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57 三人の医師の訪問
バーナード様がアシュフォード家へやって来たのは、午後の光がちょうどやわらかくなりはじめた頃だった。
しかも、ひとりではなかった。
先触れを受けて玄関へ出た時、私はまずキャサリン姉様の横顔を見て、少しだけおかしくなった。
姉様はふだん、よほどのことがなければ人前で顔色を変えない。
けれど、その日は違った。落ち着いた顔をしていらっしゃるのに、目だけが少し忙しいのだ。
馬車から先に降りたのは、見慣れぬ男性だった。
三十前後だろうか。明るい茶色の髪に、軽い身のこなし。目元がよく動く人で、初対面でもあまり空気を重くしない種類の雰囲気があった。
次に降りたのが、キャサリン姉様の婚約者、バーナード様だった。
以前お会いした時と比べても、やっぱりどこか少しもさっとしていた。姿勢は悪くないし、服装も整っている。けれど、立ち方や帽子の持ち方が、妙にきちんとしすぎていて、かえって不器用さが見えるのだ。
とはいえ、それは決して悪いものではない。馬車から足を下ろした瞬間の目だけは、まっすぐ姉様を探していた。
その目を見てしまうと、ああ本当に大好きなのだな、とこちらまで分かってしまうのだ。
最後に降りたのは、年長の男性だった。
四十代の半ばほどに見える、すっきりした顔立ちの医師らしい人で、余計な愛想はないが、こちらを値踏みするような嫌さもない。落ち着いている、というより、物事を急いで軽く扱わない人、という感じがした。
お父様とお母様が前へ出られる。
「ようこそお越しくださいました」
お母様がそうおっしゃると、バーナード様は帽子をきっちり持ち直し、少しだけぎこちなく一礼した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
そう言ってから、彼は一拍遅れてキャサリン姉様を見た。姉様も、そこでようやく表情をやわらげられる。
「お帰りなさい、バーナード」
「……ただいま戻りました」
その“ただいま”が妙にまじめで、ジョン兄様が横で小さく吹き出した。
「何で笑うの」
すぐにキャサリン姉様がそちらを向かれる。
「いや、だってさ」
「だって、ではありません」
「まだ玄関なんだけど」
「だから何なの」
その応酬のせいで、こちらまで少し肩の力が抜けた。
バーナード様の横にいた茶色の髪の男性が、そこで軽く咳払いをする。
「失礼、先に名乗るべきでしたね。アーサー・フィンチと申します。ウェストンの古い同僚です」
いかにも話しやすそうな声だった。続いて、年長の方が一歩進む。やはり医師なのだろう。
「ジュリアン・メレディスです。病院でウェストンとフィンチの上に立つ者だと思っていただければ」
その簡潔さが、何だか妙に似合っていた。
お父様が二人へ礼を返される。
「このたびは、わざわざ」
「こちらこそ」
メレディス先生は短く答えた。
「話は道すがら大方うかがいました。家の中の見立てを固める手伝いならできるかと」
その言い方に、ふわっとしたところが少しもなかった。頼もしい、と私は思う。
こういう時、ただ“ご心配でしょう”とか“つらかったでしょう”とか言われるのもありがたいけれど、それだけでは足りない。
見えているものを、そのまま言葉にしてくれる人が要るのだ。
◇
応接間ではなく、家族だけの広い居間へ通されることになった。
バーナード様は、椅子へ座るまでが少しぎこちなかった。
たぶん長旅の疲れもあるのだろうけれど、それ以上に、アシュフォード家へ来る前から頭の中で何度も段取りを並べていたのが見える。
何を先に言うべきか、誰に礼を言うべきか、どこまで自分が口を挟んでよいのか。その全部をきっちり考えた人の固さだった。
キャサリン姉様が、それを見て少しだけ微笑まれる。
「長旅でしたでしょう」
「ええ、少し」
「少し?」
ジョン兄様が口を挟んだ。
「顔はだいぶ疲れてるよ」
「ジョン」
キャサリン姉様の声がすぐ飛ぶ。
「そういうことを先に言わないの」
「いや、心配してるんだけど」
「心配の仕方が雑なの」
バーナード様はそこで、少しだけ困ったような顔をした。
「いえ、その……疲れていないとは言えません」
「正直でよろしい」
