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52 ようやく聞かされること
本家からの返事は、思っていたより早く届いた。
しかも書面は短かった。
丁重な挨拶のあとに、今回の件については書状だけでやりとりするより、直接会って話したほうがよいと思うこと。ついては、都合のよい日に夫妻で来てほしいこと。
そうした文面が、驚くほど整った筆跡で並んでいた。
ヘレンはそれを読んで、机の端へそっと置いた。
呼ばれたのだ、と思う。
こちらが問いを投げたから返事が来た、というより、ようやく向こうが“会ってやってもいい段”へ話を移した、というほうが近い気がした。
そういうところも、いかにも本家だった。
出向く日取りはすぐに決まった。
エドマンドは「行かないわけにもいかんだろう」と言ったきりで、それ以上の感想は口にしなかった。
ヘレンも、そこに多くを求めなかった。今の夫に期待しても仕方のないことがあると、近ごろはよく分かっていたからだ。
馬車で本家の屋敷へ向かうあいだ、二人の会話は多くなかった。
初夏に近づいたとはいえ、空はまだどこか冷たく、車窓の外の並木も明るいばかりではない。ヘレンは手袋をはめた手を膝の上に重ね、今日このあと何を聞くべきかを、頭の中であらためて並べ直していた。
――曖昧な言い方で逃がされないこと。
――「気分の波がある」とか「少し繊細」とか、その程度の言葉で終わらせないこと。
――外で何があり、なぜ兄の縁談に差し障る話になったのか。
――そして、なぜそれをこちらへ預けたのか。
そこまで行って、馬車がゆるやかに止まった。
本家の屋敷は、やはり立派だった。
古さそのものが威圧になるような家だ。手入れは行き届き、石段の角まで無駄がない。古い家格というものを、こういうところで見せるのだろう。
出迎えたのは、本家の奥方だった。
エミリーの母にあたるその人は、以前と変わらず柔らかな声、きれいな姿勢、相手に先に不快を見せない顔を向ける。
だが、ヘレンにはもう、それが安心の材料にはならなかった。
「わざわざお越しいただいて」
「こちらこそ、お時間をいただいてしまって」
そう言葉を交わしながら、ヘレンは相手の目を見ていた。
やつれも焦りもない。少なくとも、娘が預け先で婚約をひとつ潰しかけた母親の顔には見えなかった。
通されたのは、大きな応接間ではなく、少し奥まった談話室だった。
内輪の話にしたい、ということなのだろう。
本家の当主も、ほどなく姿を見せた。
年齢はエドマンドとそう変わらないはずだが、目つきのせいか、もっと老成して見える。家を背負う人間の顔というものなのかもしれない。
ひととおりの挨拶が終わっても、誰もなかなか核心に触れなかった。
茶が運ばれ、天候のことが二言三言交わされる。その表向きの整え方が、ヘレンにはかえって苛立たしかった。
だから最初に切り出したのは、彼女のほうだった。
「今回の件につきまして」
声はあくまで落ち着いた調子に保つ。
「アシュフォード家から抗議を受け、こちらとしても、もう従来どおりの理解では対処できないと考えるに至りました」
本家の奥方が、かすかに頷く。
「そうでしょうね」
その返答に、ヘレンはほとんど表情を変えなかったが、内心では少しだけ驚いた。もっとぼかされると思っていたからだ。
「ですから、伺いたいのです」
ヘレンは続けた。
「そもそも、エミリーさんをこちらで長くお預かりすることになった当初の事情を」
言い終えたあと、部屋がひどく静かになった。
本家の当主はすぐには答えなかった。代わりに、隣に座る妻を一度だけ見た。
