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54 世界は容赦なく
その夜のうちに、エレオノールは熱を出した。
南の倉から戻る馬車の中で、すでに顔色は悪かった。雨に打たれた髪は半乾きのまま肌へ張りつき、泥のついた裾からは冷えがじわじわ上がってくる。
足首の痛みも、走った時よりむしろ帰り道のほうがはっきりしてきて、馬車が石を踏むたび鈍く響いた。
最初のうちは、まだ気を張っていたのだろう。馬車の中ではほとんど喋らなかった。
母に肩を貸されても「大丈夫」とだけ言い、父が一度「気分は」と聞けば「平気です」と返した。
平気なはずがないことくらい、自分でも分かっていたろうに、それでもそう言わずにはいられなかったのだ。
屋敷へ着いて、自室へ運び込まれたあたりで、その張りが切れた。
濡れた服を脱がせる時にはもう、手足が妙に熱く、唇だけが少し白い。足首は腫れ、膝の擦り傷も雨と泥のせいでひどく痛んでいた。
医者が呼ばれ、捻挫は軽いがしばらく足をつくなと言い、擦り傷を洗い、ついでに額へ手を当てて「夜には熱が上がるでしょう」と残していった。
そして、その通りになった。夜半には、エレオノールは寝台の中で何度も寝返りを打った。
夏の夜だというのに悪寒がして、次の瞬間には喉がひどく渇く。額へ当てた布はすぐぬるくなり、侍女が替えに来るたび薄く目を開ける。
けれど目を開けても、天蓋の縁と燭台の火が揺れて見えるだけで、今どこまでが夢でどこからが現実なのかが曖昧だった。
南の倉の土の匂い。荷場の板のぬめり。崩れる木箱の音。
……マルコの「どうして来た」。
母の腕の硬さ。父の第一声が「損傷はどれだ」だったこと。
そういうものが、熱の中で何度も混ざり合って戻ってくる。
泣きたいのに、涙は出ない。その代わり、熱のせいで目の奥だけがじんと重かった。
翌朝になっても熱は引かなかった。昼には少し下がるかと思われたが、暑さのせいか、夕方になるとまた上がる。
足首の腫れはまだ残り、体を起こすだけで気分が悪い。食事も半分ほどしか入らない。
医者は「疲れと濡れと気鬱がいっぺんに来たのでしょう」と言ったが、その言い方が何だかひどく他人事めいて聞こえた。
エレオノールは三日ほど、ほとんど寝台の上で過ごした。その三日のあいだ、いろんな事が、扉の外で過ぎていった。
父とベッリーニ会頭のあいだで、荷場の損傷の扱いが決まった。表向きには、南の倉で夕立の最中に起きた小さな事故として処理されることになったらしい。
箱二個の損、作業中の不手際、責任は折半。その中に、エレオノールの名は載らない。
載らないかわり、家の内側ではもっと重く残る。
マルコは南から動かさない、という話も聞こえてきた。むしろ、倉の仕事をさらにきつく見させるらしい。
それを告げる声を、エレオノールは半分眠った頭で聞いた。ロジーナが女中頭から聞いてきたのか、あるいは母付きの侍女が廊下で話していたのか、はっきりしない。
ただ「すぐ戻すつもりは無いようです」という断片だけが、熱の中でも妙にはっきり胸へ落ちた。
そしてセリーヌの名も、時々聞こえた。直接ではない。だが帳場の困りごとや、客筋の話の端々に、いなくなった長女の働きが今さら口へ上るらしいことは、寝台の上にいても分かった。
「長女様がいらした頃は」
「前はもっと話が早く」
「帳面の並びが違っていて」
そういう断片だ。
エレオノールは熱の中で、それを聞くたびに妙な気持ちになった。悔しい。今さら皆がそんなことを言うのか、と。
けれど同時に、もう否定も出来ない。
セリーヌは本当に、静かなまま、いろんなところを支えていたのだろう。そして自分は、それをほとんどちゃんと見ていなかった。
見ていなかったことが、今になって熱より鈍く痛む。
四日目の朝、ようやく熱が少しだけ下がった。額の布が外され、窓のカーテンも半分開けられる。
外はすっかり夏の光だった。雨の翌日らしく空は妙に高く、庭の葉は洗われたみたいに濃い緑をしている。
温室の硝子も、白い石縁も、痛いほどはっきり見えた。