お母様がそうおっしゃって、部屋の空気が少しやわらいだ。
そのあとでようやく、話はきちんとしたほうへ向いた。
まずはバーナード様が、留学先で受け取った手紙のこと、教授に相談したこと、帰国してすぐ病院へ寄ったことを順に話した。
途中で言葉に詰まると、アーサー様は横から少しだけ補うが、メレディス先生は余計なところで口を挟まない。
こうして、三人で来た意味が、自然に見えてくる。
「私どもとしては」
バーナード様は、少しだけ前のめりになって言った。
「診断めいたことを軽々しく申し上げるつもりはありません。ただ、いま見えている型を、性格の良し悪しだけで片づけるのは危険だと考えています」
その言い方に、お父様が頷かれる。
「ええ」
「メレディス先生」
バーナードがそちらを見ると、先生は静かに口を開いた。
「一般論として申し上げます」
そう前置きしてから、先生は私たち一人一人を見るように話しはじめた。
「体調の波がある人間は実際におります。気分の浮き沈みが激しい人間もおります。それ自体を疑う必要はありません」
私は、膝の上で手を重ねた。
「ですが、その不調が、特定の相手の注意を引きたい時だけ前へ出る。あるいは、誰かが席を立とうとした時だけ強く見える。そういう“出方の偏り”があるなら、家族はそこを見なければなりません」
部屋の中はしんとしていた。
メレディス先生の声は大きくない。でも、この部屋の中で妙に響いた。
「さらに厄介なのは、本人に強い悪意の自覚がない場合です。自分では“少し苦しい”“少し寂しい”“少し話を聞いてほしい”と思っているだけなのかもしれない。けれど、その“少し”が、毎回相手の良心へ乗るようなら、周囲は確実に消耗します」
私はその言葉を聞きながら、あの日のお茶のことを思い出していた。
――少し立ちくらみがして。
――少しだけ、お茶を。
――長くはお引きとめしませんわ。
たしかに、全部“少し”だった。
でも、その少しで私はひどく疲れたのだ。
「ですから」
先生は続ける。
「今後、その方が相手である場合、善意の人間ほどひとりにしないこと。体調不安を訴えられても、その場にいる第三者や店の者、家の者へ渡すこと。おひとりで抱え込ませないこと。それが、家として最初に決めるべきことです」
お父様が短く言われる。
「決めております」
「それは結構」
先生の返事も短かった。
アーサー様もそこで、少しだけ笑う。
「先生、褒めてます」
「分かる」
「分かってるならいいです」
そのやりとりが、少しだけおかしくて、ジョン兄様が肩を揺らした。
「何だか病院の空気だね」
「病院の空気です」
アーサー様が即座に返したので、今度は私も少し笑ってしまった。
そのあとは、もっと実際的な話になった。
今後もし外でばったり会ったらどうするか。グランヴィル家から間接的な接触があった場合、誰を窓口にするか。
どの範囲までを“本人が受ける必要のないこと”としてよいのか。
ハロルド兄様が質問を重ね、お父様とお母様がそこへ判断を置き、メレディス先生が必要なところだけ補う。
アーサー様は時々、話が重くなりすぎると、少しだけ抜け道を作るみたいに軽い言葉を入れる。
その中で、バーナード様はずっときちんと座っている。でも、キャサリン姉様が何か言うたび、そちらへ目が行くのは隠せていなかった。
ジョン兄様がそれを見逃すはずもない。
「ねえバーナードさん」
いきなり呼ばれて、バーナード様が少し肩を揺らす。
「はい」
「さっきから姉様のほうばっかり見てるよね」
部屋が、一瞬だけ静まり、それからすぐに気配だけがざわついた。
「ジョン!」
キャサリン姉様が、めずらしく本当に頬を赤くされた。
「だって見てるじゃん」
「見ていても言わなくていいの!」
「ええと」
バーナード様の困り方が、あまりにも真面目で、今度はハロルド兄様まで口元をわずかに動かす。
「否定はしないんだな」
「そこを否定するのも、不自然かと」
「まあ」
キャサリン姉様が額へ手を当てられる。
「この人、ほんとうに」
でも、声は少し笑っていた。
アーサー様はその様子を眺めながら、愉快そうに言った。
「こいつ、留学中も手紙のたびにそんな顔してましたよ」
「アーサー」
「いや本当だって。“キャサリンがこう書いてきた”とか“キャサリンはこう考えてると思う”とか」
「アーサー!」