その視線ひとつで、この夫婦が何をどう共有しているのか、ヘレンにはだいたい察しがついた。
話すかどうかは、妻のほうが決めるのだ。
やがて、本家の奥方が静かに口を開いた。
「最初に申し上げますけれど」
「ええ」
「こちらとしても、何もかも軽く見ていたわけではないのです」
その言い方に、ヘレンは胸の内で冷たく思う。
――何もかも軽く見ていたわけではない。
そういう前置きがつく時は、たいてい核心が遅い。
「でしたら、なおさら正確に伺いたいのです」
ヘレンは答えた。
「今回のようなことが起きた以上、こちらも“少し落ち着かない方だから”という理解のままでいるわけにはまいりません」
本家の当主が、そこでようやく口を開いた。
「あれの兄の縁談があった」
唐突な一言だった。
けれど、そこへ来るだろうとは予想していた。
「ええ」
ヘレンは促した。
「ちょうど、こちらの長男に良い話が進みかけていた時期でね」
当主の口調は、まるで家計の話でもするように平板だった。
「エミリーは、少し……人へ寄りかかるところがある」
ヘレンはその表現のぬるさに、思わず指先へ力を入れた。
寄りかかる。
そう言えば、どんなものでも少しは柔らかく聞こえる。
「それが相手によってずいぶん違うようだ、とは、こちらでも薄々」
今度は奥方が引き取る。
「若い方が相手ですと、とくに」
その一言で、部屋の空気がまた一段静かになった。
エドマンドはそこで初めて、はっきり眉を寄せた。
どうやら、彼にとってもその言い回しは無視できない程度の重さを持っていたらしい。
「以前にも、何かあったのですか」
ヘレンはまっすぐ尋ねた。
奥方は、少しだけためらった。
だが、そのためらいは“言うべきかどうか”というより、“どこまで言うか”のためらいに見えた。
「ひとりの方に限った話ではありませんの」
その答えに、ヘレンは内心でぞくりとした。
――ひとりの方に限った話ではない。
「社交の場で、少し甘えたような距離の詰め方をしてしまうことがあったのです」
奥方は続ける。
「もちろん、本人に深い計算があるわけではないのでしょう。ただ、その時その時で、自分を気にかけてくださる方へ寄ってしまうところがある」
それは、説明だった。
だが、ほとんど言い訳に聞こえなかったのは、もうヘレンがそういう段階を過ぎていたからだ。
「その結果、兄君の縁談に差し障りが出た……と?」
ヘレンがそう言うと、本家の当主が短く頷く。
「誤解を招きかねない場面がいくつかあった」
「誤解」
「そうだ」
その言い方の硬さに、ヘレンは少しだけ目を細めた。
誤解。
たしかに、その一語に押し込めることはできるだろう。
娘が若い男のそばで不自然に弱り、相手が断りにくい形で話を引き延ばし、周囲に妙な印象を残したとしても、それを“誤解”と呼ぶことは可能だ。
だがそれは、都合良く言い換えたに過ぎない。
「それで、こちらへ?」
エドマンドが、そこでようやく口を挟んだ。
本家の当主は、少しだけ肩を動かす。
「……こちらでもあれの置きどころに困ったのだ」
その言い方に、ヘレンは今度こそ、表情を変えないようにするのが少し難しかった。
置きどころに困った。
あまりにも正直で、あまりにも勝手な言い草だったからだ。
「兄の縁談が進む時期に、娘のほうで余計な影を落とすわけにはいかん。かといって、病弱な娘を露骨に遠ざけたと見せるのもよくない。だから、親族であるそちらに少し預かってもらうのが穏当だと判断した」
ヘレンは、その言葉を聞いて、胸の奥がすっと冷えていった。
穏当――?
