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第1話:水平器とため息
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緑色の液体の中で、白い気泡が迷子のように震えていました。
私はその小さな泡を見つめながら、深いため息を吐き出しました。恋人の裏切りを知った乙女のようなため息ではありません。
計算と実測の致命的なズレを目の当たりにした、現場監督のような重い吐息です。
「……傾いていますわね」
「お嬢様、また壁とお話しされているのですか?」
呆れを含んだ声が背後から聞こえました。
振り返ると、私の専属侍女であるロッテが、泥で汚れないようにドレスの裾を持ち上げながら、困り顔で立っています。
「ロッテ、見てごらんなさい。この基礎部分の立ち上がり、図面より三センチもズレています。これでは荷重の偏心が起きて、十年もしないうちに床にビー玉が転がる家になりますわ」
私が手に持っていたのは、扇子ではなく真鍮製の水平器です。
今日の私は、公爵令嬢ジュリアンナ・フォン・ヴィクトルとしてではなく、この国の王太子殿下が建設中の愛の新居を視察しに来た、ただの建築オタクとしてここに立っていました。
「荷重の……、ヘンシン? お嬢様、それはつまり、プリンをお皿に出したときに、ぐにゃっと崩れちゃうみたいなことですか?」
「ええ、その通りです。素晴らしい例えですね、ロッテ。そして崩れるのはプリンだけではなく、そこに住む人々の生活そのものです」
私は手帳を取り出し、羽根ペンでさらさらと数値を書き込みました。
ここは王都の郊外、風光明媚な湖畔の埋立地です。
景色は最高ですが、地盤は最悪。
本来なら、地下深くの支持層まで杭を打たねばならない軟弱地盤です。
しかし、現場の土の色を見る限り、明らかに地盤改良が行われた形跡がありません。
「このN値では、液状化現象待ったなしですわ……。砂上の楼閣とはよく言ったものですけれど、ここは泥上の棺桶になりかねません」
「かんおけ!? お嬢様、言葉が不吉すぎます!」
「事実ですもの。美しさとは、表面的な装飾ではなく、構造的な安定の中にこそ宿るのです。それを理解していない人間が多すぎます」
私が水平器をドレスのポケット(自作の特大ポケット)にしまおうとした、その時でした。
「――また、そんな薄汚い場所にいるのか。ジュリアンナ」
冷ややかな、けれど無駄によく響くバリトンボイス。
建設現場の入り口に、きらびやかな衣装を纏った男女が立っていました。
この国の第一王子であり、私の婚約者でもあるレイモンド殿下。
そして、その腕にツタ植物のように絡みついているのは、男爵令嬢のシルヴィア様です。
「ごきげんよう、殿下。シルヴィア様も」
私は優雅にカーテシーを行いました。
靴底には泥がついていますが、背筋は鉄筋コンクリートのように真っ直ぐです。
「ジュリアンナ、君には恥じらいというものがないのか? 建設中の現場で、労働者のように歩き回って。私の婚約者として恥ずかしいとは思わないのか」
レイモンド殿下は、整った眉を寄せて私を睨みつけました。
金髪碧眼、絵本から出てきたような王子様ですが、残念ながらその審美眼は曇りガラスのようです。
「恥ずべきは私ではなく、この基礎工事の杜撰さですわ、殿下。先ほど確認しましたが、支持層への到達深度が不足しています。このまま上物を建てれば、数年で不同沈下を起こします」
私は努めて冷静に、事実だけを伝えました。
これは未来の王妃としての、最後の慈悲のような助言です。
しかし、殿下は鼻で笑いました。
「ふどう……、なんだって? また君の退屈な講釈か。いいかジュリアンナ、私は君に、現場監督になってほしいわけではない。シルヴィアを見てみろ。彼女のように、ただ美しく、私の隣で微笑んでいればいいんだ」
殿下の腕の中で、シルヴィア様が小首を傾げました。
ピンク色のふわふわとしたドレスは、工事現場には最も不似合いな装いですが、殿下にはそれが花に見えるのでしょう。
「そうですよぉ、ジュリアンナ様ぁ。難しいことは職人さんに任せればいいじゃないですかぁ。私、このお屋敷が出来上がるの、すっごく楽しみなんです! だって、壁は大理石にするってレイモンド様が約束してくださったんですもの!」
シルヴィア様が無邪気に笑い、殿下がその頭を撫でます。
「ああ、もちろんだ。君のために最高級の大理石を用意させた。……聞いているのか、ジュリアンナ。君のように、基礎だの構造だのと、地面の下ばかり見ている女には、この夢の価値はわかるまい」
私は眼鏡の位置を人差し指で直しながら、二人をまじまじと観察しました。
地面の下を見ない人間は、足元を掬われる。
それは建築学の基本であり、人生の真理でもあります。