その明るさが、エレオノールには少しまぶしすぎた。
寝台へ半身を起こし、枕へもたれる。熱のあいだに髪はほどかれ、編み直され、また少し乱れている。
顔色もまだ悪い。鏡を見ずとも、自分が弱っている顔をしているのは分かった。
ロジーナがそっと茶を持ってきた。
「少しお召し上がりになりますか」
「……ええ」
カップを受け取る手が、まだ少し頼りない。熱は下がっても、体の芯に残るだるさは消えなかった。
足首もまだ腫れていて、寝台から下りる気にはなれない。
「お母様は」
ふと尋ねる。
「帳場のほうへ」
「お父様は」
「今朝は早くから」
それだけで十分だった。自分が寝込んでいるあいだも、家は止まらない。
当たり前だ。自分が熱を出そうが、足を捻ろうが、帳場は動き、取引先は来て、父と母は整え続ける。
その事実が、少し前よりずっと現実として分かる。
そして、その流れの中で、自分一人だけが寝台へ取り残されている感じがした。
マルコは今ごろ、南の倉でまた荷の数でも見ているのだろうか。自分と同じように熱を出したりはしていないだろう。きっともう、雨のあとのぬかるみや損傷の帳尻に頭を切り替えている。
そう思うと、胸の奥にまたあの時の温度差が戻ってきた。
ここまでして会いに行ったのに。あの人は、困っていた。
もちろん困るに決まっている。なのに、その「決まっている」が、今もまだ痛い。
エレオノールは茶を少しだけ飲み、目を閉じた。
熱でぼんやりしていた数日のあいだに、いろんな事が勝手に過ぎていった。
両家で損の話がつき、マルコの処遇が決まり、父と母はまた別の整え方を考え、帳場ではセリーヌの名がようやく働きとして語られる。
そして自分は、そのどれにも手を出せず、ただ寝ていた。それが何より堪えた。
向いていないなりに、意地だけで南まで行った。あれほど必死に動いた。
なのに結局、戻ってきたら熱を出して、何もかもに置いていかれる。
そのことが、病み上がりの体にひどく重たかった。
窓の外では、夏の光が少しずつ庭の影を詰めている。世界は、エレオノールが寝込んでいるあいだにも、容赦なく進んでいた。
南の倉から戻る馬車の中で、すでに顔色は悪かった。雨に打たれた髪は半乾きのまま肌へ張りつき、泥のついた裾からは冷えがじわじわ上がってくる。
足首の痛みも、走った時よりむしろ帰り道のほうがはっきりしてきて、馬車が石を踏むたび鈍く響いた。
最初のうちは、まだ気を張っていたのだろう。馬車の中ではほとんど喋らなかった。
母に肩を貸されても「大丈夫」とだけ言い、父が一度「気分は」と聞けば「平気です」と返した。
平気なはずがないことくらい、自分でも分かっていたろうに、それでもそう言わずにはいられなかったのだ。
屋敷へ着いて、自室へ運び込まれたあたりで、その張りが切れた。
濡れた服を脱がせる時にはもう、手足が妙に熱く、唇だけが少し白い。足首は腫れ、膝の擦り傷も雨と泥のせいでひどく痛んでいた。
医者が呼ばれ、捻挫は軽いがしばらく足をつくなと言い、擦り傷を洗い、ついでに額へ手を当てて「夜には熱が上がるでしょう」と残していった。
そして、その通りになった。夜半には、エレオノールは寝台の中で何度も寝返りを打った。
夏の夜だというのに悪寒がして、次の瞬間には喉がひどく渇く。額へ当てた布はすぐぬるくなり、侍女が替えに来るたび薄く目を開ける。
けれど目を開けても、天蓋の縁と燭台の火が揺れて見えるだけで、今どこまでが夢でどこからが現実なのかが曖昧だった。
南の倉の土の匂い。荷場の板のぬめり。崩れる木箱の音。
……マルコの「どうして来た」。
母の腕の硬さ。父の第一声が「損傷はどれだ」だったこと。
そういうものが、熱の中で何度も混ざり合って戻ってくる。
泣きたいのに、涙は出ない。その代わり、熱のせいで目の奥だけがじんと重かった。
翌朝になっても熱は引かなかった。昼には少し下がるかと思われたが、暑さのせいか、夕方になるとまた上がる。
足首の腫れはまだ残り、体を起こすだけで気分が悪い。食事も半分ほどしか入らない。
医者は「疲れと濡れと気鬱がいっぺんに来たのでしょう」と言ったが、その言い方が何だかひどく他人事めいて聞こえた。