はて、それは誰にとっての穏当なのか。
「その際に」
彼女はできるだけ平らに言った。
「こちらへ、過去の具体的な事情はほとんど知らされませんでしたが」
奥方が、小さく息をついた。
「ええ。わざわざ細部まで申し上げるのも、品がないと思いましたの」
その一言で、ヘレンの中の何かが、はっきりと切り替わった。
品がない。つまり、自分は知らされないまま、扱いだけを任されていたのだ。
火傷の理由は言わない。だが熱い鍋は渡す。そういうことではないか。
「品がない、ですか」
気づけば、声が少しだけ低くなっていた。
奥方はそこで初めて、ヘレンの顔をまともに見た。
「少なくとも、私はそう考えましたの」
「なるほど」
ヘレンはゆっくり頷いた。
「それで、こちらは何も知らされないまま長く預かり、ついには息子の婚約まで歪ませた、と」
その言い方には、さすがに棘があった。
エドマンドが横でわずかに身じろぎしたが、止めはしなかった。
止められる筋でもないと、ようやく分かったのかもしれない。
本家の当主は、そこで初めて少し不快そうな顔を見せた。
「そちらの息子殿が、そこまで引きずられるとは思わなかった」
その言葉に、ヘレンは思わず、冷たい笑いが胸の奥で立ちかける。
そこまで引きずられるとは思わなかった。
つまり、預ける側は、多少の影響は見込んでいたのだ。
「では、多少は引きずられる前提だったのですね」
ヘレンは静かに返した。
その一言に、今度は奥方が口を閉ざした。
図星なのだろう。
大ごとにならぬ程度に、誰かが気を配り、誰かが構い、そのぶん本家の屋敷の中からは少し遠ざけられる。
そういう都合のよい見通しが、最初からあったのだ。
ヘレンはその瞬間、ようやく本当に分かった気がした。
自分は、何を預けられていたのか。
病弱な親族ではない。
人の注意と良心へ寄りかかり、その場その場の関係をじわりと歪める厄介ごとそのものを、きれいな言い方で渡されていたのだ。
しかも、知らないほうが品がいいという理由で。
「以前の件で」
彼女は続けた。
「相手方の家に、正式な抗議や申し入れはありましたの?」
本家の当主は、ほんのわずかに沈黙した。
「そこまでには至らなかった」
「至らなかった、のではなく」
ヘレンは言った。
「そこへ行く前に、こちらへ移されたのではありませんか」
また沈黙が落ちる。それが答えだった。
エドマンドは、そこでようやく本当に黙り込んだ。
彼もここまで具体的だとは思っていなかったのだろう。顔に出るほどではないが、目だけははっきり変わっている。
本家の奥方は詰まらせた声を喉の奥から押し出すようにして吐き出す。
「……こちらとしても、最善を尽くしたつもりでしたの」
「最善」
ヘレンはその言葉を繰り返した。
「どなたにとっての、ですか」
その問いには、誰もすぐには答えなかった。
兄の縁談にとって。本家の体面にとって。社交界での見え方にとって。
少なくとも、グランヴィル家にとってではないし、ましてアシュフォード家の娘にとってでもない。
そのことが、今ではあまりにもはっきりしていた。
やがて、ヘレンは静かに立ち上がった。
まだ話を切り上げるには早いかもしれない。けれど、いま自分が座ったままこれ以上やりとりを続けると、たぶん声がもっと冷たくなる。それが分かったからだ。
「よく分かりましたわ」
そう言った時、自分でも驚くほど気持ちは落ち着いていた。
「何が、です」
奥方が問う。ヘレンはその人を見た。
「何を、知らされないまま預かっていたのかが」
短く、それだけ。
本家の夫婦は、その言葉の意味をきちんと受け取っただろう。
これはもはや“親族間のちょっとした相談”ではない。責任の押しつけ先にされていた側が、それを理解した、という宣言なのだ。
エドマンドも立ち上がる。
彼はまだ完全に状況を咀嚼しきれていない顔だったが、それでもここで妻に逆らうほど鈍くはなかった。
◇
帰りの馬車の中で、二人はしばらく何も言わなかった。
窓の外では、夕方の光が少しずつ傾いていく。古い並木も、石の塀も、屋敷の門も、行きより少しだけ違って見えた。
