(5/6完結予定)婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

文字の大きさ
52 / 59

52 二人に残された最後の熱

 夕立は、倉へ駆け込んだあともしばらく容赦がなかった。
 屋根を叩く音がひどく大きい。薄い板壁を打つ雨は、外の世界をそのまま消してしまうみたいに荒く、時々その上から雷が重なった。
 荷場で崩れた箱を立て直す怒鳴り声も、覆い布を引く音も、全部が雨音の向こうで少し歪んで聞こえる。
 マルコはエレオノールを倉の奥へ連れていった。そこは帳場机のさらに裏、小さな休み部屋のような場所だった。
 板壁で半ば仕切られ、古い椅子と簡素な寝台がひとつ、隅に洗い桶があるだけの部屋だ。
 本来は番人が夜の見回りの合間に腰を下ろす場所なのだろう。居心地のよい部屋ではない。だが今は、荷と人足の怒鳴り声から少し離せるだけで十分だった。

「座れよ」

 マルコが言う。エレオノールは返事をしなかった。
 しなかったが、足に体重をかけた瞬間、膝のあたりがひどく痛んで、結局よろめくように古い椅子へ腰を下ろす。その時になって、ようやく自分の有様がはっきりした。
 右の膝の横が擦れている。ケープの裾に泥がつき、靴の片方にもぬかるみがはねていた。手のひらは両方ともざらついて、指を曲げるとひりひりする。転んだ時に板で擦ったのだろう。
 足首は折れてはいない。けれど、妙に熱くて、踏み込むと鈍い痛みが奥へ響く。
 軽い怪我だ。たぶん本当に、その程度なのだろう。
 けれど疲れと暑さと恥ずかしさの中では、その軽さが少しも軽く感じられなかった。
 マルコは戸口で一瞬迷い、それから外へ向かって声を投げた。

「水を」
「今持ってきます!」

 番人の声が返る。それからマルコはやっとこちらへ向き直った。
 距離が近い。狭い部屋のせいで、逃げるほどの間がない。
 なのに、その近さが甘いものでは少しもないことが、エレオノールには痛かった。

「どこを打った?」

 マルコが問う。

「別に」
「別に、で済む顔か」
「あなたに心配されたくて来たみたいに聞こえるわね」

 言った瞬間、自分でも嫌な言い方だと思った。だが止められなかった。
 マルコの眉が寄る。

「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話よ」
「エレオノール……」

 その名を呼ぶ声にも、戸惑いと焦りが混じっている。けれど、自分が求めていた熱とはやはり違う。
 エレオノールは俯いた。帽子を失った髪が頬へ張りついている。鏡がないまでも、今の自分がどれほどひどい顔をしているかは分かった。
 汗も、雨も、泥も、旅の疲れも、全部が一度に貼りついている。
 こんな姿を見せたかったわけではない。もっとちゃんと、せめて会った瞬間くらいは、自分が来たことだけで彼の顔が変わるところを見たかった。
 なのに実際にあったのは、荷場の事故と「どうして来た」だ。
 番人が水差しと布を持ってきた。

「若旦那様、とりあえずこれを」
「置いてくれ」
「足は?」
「あとで見る」
「医者を呼びますか」
「雨が弱まってからだ」
「分かりました。荷はこっちで何とかします」

 番人はエレオノールをちらと見た。
 責めるでもなく、哀れむでもない。ただ「厄介が一つ増えた」という視線だった。
 その視線が去ると、部屋の中にまた雨音だけが残る。マルコは洗い桶に水を少し注ぎ、布を濡らした。

「手を」
「自分で出来るわ」
「今はそういうことを言ってる場合じゃない」
「あなた、さっきからずっとそうね」

 エレオノールが顔を上げる。

「今は。今は。今は」
「……」
「私は、ここまで来たのよ」
「分かってる」
「分かっていないわ!」

 声を張れば、喉がひりひりと痛む。それでも止まらない。

「私は暑くて、揺られて、道も分からなくて、それでも来たの。向いてないことくらい自分でも分かってる。でも来たのよ」
「だからだ」

 今度はマルコの声が少し強くなった。

「だから来るなと言ってるんだ!」
「……来るなって、今さら」
「今さらでもだ!」

 その一言で、部屋の空気が張った。
 マルコ自身も、少し遅れて自分の声の強さに気づいたらしい。手の中の濡れ布を一度だけきつく絞り、それから低く言い直す。

「……君はこんなところへ来るべきじゃなかった」
「それは、私のために?」
「そうだ」
「嘘」

 エレオノールは即座に返した。

「本当は、困るからでしょう」
「困る」
「そうよ。荷場で事故になって、人足にも見られて、父上にも兄上にも知られる。あなたはそれが先なんでしょう」

 マルコの顔が一瞬動いた。図星だったのだろう。
 それを見てしまうと、ここまで耐えてきた疲れが別のかたちでこみ上げる。

「私は」

 エレオノールは言った。

「あなたに会いたくて来たの。白紙だの何だの、人づての言葉じゃなく、あなたの口から聞きたかった」
「……」
「なのにあなた、最初に困る顔をしたわ」
「困るに決まっているだろう」
「ほら」