エレオノールは三日ほど、ほとんど寝台の上で過ごした。その三日のあいだ、いろんな事が、扉の外で過ぎていった。
父とベッリーニ会頭のあいだで、荷場の損傷の扱いが決まった。表向きには、南の倉で夕立の最中に起きた小さな事故として処理されることになったらしい。
箱二個の損、作業中の不手際、責任は折半。その中に、エレオノールの名は載らない。
載らないかわり、家の内側ではもっと重く残る。
マルコは南から動かさない、という話も聞こえてきた。むしろ、倉の仕事をさらにきつく見させるらしい。
それを告げる声を、エレオノールは半分眠った頭で聞いた。ロジーナが女中頭から聞いてきたのか、あるいは母付きの侍女が廊下で話していたのか、はっきりしない。
ただ「すぐ戻すつもりは無いようです」という断片だけが、熱の中でも妙にはっきり胸へ落ちた。
そしてセリーヌの名も、時々聞こえた。直接ではない。だが帳場の困りごとや、客筋の話の端々に、いなくなった長女の働きが今さら口へ上るらしいことは、寝台の上にいても分かった。
「長女様がいらした頃は」
「前はもっと話が早く」
「帳面の並びが違っていて」
そういう断片だ。
エレオノールは熱の中で、それを聞くたびに妙な気持ちになった。悔しい。今さら皆がそんなことを言うのか、と。
けれど同時に、もう否定も出来ない。
セリーヌは本当に、静かなまま、いろんなところを支えていたのだろう。そして自分は、それをほとんどちゃんと見ていなかった。
見ていなかったことが、今になって熱より鈍く痛む。
四日目の朝、ようやく熱が少しだけ下がった。額の布が外され、窓のカーテンも半分開けられる。
外はすっかり夏の光だった。雨の翌日らしく空は妙に高く、庭の葉は洗われたみたいに濃い緑をしている。
温室の硝子も、白い石縁も、痛いほどはっきり見えた。
その明るさが、エレオノールには少しまぶしすぎた。
寝台へ半身を起こし、枕へもたれる。熱のあいだに髪はほどかれ、編み直され、また少し乱れている。
顔色もまだ悪い。鏡を見ずとも、自分が弱っている顔をしているのは分かった。
ロジーナがそっと茶を持ってきた。
「少しお召し上がりになりますか」
「……ええ」
カップを受け取る手が、まだ少し頼りない。熱は下がっても、体の芯に残るだるさは消えなかった。
足首もまだ腫れていて、寝台から下りる気にはなれない。
「お母様は」
ふと尋ねる。
「帳場のほうへ」
「お父様は」
「今朝は早くから」
それだけで十分だった。自分が寝込んでいるあいだも、家は止まらない。
当たり前だ。自分が熱を出そうが、足を捻ろうが、帳場は動き、取引先は来て、父と母は整え続ける。
その事実が、少し前よりずっと現実として分かる。
そして、その流れの中で、自分一人だけが寝台へ取り残されている感じがした。
マルコは今ごろ、南の倉でまた荷の数でも見ているのだろうか。自分と同じように熱を出したりはしていないだろう。きっともう、雨のあとのぬかるみや損傷の帳尻に頭を切り替えている。
そう思うと、胸の奥にまたあの時の温度差が戻ってきた。
ここまでして会いに行ったのに。あの人は、困っていた。
もちろん困るに決まっている。なのに、その「決まっている」が、今もまだ痛い。
エレオノールは茶を少しだけ飲み、目を閉じた。
熱でぼんやりしていた数日のあいだに、いろんな事が勝手に過ぎていった。
両家で損の話がつき、マルコの処遇が決まり、父と母はまた別の整え方を考え、帳場ではセリーヌの名がようやく働きとして語られる。
そして自分は、そのどれにも手を出せず、ただ寝ていた。それが何より堪えた。
向いていないなりに、意地だけで南まで行った。あれほど必死に動いた。
なのに結局、戻ってきたら熱を出して、何もかもに置いていかれる。
そのことが、病み上がりの体にひどく重たかった。
窓の外では、夏の光が少しずつ庭の影を詰めている。世界は、エレオノールが寝込んでいるあいだにも、容赦なく進んでいた。
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