最初に口を開いたのは、エドマンドだった。
「……聞いていたより、ずっとひどかったな」
ヘレンは、その言葉に返事をしなかった。
ひどかった。たしかにそうだ。
だが彼女の胸の内にあるものは、それだけではなかった。
知らされていなかったこと。
品がないからと、理由を伏せられていたこと。
その結果、こちらの家で何が起ころうと、本家はどこか他人事の位置にいられたこと。
それを全部ひっくるめて、ひどいと思った。今、この時も。
そして同時に、もうこれ以上、自分がその“整え役”を引き受ける理由はどこにあるのだろう、とも。
馬車が大きく揺れた時、ヘレンは膝の上の手袋を見た。
指先には、ほんの少し跡がついている。知らないうちに、強く握っていたらしい。
彼女はその跡を見つめながら、はじめてはっきり思った。
この家のために、どこまでを私が引き受けたものか、もう考え直してもよいことなのかもしれない。
夕暮れの光が、馬車の窓から差し込んで、ほんの一瞬だけ彼女の手元を明るくした。
しかも書面は短かった。
丁重な挨拶のあとに、今回の件については書状だけでやりとりするより、直接会って話したほうがよいと思うこと。ついては、都合のよい日に夫妻で来てほしいこと。
そうした文面が、驚くほど整った筆跡で並んでいた。
ヘレンはそれを読んで、机の端へそっと置いた。
呼ばれたのだ、と思う。
こちらが問いを投げたから返事が来た、というより、ようやく向こうが“会ってやってもいい段”へ話を移した、というほうが近い気がした。
そういうところも、いかにも本家だった。
出向く日取りはすぐに決まった。
エドマンドは「行かないわけにもいかんだろう」と言ったきりで、それ以上の感想は口にしなかった。
ヘレンも、そこに多くを求めなかった。今の夫に期待しても仕方のないことがあると、近ごろはよく分かっていたからだ。
馬車で本家の屋敷へ向かうあいだ、二人の会話は多くなかった。
初夏に近づいたとはいえ、空はまだどこか冷たく、車窓の外の並木も明るいばかりではない。ヘレンは手袋をはめた手を膝の上に重ね、今日このあと何を聞くべきかを、頭の中であらためて並べ直していた。
――曖昧な言い方で逃がされないこと。
――「気分の波がある」とか「少し繊細」とか、その程度の言葉で終わらせないこと。
――外で何があり、なぜ兄の縁談に差し障る話になったのか。
――そして、なぜそれをこちらへ預けたのか。
そこまで行って、馬車がゆるやかに止まった。
本家の屋敷は、やはり立派だった。
古さそのものが威圧になるような家だ。手入れは行き届き、石段の角まで無駄がない。古い家格というものを、こういうところで見せるのだろう。
出迎えたのは、本家の奥方だった。
エミリーの母にあたるその人は、以前と変わらず柔らかな声、きれいな姿勢、相手に先に不快を見せない顔を向ける。
だが、ヘレンにはもう、それが安心の材料にはならなかった。
「わざわざお越しいただいて」
「こちらこそ、お時間をいただいてしまって」
そう言葉を交わしながら、ヘレンは相手の目を見ていた。
やつれも焦りもない。少なくとも、娘が預け先で婚約をひとつ潰しかけた母親の顔には見えなかった。
通されたのは、大きな応接間ではなく、少し奥まった談話室だった。
内輪の話にしたい、ということなのだろう。
本家の当主も、ほどなく姿を見せた。
年齢はエドマンドとそう変わらないはずだが、目つきのせいか、もっと老成して見える。家を背負う人間の顔というものなのかもしれない。
ひととおりの挨拶が終わっても、誰もなかなか核心に触れなかった。
茶が運ばれ、天候のことが二言三言交わされる。その表向きの整え方が、ヘレンにはかえって苛立たしかった。
だから最初に切り出したのは、彼女のほうだった。
「今回の件につきまして」
声はあくまで落ち着いた調子に保つ。
「アシュフォード家から抗議を受け、こちらとしても、もう従来どおりの理解では対処できないと考えるに至りました」
