殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

文字の大きさ
1 / 100

第1話:水平器とため息

しおりを挟む
 緑色の液体の中で、白い気泡が迷子のように震えていました。

 私はその小さな泡を見つめながら、深いため息を吐き出しました。恋人の裏切りを知った乙女のようなため息ではありません。

 計算と実測の致命的なズレを目の当たりにした、現場監督のような重い吐息です。

「……傾いていますわね」

「お嬢様、また壁とお話しされているのですか?」

 呆れを含んだ声が背後から聞こえました。

 振り返ると、私の専属侍女であるロッテが、泥で汚れないようにドレスの裾を持ち上げながら、困り顔で立っています。

「ロッテ、見てごらんなさい。この基礎部分の立ち上がり、図面より三センチもズレています。これでは荷重の偏心が起きて、十年もしないうちに床にビー玉が転がる家になりますわ」

 私が手に持っていたのは、扇子ではなく真鍮製の水平器です。
 今日の私は、公爵令嬢ジュリアンナ・フォン・ヴィクトルとしてではなく、この国の王太子殿下が建設中のを視察しに来た、ただの建築オタクとしてここに立っていました。

「荷重の……、ヘンシン? お嬢様、それはつまり、プリンをお皿に出したときに、ぐにゃっと崩れちゃうみたいなことですか?」

「ええ、その通りです。素晴らしい例えですね、ロッテ。そして崩れるのはプリンだけではなく、そこに住む人々の生活そのものです」

 私は手帳を取り出し、羽根ペンでさらさらと数値を書き込みました。

 ここは王都の郊外、風光明媚な湖畔の埋立地です。
 景色は最高ですが、地盤は最悪。
 本来なら、地下深くの支持層まで杭を打たねばならない軟弱地盤です。

 しかし、現場の土の色を見る限り、明らかに地盤改良が行われた形跡がありません。

「このN値では、液状化現象待ったなしですわ……。砂上の楼閣とはよく言ったものですけれど、ここは泥上の棺桶になりかねません」

「かんおけ!? お嬢様、言葉が不吉すぎます!」

「事実ですもの。美しさとは、表面的な装飾ではなく、構造的な安定の中にこそ宿るのです。それを理解していない人間が多すぎます」

 私が水平器をドレスのポケット(自作の特大ポケット)にしまおうとした、その時でした。

「――また、そんな薄汚い場所にいるのか。ジュリアンナ」

 冷ややかな、けれど無駄によく響くバリトンボイス。
 建設現場の入り口に、きらびやかな衣装を纏った男女が立っていました。

 この国の第一王子であり、私の婚約者でもあるレイモンド殿下。
 そして、その腕にツタ植物のように絡みついているのは、男爵令嬢のシルヴィア様です。

「ごきげんよう、殿下。シルヴィア様も」

 私は優雅にカーテシーを行いました。
 靴底には泥がついていますが、背筋は鉄筋コンクリートのように真っ直ぐです。

「ジュリアンナ、君には恥じらいというものがないのか? 建設中の現場で、労働者のように歩き回って。私の婚約者として恥ずかしいとは思わないのか」

 レイモンド殿下は、整った眉を寄せて私を睨みつけました。
 金髪碧眼、絵本から出てきたような王子様ですが、残念ながらその審美眼は曇りガラスのようです。

「恥ずべきは私ではなく、この基礎工事の杜撰さですわ、殿下。先ほど確認しましたが、支持層への到達深度が不足しています。このまま上物を建てれば、数年で不同沈下を起こします」

 私は努めて冷静に、事実だけを伝えました。
 これは未来の王妃としての、最後の慈悲のような助言です。

 しかし、殿下は鼻で笑いました。

「ふどう……、なんだって? また君の退屈な講釈か。いいかジュリアンナ、私は君に、現場監督になってほしいわけではない。シルヴィアを見てみろ。彼女のように、ただ美しく、私の隣で微笑んでいればいいんだ」

 殿下の腕の中で、シルヴィア様が小首を傾げました。
 ピンク色のふわふわとしたドレスは、工事現場には最も不似合いな装いですが、殿下にはそれが花に見えるのでしょう。

「そうですよぉ、ジュリアンナ様ぁ。難しいことは職人さんに任せればいいじゃないですかぁ。私、このお屋敷が出来上がるの、すっごく楽しみなんです! だって、壁は大理石にするってレイモンド様が約束してくださったんですもの!」

 シルヴィア様が無邪気に笑い、殿下がその頭を撫でます。

「ああ、もちろんだ。君のために最高級の大理石を用意させた。……聞いているのか、ジュリアンナ。君のように、基礎だの構造だのと、地面の下ばかり見ている女には、この夢の価値はわかるまい」

 私は眼鏡の位置を人差し指で直しながら、二人をまじまじと観察しました。

 地面の下を見ない人間は、足元を掬われる。
 それは建築学の基本であり、人生の真理でもあります。

 彼らが語る最高級の大理石の柱が、実は安物の煉瓦に化粧漆喰(スタッコ)を塗っただけの張りボテであることも、私は先ほどの触診で見抜いていました。

 けれど、それを今ここで指摘するのは無粋というものでしょう。
 荷重計算のできない柱に、重い屋根を載せようとしている。
 それが彼らの関係性そのものです。

「……そうですわね。私には、その夢は少し不安定すぎて、めまいがいたします」

「可愛げのない女だ。君との会話は、まるで辞書と話しているようで疲れる」

 レイモンド殿下は吐き捨てるように言い、シルヴィア様の腰を抱いて去っていきました。

「行きましょう、シルヴィア。テラスのデザインについて君の意見を聞きたいんだ」

「はぁい、レイモンド様!」

 二人の背中が見えなくなると、ロッテがおずおずと私に近づいてきました。

     *

(※ロッテ視点)