 笑いそうになって、笑えなかった。

「やっぱりそうなのね」

 その言葉のあとで、部屋の中へ沈黙が落ちた。外では雨がまだ強い。人足たちの声も少し遠ざかった。
 荷の立て直しが落ち着いてきたのかもしれない。そのぶん、二人のあいだの息の乱れだけがやけに聞こえる。
 マルコはやがて、濡れ布を持ったまましゃがみこんだ。

「手を出してくれ」

 今度の声はさっきより低かった。強いとも優しいともつかない。
 ただ、放っておけない時の現実の声だ。エレオノールは少し迷ってから、右手を差し出した。
 手のひらに布が触れる。冷たさがまず来て、そのあとで擦り傷がじんと痛んだ。思わず肩が跳ねる。

「痛い?」
「当たり前でしょう」
「……そうだな」

 返事がひどく間が抜けていて、それがかえって腹立たしい。
 マルコは手のひらの泥を拭い、指先の間に残った小さな砂を取る。
 手つきは思っていたより慎重だった。倉で働き始めてから、自分の手で人や荷へ触ることが増えたせいかもしれない。
 以前の彼なら、もっと綺麗事だけで済ませただろう。その変化が、今のエレオノールにはつらい。
 少し頼もしくなったようでもあり、そのぶん自分の知らない時間を過ごしてきたのがはっきり見えてしまうからだ。

「足は」

 マルコが言う。

「見せて」
「嫌よ」
「エレオノール」
「こんなところで?」
「こんなところに来たのは君だ」
「……」

 その言い方に、また胸がちくりとする。けれど足首に体重をかけるたび痛むのも本当だった。
 エレオノールは唇を噛み、ゆっくりと裾を少しだけ持ち上げる。
 靴の留め具を外すのにも指がうまく動かず、途中でマルコの手が伸びる。自分でやると言いたいのに、今はその手を払うほどの力も気力もなかった。
 靴を脱ぐと、足首の外側が少し赤く腫れていた。ひどくはない。けれど、今すぐ歩けば痛いだろうと見て分かる程度には腫れている。

「捻ったんだな」
「分かってるわ」
「折れてはいない」
「それも分かる」
「……」

 マルコはそれ以上言い返さず、布を水で濡らし直して足首へ当てた。冷たさがじわっと広がる。気持ちいいのに、どこか悔しい。
 しばらく二人とも喋らなかった。その沈黙の中で、エレオノールはひどく疲れている自分に気づく。
 ここまでは意地で来た。来た途端に言い争い、転び、荷を崩し、雨に打たれた。
 怒っているのに、同時に少し泣きたい。けれど泣いたら負ける気がして、瞼だけが熱い。
 マルコのほうも、疲れているのだろう。肩で息をしながら、視線を足首へ落としている。
 その顔を見ると、ふと、以前より少し日に焼けていることや、頬の線が前より硬いことまで分かる。

「……あなた、変わったわね」

 思わずそう言うと、マルコの手が一瞬止まった。

「そうか」
「前はもっと」
「もっと?」
「綺麗だった」

 言ってから、あまりに変な言い方だと自分で思った。けれど訂正する気にもなれない。
 マルコは少しだけ苦い顔をした。

「君は、変わらないと思っていたのか」
「思ってたわけじゃない」
「なら」
「でも、こんなふうに会うとは思わなかったの」

 その言葉が、ようやくいちばん正直だった。
 こんな倉で。荷と雨と泥の中で。恋人らしい再会ではなく、怪我の手当ての最中みたいに。
 マルコは足首へ布を当てたまま、しばらく何も言わなかったが、やがて低く。

「俺もだ」

 たったそれだけなのに、エレオノールは返事が出来なかった。
 外でまた雷が鳴る。そのあと、誰かが倉の前で馬車の音に気づいたらしい声がした。
 まだ遠い。けれど近づいてくる。
 マルコもそれを聞いたようで、顔を上げる。

「……来たか」

 誰が、とは言わない。言わなくても分かる。両家の大人たちだ。
 ここまでだと、エレオノールは思った。
 ようやく来て、ようやく会って、ようやく言いたいことの半分くらいを吐いたところで、もう終わる。
 そのことが急に、ひどく悔しかった。

「私はまだ」

 口を開く。

「何も聞いてないわ」
「聞いてないことだらけだ」
「白紙って、あなたは本当にそうしたいの」
「……」
「答えて」

 マルコは少しだけ目を伏せた。その一拍が、エレオノールには何より痛い。

「今の俺が答えても」
「答えて!」
「君が聞きたい答えにはならないかもしれない」

 その瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちて行くのがわかる。来る途中で薄々感じていた温度差が、はっきりと形を持つ。
 このひとは今、自分と同じ熱の場所には立っていない。好きとか嫌いとかの前に、仕事と父と家と事故の中にいて、そこからこちらを見ている。
 それが現実なのだろう。
 それでも、ここまで来た身には痛すぎた。
 エレオノールは顔を逸らした。涙はまだこぼれない。けれど、こぼれないほうがむしろ辛い気がした。
 外では、馬車の音が雨音の向こうで少しずつ近づいていた。夏の夕立の中を、両家の大人たちがこちらへ来る。
 その前の、ほんの短い時間だけが、二人に残された最後の熱だった。



