがつきすぎていて、引き留めるというより一緒に倒れる形になる。
 エレオノールの体が半ばマルコへぶつかり、二人とも荷場の端のぬかるみへ膝から落ちる。その拍子に、崩れた木箱の一つがさらに滑って、人足の足元へ当たった。

「このっ」

 人足が思わず怒鳴る。

「何してやがる!」

 雷がまた鳴る。今度は近い。
 風がひどくなって、覆い布の端がばたつき、別の木箱まで不安定に揺れる。

「押さえろ!」
「そっち危ねえ!」

 荷場が一瞬で騒然となった。
 マルコはぬかるみに片手をつきながら、エレオノールの肩を抱くようにして支えた。
 だがその手つきは、恋人を抱き寄せるものではなかった。倒れた荷の下へ入らないよう、危ない位置から引きずり出すための、咄嗟の力だけだった。

「立てるか」

 息を切らして言う。

「足は」
「……」

 エレオノールはすぐには答えられなかった。膝が痛い。手のひらにも、ざらりと擦れた感触と痛みがある。
 帽子はもう泥に落ちている。外套の裾にもぬかるみがついた。ひどい有様だった。
 そして何より、その「立てるか」という声が、優しさより先に焦りと実務でできていることが、はっきり分かった。
 こんなふうにさせたのは自分だろう。それは分かる。
 でも、ここまで来て最初に受け取るのがこれなのかと思うと、胸の奥が熱くなりすぎて何も言えない。
 マルコはエレオノールを立たせかける。だがその背後で、さっき怒鳴った人足が苛立った顔でこっちへ歩いてくるのが見えた。
 荷が崩れたのだ。当然だろう。しかも相手は汗だくの仕事の最中で、そこへよそ者の娘が飛び込んできた。

「若旦那様!」

 番人も駆けてくる。その顔にはもう「内輪の揉め事」として流せない色があった。

「このお嬢さん、危ねえですよ!」

 人足が言う。

「荷が一つ割れかけた」
「分かっている」

 マルコが低く返す。

「まず布を」
「そうじゃねえ、何でこんな女が――」

 そこで人足の視線がエレオノールへ落ちた。
 汗で乱れた髪。泥のついた裾。息を切らした顔。令嬢には見える。だが令嬢らしい整った姿ではない。
 だから余計に場違いに見えたのだろう。

「おい、あんた、勝手に」
「やめろ」

 マルコが間に入る。

「触るな」
「触ってねえよ、だが」
「俺が話す」

 その声が思った以上に鋭く、人足の顔も一瞬だけ硬くなる。
 けれど荷場の男は、会頭の息子だからといってすぐ頭を垂れるような相手ではない。ここでは荷の無事が先だ。そういう空気がある。

「話す前に荷だ」

 番人が切った。

「夕立が来る。若旦那様、こっちは私がまとめますから、お嬢さんを奥へ」

 その判断だけは早かった。
 雷がまた鳴る。今度は空気そのものが震えるような音で、川面の向こうの雲がいよいよ濃くなっていた。遠くに雨の匂いも混じり始めている。
 マルコは一瞬だけ迷い、それからエレオノールの腕を取った。

「中へ」
「……」
「エレオノール」
「……放して」

 低く言うと、自分でも驚くほど冷たい声が出た。
 マルコの目が動く。今ようやく、荷や人足ではなく、彼女自身の顔へ気づいたみたいに。

「……私は」

 エレオノールは息を整えようとしたが、うまくいかなかった。

「ここまで、来たのよ」
「分かってる」
「分かってないわ」
「今ここで言うことか」
「そうよ、今ここでしか言えないでしょう!」

 その声が、また少し大きくなった。
 風が強くなる。人足たちが覆い布を押さえ、誰かが馬を引いて奥へ入れる。
 全部がぐしゃぐしゃで、自分もぐしゃぐしゃだった。

「私は、向いてないのに来たのよ」

 エレオノールは言った。

「こんなこと、何一つ向いてない。馬車も、荷車も、道も、暑さも、全部嫌だった。それでも来たの!」
「……」
「それなのにあなた、最初に“どうして来た”って言ったわ」

 そこまで言った時、雨粒が一つ、頬へ当たった。大きな粒だった。
 夏の夕立の始まりの粒だ。
 マルコは何か言おうとした。けれどその前に、空が裂けるみたいな雷が落ち、荷場の向こうで馬がいなないた。

「若旦那様、早く!」

 番人の怒鳴りが飛ぶ。
 風と雨が一気に来る。覆い布が鳴り、ぬかるみがさらに深くなり、荷場の板も一瞬で滑りやすくなる。
 マルコはエレオノールの腕をもう一度掴んだ。今度は拒む隙もない強さで、半ば引きずるように倉の内側へ連れていく。
 エレオノールは裾を汚したまま、泥のついた帽子も拾えないまま、その力に従うしかなかった。
 倉の中へ入った瞬間、外で何か大きなものが倒れる音がした。
 風に煽られた覆い布ごと、積みかけの木箱が一山崩れたのだろう。人足たちの怒声が重なり、川の匂いを含んだ雨が、開け放った口から斜めに吹き込んでくる。
 エレオノールは倉の薄暗がりの中で、ようやく息を吸った。
 汗も、雨も、泥も、全部が肌へ貼りついている。髪は乱れ、膝は痛く、手のひらも擦れて熱い。
 こんな姿で会いたくなかった。こんなふうに、荷と雷と怒鳴り声の中で、言い争いたくもなかった。
 ……けれど現実は、こんなふうにしか来なかった。
 マルコはすぐそばに立っている。肩で息をし、袖にも泥がつき、先ほどまでの倉番の顔と、昔の若い男の顔が、ひどく半端に混ざっていた。
 その半端さが、これからエレオノールをもっと深く傷つけるのだと、まだ二人とも知らないままに。
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