 お嬢様が、また難しい顔をして固まっています。

 レイモンド殿下にひどいことを言われて、きっと傷ついているに違いありません。
 お嬢様はいつだって正しいことを言っているだけなのに、どうして誰もわかってくれないんでしょう。

「あの、お嬢様……。元気出してください。あんな、中身がスッカスカのスポンジケーキみたいな王子の言うことなんて、気にしちゃダメです!」

 私が精一杯の悪口(のつもり)を言うと、お嬢様は意外そうな顔でこちらを見ました。
 そして、くすりと笑ったのです。

「ふふ、ロッテ。スポンジケーキならまだマシですわ。少なくとも空気を含んで柔軟性がありますもの。彼らは……、そうね、配合を間違えて固まり損ねたセメントのようなものよ」

 お嬢様は全く傷ついていませんでした。
 それどころか、その瞳の奥には、新しい設計図を引くときのような、鋭く冷徹な光が宿っていました。

「ロッテ、屋敷に戻りましょう」

「はい! ……えっと、お嬢様って、つらくても泣かないんですか?」

「泣く? どうして私が? 欠陥住宅に住まずに済むかもしれないのですよ? むしろ祝杯をあげたい気分ですわ」

 お嬢様は泥だらけの靴で、力強く地面を踏みしめました。

「亀裂は、もう入っています。あとは、いつ崩落するか。……その崩壊の音色が、今から楽しみでなりませんわ」

 お嬢様がつぶやいたその言葉は、まるで建物の解体工事の合図のように聞こえました。
 私はブルっと身震いをして、慌ててお嬢様の後を追いました。

 これから何が起きるのかはわかりませんが、お嬢様が水平器を取り出した時は、何かが水平になるまで終わらないということだけは、私にもわかっていたのです。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ
恋愛
婚約破棄された伯爵令嬢コルネリア・フォン・ヴァルデン。 名誉も立場も失いかけた彼女が選んだのは、誰かに勝つことでも、名を取り戻すことでもなかった。 前に立たず、声高に語らず、ただ「判断が続く仕組み」を街に残すこと。 現場に任せ、失敗を隠さず、問いを残し、そして最後には自ら手を離す――。 名を呼ばれず、称賛もされない。 それでも街は止まらず、確かに良くなっていく。 これは、ざまぁの先で「勝たなかった令嬢」が、 静かに世界を変え、そして正しく消えていく物語。

【完結】この運命を受け入れましょうか

なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」  自らの夫であるルーク陛下の言葉。  それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。   「承知しました。受け入れましょう」  ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。  彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。  みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。  だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。  そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。  あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。  これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。  前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。  ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。     ◇◇◇◇◇  設定は甘め。  不安のない、さっくり読める物語を目指してます。  良ければ読んでくだされば、嬉しいです。

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。

婚約破棄は了承済みですので、慰謝料だけ置いていってください

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢アナスタシア・オルステッドは、第三王子アレンの婚約者だった。 しかし、アレンは没落貴族の令嬢カリーナと密かに関係を持っていたことが発覚し、彼女を愛していると宣言。アナスタシアとの婚約破棄を告げるが── 「わかりました。でも、それには及びません。すでに婚約は破棄されております」 なんとアナスタシアは、事前に国王へ婚約破棄を申し出ており、すでに了承されていたのだ。 さらに、慰謝料もしっかりと請求済み。 「どうぞご自由に、カリーナ様とご婚約なさってください。でも、慰謝料のお支払いはお忘れなく」 驚愕するアレンを後にし、悠々と去るアナスタシア。 ところが数カ月後、生活に困窮したアレンが、再び彼女のもとへ婚約のやり直しを申し出る。 「呆れたお方ですね。そんな都合のいい話、お受けするわけがないでしょう?」 かつての婚約者の末路に興味もなく、アナスタシアは公爵家の跡取りとして堂々と日々を過ごす。 しかし、王国には彼女を取り巻く新たな陰謀の影が忍び寄っていた。 暗躍する謎の勢力、消える手紙、そして不審な襲撃──。 そんな中、王国軍の若きエリート将校ガブリエルと出会い、アナスタシアは自らの運命に立ち向かう決意を固める。 「私はもう、誰かに振り回されるつもりはありません。この王国の未来も、私自身の未来も、私の手で切り拓きます」 婚約破棄を経て、さらに強く、賢くなった公爵令嬢の痛快ざまぁストーリー! 自らの誇りを貫き、王国を揺るがす陰謀を暴く彼女の華麗なる活躍をお楽しみください。

あなたが恋をしなければ

あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言する第一王子。 よくあるシーンだけど、それが馬鹿王子ではなく、優秀だけど人の機微に疎い王子だったら……。

断罪の準備は完璧です!国外追放が楽しみすぎてボロが出る

黒猫かの
恋愛
「ミモリ・フォン・ラングレイ! 貴様との婚約を破棄し、国外追放に処す!」 パルマ王国の卒業パーティー。第一王子アリオスから突きつけられた非情な断罪に、公爵令嬢ミモリは……内心でガッツポーズを決めていた。 (ついにきたわ! これで堅苦しい王妃教育も、無能な婚約者の世話も、全部おさらばですわ!)

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

処理中です...