※ いつも読んでいただきありがとうございます。
さて、本日から6時・17時公開枠で新作「結婚式で『愛することはできない』と言った夫が、身重の女性を連れて帰ってきました。」を公開致します。
お手隙の際によろしかったらどうぞ。
感想 111

あなたにおすすめの小説

完璧な夫に「好きになるな」と言われたので、愛されない妻になります

柴田はつみ
恋愛
結婚初夜、夫に「好きになるな」と言われました。 夫の隣には、馴れ馴れしい幼馴染令嬢。 ならば愛されない妻として身を引きます。 そう決めた途端、完璧な夫が私を手放してくれなくなりました。 侯爵令嬢エリシアは、王国一完璧な男と呼ばれる公爵レオンハルトに嫁いだ。 美貌、家柄、才能、礼儀。 何もかも完璧な夫。 けれど結婚初夜、彼は冷たい声で告げた。 「君は、私を好きになっては困る」 その言葉を聞いたエリシアは悟る。 この結婚は政略結婚。 夫の心には、自分ではない誰かがいるのだと。

【完結】身代わり皇妃は処刑を逃れたい

マロン株式
恋愛
「おまえは前提条件が悪すぎる。皇妃になる前に、離縁してくれ。」 新婚初夜に皇太子に告げられた言葉。 1度目の人生で聖女を害した罪により皇妃となった妹が処刑された。 2度目の人生は妹の代わりに私が皇妃候補として王宮へ行く事になった。 そんな中での離縁の申し出に喜ぶテリアだったがー… 別サイトにて、コミックアラカルト漫画原作大賞最終候補28作品ノミネート

〖完結〗旦那様が私を殺そうとしました。

藍川みいな
恋愛
私は今、この世でたった一人の愛する旦那様に殺されそうになっている。いや……もう私は殺されるだろう。 どうして、こんなことになってしまったんだろう……。 私はただ、旦那様を愛していただけなのに……。 そして私は旦那様の手で、首を絞められ意識を手放した…… はずだった。 目を覚ますと、何故か15歳の姿に戻っていた。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全11話で完結になります。

舌を切られて追放された令嬢が本物の聖女でした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。

婚約者を妹に譲ったら、婚約者の兄に溺愛された

みみぢあん
恋愛
結婚式がまじかに迫ったジュリーは、幼馴染の婚約者ジョナサンと妹が裏庭で抱き合う姿を目撃する。 それがきっかけで婚約は解消され、妹と元婚約者が結婚することとなった。 落ち込むジュリーのもとへ元婚約者の兄、ファゼリー伯爵エドガーが謝罪をしに訪れた。 もう1人の幼馴染と再会し、ジュリーは子供の頃の初恋を思い出す。  大人になった2人は……

さよなら、お門違い

クラム
恋愛
「君は健康だからいいよね」結婚記念日、夫は病弱(自称)な幼馴染を優先し、私を捨て置いた。侯爵令嬢エルナは決意する。この国を支える魔導結界、財政管理、屋敷の全実務――すべてを投げ出し、私の価値を正しく評価する場所へ行くと。鍵を折った瞬間、崩壊は始まった。今さら愛している? お門違いも甚だしいですわ。

初恋が綺麗に終わらない

わらびもち
恋愛
婚約者のエーミールにいつも放置され、蔑ろにされるベロニカ。 そんな彼の態度にウンザリし、婚約を破棄しようと行動をおこす。 今後、一度でもエーミールがベロニカ以外の女を優先することがあれば即座に婚約は破棄。 そういった契約を両家で交わすも、馬鹿なエーミールはよりにもよって夜会でやらかす。 もう呆れるしかないベロニカ。そしてそんな彼女に手を差し伸べた意外な人物。 ベロニカはこの人物に、人生で初の恋に落ちる…………。

傷付いた騎士なんて要らないと妹は言った~残念ながら、変わってしまった関係は元には戻りません~

キョウキョウ
恋愛
ディアヌ・モリエールの妹であるエレーヌ・モリエールは、とてもワガママな性格だった。 両親もエレーヌの意見や行動を第一に優先して、姉であるディアヌのことは雑に扱った。 ある日、エレーヌの婚約者だったジョセフ・ラングロワという騎士が仕事中に大怪我を負った。 全身を包帯で巻き、1人では歩けないほどの重症だという。 エレーヌは婚約者であるジョセフのことを少しも心配せず、要らなくなったと姉のディアヌに看病を押し付けた。 ついでに、婚約関係まで押し付けようと両親に頼み込む。 こうして、出会うことになったディアヌとジョセフの物語。