さすがにバーナード様も制止する。でも、それにはあまり迫力がなかった。
お母様が楽しそうに目を細められる。
「よろしいじゃないの」
「お母様まで」
キャサリン姉様が言うと、お母様は穏やかに笑われた。
「だって、はっきり分かるもの。安心いたしましたわ」
その言葉に、バーナード様は今度こそ言葉を失う。けれど、目だけは少しやわらいでいた。
私はその様子を見ながら、何だか胸の奥がほんのりあたたかくなった。
婚約の話というだけで、全部が重くなるわけではない。
こんなふうに、見ていて肩の力が抜ける婚約もあるのだと、今更のようにうれしかった。
話が一段落した頃、アーサー様がカップを置いて言った。
「そういえば、これから病院の若手連中で小さな集まりがあるんです」
「集まり?」
ジョン兄様が反応する。
「ええ。こいつの一時帰国にかこつけて飲もうって。医師ばっかりじゃなくて、出入りのある連中も少し」
バーナード様がすぐに言う。
「大したものではありません」
「そういう言い方をする時に限って、そこそこ人数いるんだよ」
アーサー様がさらりと暴露した。
「気楽なやつですよ。ビアホールをひと区切り借りて、近況報告して、飲んで、騒ぐほどでもなく散る感じ」
私は、その話を聞きながら何となく思った。
世界はちゃんと続いているのだ。
婚約が壊れたとか、家の中がぴりついているとか、そういうこととは別に、帰国祝いの集まりがあり、若い医師たちはそこで顔を合わせる。
そういう普通の、当たり前の流れが世の中では続いている。
楽しいだけではない。真面目な話も、まだ終わってはいない。
でも、その中にこういう軽さが混じると、ようやく本当に息ができる気がした。
◇
帰り際、キャサリン姉様は玄関まで三人を送っていかれた。
私は少し後ろから見ていただけだけれど、最後にバーナード様が姉様へ「無理はなさらないでください」と言い、姉様が「あなたも」と返された時、その二人のあいだだけ、まわりと違う時間が流れているみたいだった。
ジョン兄様がすぐ横で、わざとらしく小さな咳払いをする。
キャサリン姉様が振り返って、「あなた、聞こえているのよ」と冷たい声で言われたのは、その直後だった。
でも、やっぱり声は少し笑っていた。
しかも、ひとりではなかった。
先触れを受けて玄関へ出た時、私はまずキャサリン姉様の横顔を見て、少しだけおかしくなった。
姉様はふだん、よほどのことがなければ人前で顔色を変えない。
けれど、その日は違った。落ち着いた顔をしていらっしゃるのに、目だけが少し忙しいのだ。
馬車から先に降りたのは、見慣れぬ男性だった。
三十前後だろうか。明るい茶色の髪に、軽い身のこなし。目元がよく動く人で、初対面でもあまり空気を重くしない種類の雰囲気があった。
次に降りたのが、キャサリン姉様の婚約者、バーナード様だった。
以前お会いした時と比べても、やっぱりどこか少しもさっとしていた。姿勢は悪くないし、服装も整っている。けれど、立ち方や帽子の持ち方が、妙にきちんとしすぎていて、かえって不器用さが見えるのだ。
とはいえ、それは決して悪いものではない。馬車から足を下ろした瞬間の目だけは、まっすぐ姉様を探していた。
その目を見てしまうと、ああ本当に大好きなのだな、とこちらまで分かってしまうのだ。
最後に降りたのは、年長の男性だった。
四十代の半ばほどに見える、すっきりした顔立ちの医師らしい人で、余計な愛想はないが、こちらを値踏みするような嫌さもない。落ち着いている、というより、物事を急いで軽く扱わない人、という感じがした。
お父様とお母様が前へ出られる。
「ようこそお越しくださいました」
お母様がそうおっしゃると、バーナード様は帽子をきっちり持ち直し、少しだけぎこちなく一礼した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
そう言ってから、彼は一拍遅れてキャサリン姉様を見た。姉様も、そこでようやく表情をやわらげられる。
「お帰りなさい、バーナード」
「……ただいま戻りました」
その“ただいま”が妙にまじめで、ジョン兄様が横で小さく吹き出した。
「何で笑うの」
すぐにキャサリン姉様がそちらを向かれる。
「いや、だってさ」
「だって、ではありません」
「まだ玄関なんだけど」
「だから何なの」