本家の奥方が、かすかに頷く。
「そうでしょうね」
その返答に、ヘレンはほとんど表情を変えなかったが、内心では少しだけ驚いた。もっとぼかされると思っていたからだ。
「ですから、伺いたいのです」
ヘレンは続けた。
「そもそも、エミリーさんをこちらで長くお預かりすることになった当初の事情を」
言い終えたあと、部屋がひどく静かになった。
本家の当主はすぐには答えなかった。代わりに、隣に座る妻を一度だけ見た。
その視線ひとつで、この夫婦が何をどう共有しているのか、ヘレンにはだいたい察しがついた。
話すかどうかは、妻のほうが決めるのだ。
やがて、本家の奥方が静かに口を開いた。
「最初に申し上げますけれど」
「ええ」
「こちらとしても、何もかも軽く見ていたわけではないのです」
その言い方に、ヘレンは胸の内で冷たく思う。
――何もかも軽く見ていたわけではない。
そういう前置きがつく時は、たいてい核心が遅い。
「でしたら、なおさら正確に伺いたいのです」
ヘレンは答えた。
「今回のようなことが起きた以上、こちらも“少し落ち着かない方だから”という理解のままでいるわけにはまいりません」
本家の当主が、そこでようやく口を開いた。
「あれの兄の縁談があった」
唐突な一言だった。
けれど、そこへ来るだろうとは予想していた。
「ええ」
ヘレンは促した。
「ちょうど、こちらの長男に良い話が進みかけていた時期でね」
当主の口調は、まるで家計の話でもするように平板だった。
「エミリーは、少し……人へ寄りかかるところがある」
ヘレンはその表現のぬるさに、思わず指先へ力を入れた。
寄りかかる。
そう言えば、どんなものでも少しは柔らかく聞こえる。
「それが相手によってずいぶん違うようだ、とは、こちらでも薄々」
今度は奥方が引き取る。
「若い方が相手ですと、とくに」
その一言で、部屋の空気がまた一段静かになった。
エドマンドはそこで初めて、はっきり眉を寄せた。
どうやら、彼にとってもその言い回しは無視できない程度の重さを持っていたらしい。
「以前にも、何かあったのですか」
ヘレンはまっすぐ尋ねた。
奥方は、少しだけためらった。
だが、そのためらいは“言うべきかどうか”というより、“どこまで言うか”のためらいに見えた。
「ひとりの方に限った話ではありませんの」
その答えに、ヘレンは内心でぞくりとした。
――ひとりの方に限った話ではない。
「社交の場で、少し甘えたような距離の詰め方をしてしまうことがあったのです」
奥方は続ける。
「もちろん、本人に深い計算があるわけではないのでしょう。ただ、その時その時で、自分を気にかけてくださる方へ寄ってしまうところがある」
それは、説明だった。
だが、ほとんど言い訳に聞こえなかったのは、もうヘレンがそういう段階を過ぎていたからだ。
「その結果、兄君の縁談に差し障りが出た……と?」
ヘレンがそう言うと、本家の当主が短く頷く。
「誤解を招きかねない場面がいくつかあった」
「誤解」
「そうだ」
その言い方の硬さに、ヘレンは少しだけ目を細めた。
誤解。
たしかに、その一語に押し込めることはできるだろう。
娘が若い男のそばで不自然に弱り、相手が断りにくい形で話を引き延ばし、周囲に妙な印象を残したとしても、それを“誤解”と呼ぶことは可能だ。
だがそれは、都合良く言い換えたに過ぎない。
「それで、こちらへ?」
エドマンドが、そこでようやく口を挟んだ。
本家の当主は、少しだけ肩を動かす。
「……こちらでもあれの置きどころに困ったのだ」
その言い方に、ヘレンは今度こそ、表情を変えないようにするのが少し難しかった。
置きどころに困った。
あまりにも正直で、あまりにも勝手な言い草だったからだ。
「兄の縁談が進む時期に、娘のほうで余計な影を落とすわけにはいかん。かといって、病弱な娘を露骨に遠ざけたと見せるのもよくない。だから、親族であるそちらに少し預かってもらうのが穏当だと判断した」
ヘレンは、その言葉を聞いて、胸の奥がすっと冷えていった。
穏当――?