彼らが語る最高級の大理石の柱が、実は安物の煉瓦に化粧漆喰(スタッコ)を塗っただけの張りボテであることも、私は先ほどの触診で見抜いていました。
けれど、それを今ここで指摘するのは無粋というものでしょう。
荷重計算のできない柱に、重い屋根を載せようとしている。
それが彼らの関係性そのものです。
「……そうですわね。私には、その夢は少し不安定すぎて、めまいがいたします」
「可愛げのない女だ。君との会話は、まるで辞書と話しているようで疲れる」
レイモンド殿下は吐き捨てるように言い、シルヴィア様の腰を抱いて去っていきました。
「行きましょう、シルヴィア。テラスのデザインについて君の意見を聞きたいんだ」
「はぁい、レイモンド様!」
二人の背中が見えなくなると、ロッテがおずおずと私に近づいてきました。
*
(※ロッテ視点)
お嬢様が、また難しい顔をして固まっています。
レイモンド殿下にひどいことを言われて、きっと傷ついているに違いありません。
お嬢様はいつだって正しいことを言っているだけなのに、どうして誰もわかってくれないんでしょう。
「あの、お嬢様……。元気出してください。あんな、中身がスッカスカのスポンジケーキみたいな王子の言うことなんて、気にしちゃダメです!」
私が精一杯の悪口(のつもり)を言うと、お嬢様は意外そうな顔でこちらを見ました。
そして、くすりと笑ったのです。
「ふふ、ロッテ。スポンジケーキならまだマシですわ。少なくとも空気を含んで柔軟性がありますもの。彼らは……、そうね、配合を間違えて固まり損ねたセメントのようなものよ」
お嬢様は全く傷ついていませんでした。
それどころか、その瞳の奥には、新しい設計図を引くときのような、鋭く冷徹な光が宿っていました。
「ロッテ、屋敷に戻りましょう」
「はい! ……えっと、お嬢様って、つらくても泣かないんですか?」
「泣く? どうして私が? 欠陥住宅に住まずに済むかもしれないのですよ? むしろ祝杯をあげたい気分ですわ」
お嬢様は泥だらけの靴で、力強く地面を踏みしめました。
「亀裂は、もう入っています。あとは、いつ崩落するか。……その崩壊の音色が、今から楽しみでなりませんわ」
お嬢様がつぶやいたその言葉は、まるで建物の解体工事の合図のように聞こえました。
私はブルっと身震いをして、慌ててお嬢様の後を追いました。
これから何が起きるのかはわかりませんが、お嬢様が水平器を取り出した時は、何かが水平になるまで終わらないということだけは、私にもわかっていたのです。
私はその小さな泡を見つめながら、深いため息を吐き出しました。恋人の裏切りを知った乙女のようなため息ではありません。
計算と実測の致命的なズレを目の当たりにした、現場監督のような重い吐息です。
「……傾いていますわね」
「お嬢様、また壁とお話しされているのですか?」
呆れを含んだ声が背後から聞こえました。
振り返ると、私の専属侍女であるロッテが、泥で汚れないようにドレスの裾を持ち上げながら、困り顔で立っています。
「ロッテ、見てごらんなさい。この基礎部分の立ち上がり、図面より三センチもズレています。これでは荷重の偏心が起きて、十年もしないうちに床にビー玉が転がる家になりますわ」
私が手に持っていたのは、扇子ではなく真鍮製の水平器です。
今日の私は、公爵令嬢ジュリアンナ・フォン・ヴィクトルとしてではなく、この国の王太子殿下が建設中の愛の新居を視察しに来た、ただの建築オタクとしてここに立っていました。
「荷重の……、ヘンシン? お嬢様、それはつまり、プリンをお皿に出したときに、ぐにゃっと崩れちゃうみたいなことですか?」
「ええ、その通りです。素晴らしい例えですね、ロッテ。そして崩れるのはプリンだけではなく、そこに住む人々の生活そのものです」
私は手帳を取り出し、羽根ペンでさらさらと数値を書き込みました。
ここは王都の郊外、風光明媚な湖畔の埋立地です。
景色は最高ですが、地盤は最悪。
本来なら、地下深くの支持層まで杭を打たねばならない軟弱地盤です。
しかし、現場の土の色を見る限り、明らかに地盤改良が行われた形跡がありません。
「このN値では、液状化現象待ったなしですわ……。砂上の楼閣とはよく言ったものですけれど、ここは泥上の棺桶になりかねません」
「かんおけ!? お嬢様、言葉が不吉すぎます!」
「事実ですもの。美しさとは、表面的な装飾ではなく、構造的な安定の中にこそ宿るのです。それを理解していない人間が多すぎます」
私が水平器をドレスのポケット(自作の特大ポケット)にしまおうとした、その時でした。
「――また、そんな薄汚い場所にいるのか。ジュリアンナ」
冷ややかな、けれど無駄によく響くバリトンボイス。
建設現場の入り口に、きらびやかな衣装を纏った男女が立っていました。
この国の第一王子であり、私の婚約者でもあるレイモンド殿下。