その応酬のせいで、こちらまで少し肩の力が抜けた。
バーナード様の横にいた茶色の髪の男性が、そこで軽く咳払いをする。
「失礼、先に名乗るべきでしたね。アーサー・フィンチと申します。ウェストンの古い同僚です」
いかにも話しやすそうな声だった。続いて、年長の方が一歩進む。やはり医師なのだろう。
「ジュリアン・メレディスです。病院でウェストンとフィンチの上に立つ者だと思っていただければ」
その簡潔さが、何だか妙に似合っていた。
お父様が二人へ礼を返される。
「このたびは、わざわざ」
「こちらこそ」
メレディス先生は短く答えた。
「話は道すがら大方うかがいました。家の中の見立てを固める手伝いならできるかと」
その言い方に、ふわっとしたところが少しもなかった。頼もしい、と私は思う。
こういう時、ただ“ご心配でしょう”とか“つらかったでしょう”とか言われるのもありがたいけれど、それだけでは足りない。
見えているものを、そのまま言葉にしてくれる人が要るのだ。
◇
応接間ではなく、家族だけの広い居間へ通されることになった。
バーナード様は、椅子へ座るまでが少しぎこちなかった。
たぶん長旅の疲れもあるのだろうけれど、それ以上に、アシュフォード家へ来る前から頭の中で何度も段取りを並べていたのが見える。
何を先に言うべきか、誰に礼を言うべきか、どこまで自分が口を挟んでよいのか。その全部をきっちり考えた人の固さだった。
キャサリン姉様が、それを見て少しだけ微笑まれる。
「長旅でしたでしょう」
「ええ、少し」
「少し?」
ジョン兄様が口を挟んだ。
「顔はだいぶ疲れてるよ」
「ジョン」
キャサリン姉様の声がすぐ飛ぶ。
「そういうことを先に言わないの」
「いや、心配してるんだけど」
「心配の仕方が雑なの」
バーナード様はそこで、少しだけ困ったような顔をした。
「いえ、その……疲れていないとは言えません」
「正直でよろしい」
お母様がそうおっしゃって、部屋の空気が少しやわらいだ。
そのあとでようやく、話はきちんとしたほうへ向いた。
まずはバーナード様が、留学先で受け取った手紙のこと、教授に相談したこと、帰国してすぐ病院へ寄ったことを順に話した。
途中で言葉に詰まると、アーサー様は横から少しだけ補うが、メレディス先生は余計なところで口を挟まない。
こうして、三人で来た意味が、自然に見えてくる。
「私どもとしては」
バーナード様は、少しだけ前のめりになって言った。
「診断めいたことを軽々しく申し上げるつもりはありません。ただ、いま見えている型を、性格の良し悪しだけで片づけるのは危険だと考えています」
その言い方に、お父様が頷かれる。
「ええ」
「メレディス先生」
バーナードがそちらを見ると、先生は静かに口を開いた。
「一般論として申し上げます」
そう前置きしてから、先生は私たち一人一人を見るように話しはじめた。
「体調の波がある人間は実際におります。気分の浮き沈みが激しい人間もおります。それ自体を疑う必要はありません」
私は、膝の上で手を重ねた。
「ですが、その不調が、特定の相手の注意を引きたい時だけ前へ出る。あるいは、誰かが席を立とうとした時だけ強く見える。そういう“出方の偏り”があるなら、家族はそこを見なければなりません」
部屋の中はしんとしていた。
メレディス先生の声は大きくない。でも、この部屋の中で妙に響いた。
「さらに厄介なのは、本人に強い悪意の自覚がない場合です。自分では“少し苦しい”“少し寂しい”“少し話を聞いてほしい”と思っているだけなのかもしれない。けれど、その“少し”が、毎回相手の良心へ乗るようなら、周囲は確実に消耗します」
私はその言葉を聞きながら、あの日のお茶のことを思い出していた。
――少し立ちくらみがして。
――少しだけ、お茶を。
――長くはお引きとめしませんわ。
たしかに、全部“少し”だった。
でも、その少しで私はひどく疲れたのだ。
「ですから」
先生は続ける。
「今後、その方が相手である場合、善意の人間ほどひとりにしないこと。体調不安を訴えられても、その場にいる第三者や店の者、家の者へ渡すこと。おひとりで抱え込ませないこと。それが、家として最初に決めるべきことです」
お父様が短く言われる。
「決めております」
「それは結構」
先生の返事も短かった。