はて、それは誰にとっての穏当なのか。
「その際に」
彼女はできるだけ平らに言った。
「こちらへ、過去の具体的な事情はほとんど知らされませんでしたが」
奥方が、小さく息をついた。
「ええ。わざわざ細部まで申し上げるのも、品がないと思いましたの」
その一言で、ヘレンの中の何かが、はっきりと切り替わった。
品がない。つまり、自分は知らされないまま、扱いだけを任されていたのだ。
火傷の理由は言わない。だが熱い鍋は渡す。そういうことではないか。
「品がない、ですか」
気づけば、声が少しだけ低くなっていた。
奥方はそこで初めて、ヘレンの顔をまともに見た。
「少なくとも、私はそう考えましたの」
「なるほど」
ヘレンはゆっくり頷いた。
「それで、こちらは何も知らされないまま長く預かり、ついには息子の婚約まで歪ませた、と」
その言い方には、さすがに棘があった。
エドマンドが横でわずかに身じろぎしたが、止めはしなかった。
止められる筋でもないと、ようやく分かったのかもしれない。
本家の当主は、そこで初めて少し不快そうな顔を見せた。
「そちらの息子殿が、そこまで引きずられるとは思わなかった」
その言葉に、ヘレンは思わず、冷たい笑いが胸の奥で立ちかける。
そこまで引きずられるとは思わなかった。
つまり、預ける側は、多少の影響は見込んでいたのだ。
「では、多少は引きずられる前提だったのですね」
ヘレンは静かに返した。
その一言に、今度は奥方が口を閉ざした。
図星なのだろう。
大ごとにならぬ程度に、誰かが気を配り、誰かが構い、そのぶん本家の屋敷の中からは少し遠ざけられる。
そういう都合のよい見通しが、最初からあったのだ。
ヘレンはその瞬間、ようやく本当に分かった気がした。
自分は、何を預けられていたのか。
病弱な親族ではない。
人の注意と良心へ寄りかかり、その場その場の関係をじわりと歪める厄介ごとそのものを、きれいな言い方で渡されていたのだ。
しかも、知らないほうが品がいいという理由で。
「以前の件で」
彼女は続けた。
「相手方の家に、正式な抗議や申し入れはありましたの?」
本家の当主は、ほんのわずかに沈黙した。
「そこまでには至らなかった」
「至らなかった、のではなく」
ヘレンは言った。
「そこへ行く前に、こちらへ移されたのではありませんか」
また沈黙が落ちる。それが答えだった。
エドマンドは、そこでようやく本当に黙り込んだ。
彼もここまで具体的だとは思っていなかったのだろう。顔に出るほどではないが、目だけははっきり変わっている。
本家の奥方は詰まらせた声を喉の奥から押し出すようにして吐き出す。
「……こちらとしても、最善を尽くしたつもりでしたの」
「最善」
ヘレンはその言葉を繰り返した。
「どなたにとっての、ですか」
その問いには、誰もすぐには答えなかった。
兄の縁談にとって。本家の体面にとって。社交界での見え方にとって。
少なくとも、グランヴィル家にとってではないし、ましてアシュフォード家の娘にとってでもない。
そのことが、今ではあまりにもはっきりしていた。
やがて、ヘレンは静かに立ち上がった。
まだ話を切り上げるには早いかもしれない。けれど、いま自分が座ったままこれ以上やりとりを続けると、たぶん声がもっと冷たくなる。それが分かったからだ。
「よく分かりましたわ」
そう言った時、自分でも驚くほど気持ちは落ち着いていた。
「何が、です」
奥方が問う。ヘレンはその人を見た。
「何を、知らされないまま預かっていたのかが」
短く、それだけ。
本家の夫婦は、その言葉の意味をきちんと受け取っただろう。
これはもはや“親族間のちょっとした相談”ではない。責任の押しつけ先にされていた側が、それを理解した、という宣言なのだ。
エドマンドも立ち上がる。
彼はまだ完全に状況を咀嚼しきれていない顔だったが、それでもここで妻に逆らうほど鈍くはなかった。
◇
帰りの馬車の中で、二人はしばらく何も言わなかった。
窓の外では、夕方の光が少しずつ傾いていく。古い並木も、石の塀も、屋敷の門も、行きより少しだけ違って見えた。
最初に口を開いたのは、エドマンドだった。
「……聞いていたより、ずっとひどかったな」
ヘレンは、その言葉に返事をしなかった。
ひどかった。たしかにそうだ。
だが彼女の胸の内にあるものは、それだけではなかった。
知らされていなかったこと。
品がないからと、理由を伏せられていたこと。
その結果、こちらの家で何が起ころうと、本家はどこか他人事の位置にいられたこと。
それを全部ひっくるめて、ひどいと思った。今、この時も。
そして同時に、もうこれ以上、自分がその“整え役”を引き受ける理由はどこにあるのだろう、とも。
馬車が大きく揺れた時、ヘレンは膝の上の手袋を見た。
指先には、ほんの少し跡がついている。知らないうちに、強く握っていたらしい。
彼女はその跡を見つめながら、はじめてはっきり思った。
この家のために、どこまでを私が引き受けたものか、もう考え直してもよいことなのかもしれない。
夕暮れの光が、馬車の窓から差し込んで、ほんの一瞬だけ彼女の手元を明るくした。
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