そして、その腕にツタ植物のように絡みついているのは、男爵令嬢のシルヴィア様です。
「ごきげんよう、殿下。シルヴィア様も」
私は優雅にカーテシーを行いました。
靴底には泥がついていますが、背筋は鉄筋コンクリートのように真っ直ぐです。
「ジュリアンナ、君には恥じらいというものがないのか? 建設中の現場で、労働者のように歩き回って。私の婚約者として恥ずかしいとは思わないのか」
レイモンド殿下は、整った眉を寄せて私を睨みつけました。
金髪碧眼、絵本から出てきたような王子様ですが、残念ながらその審美眼は曇りガラスのようです。
「恥ずべきは私ではなく、この基礎工事の杜撰さですわ、殿下。先ほど確認しましたが、支持層への到達深度が不足しています。このまま上物を建てれば、数年で不同沈下を起こします」
私は努めて冷静に、事実だけを伝えました。
これは未来の王妃としての、最後の慈悲のような助言です。
しかし、殿下は鼻で笑いました。
「ふどう……、なんだって? また君の退屈な講釈か。いいかジュリアンナ、私は君に、現場監督になってほしいわけではない。シルヴィアを見てみろ。彼女のように、ただ美しく、私の隣で微笑んでいればいいんだ」
殿下の腕の中で、シルヴィア様が小首を傾げました。
ピンク色のふわふわとしたドレスは、工事現場には最も不似合いな装いですが、殿下にはそれが花に見えるのでしょう。
「そうですよぉ、ジュリアンナ様ぁ。難しいことは職人さんに任せればいいじゃないですかぁ。私、このお屋敷が出来上がるの、すっごく楽しみなんです! だって、壁は大理石にするってレイモンド様が約束してくださったんですもの!」
シルヴィア様が無邪気に笑い、殿下がその頭を撫でます。
「ああ、もちろんだ。君のために最高級の大理石を用意させた。……聞いているのか、ジュリアンナ。君のように、基礎だの構造だのと、地面の下ばかり見ている女には、この夢の価値はわかるまい」
私は眼鏡の位置を人差し指で直しながら、二人をまじまじと観察しました。
地面の下を見ない人間は、足元を掬われる。
それは建築学の基本であり、人生の真理でもあります。
彼らが語る最高級の大理石の柱が、実は安物の煉瓦に化粧漆喰(スタッコ)を塗っただけの張りボテであることも、私は先ほどの触診で見抜いていました。
けれど、それを今ここで指摘するのは無粋というものでしょう。
荷重計算のできない柱に、重い屋根を載せようとしている。
それが彼らの関係性そのものです。
「……そうですわね。私には、その夢は少し不安定すぎて、めまいがいたします」
「可愛げのない女だ。君との会話は、まるで辞書と話しているようで疲れる」
レイモンド殿下は吐き捨てるように言い、シルヴィア様の腰を抱いて去っていきました。
「行きましょう、シルヴィア。テラスのデザインについて君の意見を聞きたいんだ」
「はぁい、レイモンド様!」
二人の背中が見えなくなると、ロッテがおずおずと私に近づいてきました。
*
(※ロッテ視点)
お嬢様が、また難しい顔をして固まっています。
レイモンド殿下にひどいことを言われて、きっと傷ついているに違いありません。
お嬢様はいつだって正しいことを言っているだけなのに、どうして誰もわかってくれないんでしょう。
「あの、お嬢様……。元気出してください。あんな、中身がスッカスカのスポンジケーキみたいな王子の言うことなんて、気にしちゃダメです!」
私が精一杯の悪口(のつもり)を言うと、お嬢様は意外そうな顔でこちらを見ました。
そして、くすりと笑ったのです。
「ふふ、ロッテ。スポンジケーキならまだマシですわ。少なくとも空気を含んで柔軟性がありますもの。彼らは……、そうね、配合を間違えて固まり損ねたセメントのようなものよ」
お嬢様は全く傷ついていませんでした。
それどころか、その瞳の奥には、新しい設計図を引くときのような、鋭く冷徹な光が宿っていました。
「ロッテ、屋敷に戻りましょう」
「はい! ……えっと、お嬢様って、つらくても泣かないんですか?」
「泣く? どうして私が? 欠陥住宅に住まずに済むかもしれないのですよ? むしろ祝杯をあげたい気分ですわ」
お嬢様は泥だらけの靴で、力強く地面を踏みしめました。
「亀裂は、もう入っています。あとは、いつ崩落するか。……その崩壊の音色が、今から楽しみでなりませんわ」
お嬢様がつぶやいたその言葉は、まるで建物の解体工事の合図のように聞こえました。
私はブルっと身震いをして、慌ててお嬢様の後を追いました。
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追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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