アーサー様もそこで、少しだけ笑う。
「先生、褒めてます」
「分かる」
「分かってるならいいです」
そのやりとりが、少しだけおかしくて、ジョン兄様が肩を揺らした。
「何だか病院の空気だね」
「病院の空気です」
アーサー様が即座に返したので、今度は私も少し笑ってしまった。
そのあとは、もっと実際的な話になった。
今後もし外でばったり会ったらどうするか。グランヴィル家から間接的な接触があった場合、誰を窓口にするか。
どの範囲までを“本人が受ける必要のないこと”としてよいのか。
ハロルド兄様が質問を重ね、お父様とお母様がそこへ判断を置き、メレディス先生が必要なところだけ補う。
アーサー様は時々、話が重くなりすぎると、少しだけ抜け道を作るみたいに軽い言葉を入れる。
その中で、バーナード様はずっときちんと座っている。でも、キャサリン姉様が何か言うたび、そちらへ目が行くのは隠せていなかった。
ジョン兄様がそれを見逃すはずもない。
「ねえバーナードさん」
いきなり呼ばれて、バーナード様が少し肩を揺らす。
「はい」
「さっきから姉様のほうばっかり見てるよね」
部屋が、一瞬だけ静まり、それからすぐに気配だけがざわついた。
「ジョン!」
キャサリン姉様が、めずらしく本当に頬を赤くされた。
「だって見てるじゃん」
「見ていても言わなくていいの!」
「ええと」
バーナード様の困り方が、あまりにも真面目で、今度はハロルド兄様まで口元をわずかに動かす。
「否定はしないんだな」
「そこを否定するのも、不自然かと」
「まあ」
キャサリン姉様が額へ手を当てられる。
「この人、ほんとうに」
でも、声は少し笑っていた。
アーサー様はその様子を眺めながら、愉快そうに言った。
「こいつ、留学中も手紙のたびにそんな顔してましたよ」
「アーサー」
「いや本当だって。“キャサリンがこう書いてきた”とか“キャサリンはこう考えてると思う”とか」
「アーサー!」
さすがにバーナード様も制止する。でも、それにはあまり迫力がなかった。
お母様が楽しそうに目を細められる。
「よろしいじゃないの」
「お母様まで」
キャサリン姉様が言うと、お母様は穏やかに笑われた。
「だって、はっきり分かるもの。安心いたしましたわ」
その言葉に、バーナード様は今度こそ言葉を失う。けれど、目だけは少しやわらいでいた。
私はその様子を見ながら、何だか胸の奥がほんのりあたたかくなった。
婚約の話というだけで、全部が重くなるわけではない。
こんなふうに、見ていて肩の力が抜ける婚約もあるのだと、今更のようにうれしかった。
話が一段落した頃、アーサー様がカップを置いて言った。
「そういえば、これから病院の若手連中で小さな集まりがあるんです」
「集まり?」
ジョン兄様が反応する。
「ええ。こいつの一時帰国にかこつけて飲もうって。医師ばっかりじゃなくて、出入りのある連中も少し」
バーナード様がすぐに言う。
「大したものではありません」
「そういう言い方をする時に限って、そこそこ人数いるんだよ」
アーサー様がさらりと暴露した。
「気楽なやつですよ。ビアホールをひと区切り借りて、近況報告して、飲んで、騒ぐほどでもなく散る感じ」
私は、その話を聞きながら何となく思った。
世界はちゃんと続いているのだ。
婚約が壊れたとか、家の中がぴりついているとか、そういうこととは別に、帰国祝いの集まりがあり、若い医師たちはそこで顔を合わせる。
そういう普通の、当たり前の流れが世の中では続いている。
楽しいだけではない。真面目な話も、まだ終わってはいない。
でも、その中にこういう軽さが混じると、ようやく本当に息ができる気がした。
◇
帰り際、キャサリン姉様は玄関まで三人を送っていかれた。
私は少し後ろから見ていただけだけれど、最後にバーナード様が姉様へ「無理はなさらないでください」と言い、姉様が「あなたも」と返された時、その二人のあいだだけ、まわりと違う時間が流れているみたいだった。
ジョン兄様がすぐ横で、わざとらしく小さな咳払いをする。
キャサリン姉様が振り返って、「あなた、聞こえているのよ」と冷たい声で言われたのは、その直後だった。
でも、やっぱり声は少し笑っていた。
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