殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第76話:河川の蛇行と氾濫原

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「狭い! 臭い! こんなウサギ小屋で寝られるか!」

 王都の東端、スラム街にある長屋の一室。
 そこに押し込められた元国王、元王太子レイモンド、そして元令嬢シルヴィアの三人は、早くも限界を迎えていました。

 六畳一間に大人三人。
 プライバシーなど皆無で、隣の部屋からは夫婦喧嘩の声が、壁の薄い天井からはネズミの足音が響いてきます。

「余は王だぞ……。たとえ退位しても、腐っても王族だ。こんな庶民以下の生活など耐えられん!」

 元国王(以下、老人)が、煎餅布団を蹴飛ばして立ち上がりました。

「出て行くぞ、レイモンド! もっとマシな土地を探すのだ! この広い王都、余が住むための未開拓の土地くらいあるはずだ!」

「そ、そうですな父上! ジュリアンナの支配が及ばない場所がきっとあるはず!」

 三人は夜逃げ同然に長屋を飛び出し、スラム街のさらに奥、川沿いの荒地へと彷徨い出ました。

 そして彼らが見つけたのは、川が大きくカーブしている場所の内側に広がる、平坦で草花が茂る美しい緑地でした。

「おお……! 見ろ! 素晴らしい土地があるではないか!」

 老人が歓喜の声を上げました。
 そこは周囲のゴミゴミしたスラムとは隔絶された、静かで日当たりの良い平地でした。
 誰の家も建っておらず、所有者もいなさそうです。

「ここなら広い! 川も近くて水も汲める! まさに王の隠居所にふさわしい!」

「やりましょう父上! そこらへんの流木を集めて、我々の新・新離宮を建てるのです!」

 彼らは意気揚々と、河川敷に小屋を建て始めました。
 労働の経験が少ない彼らですが、執念だけで流木や廃材を組み合わせ、数日後にはなんとか雨風を凌げる程度の掘っ立て小屋を完成させました。

「ふはは! 見たかジュリアンナ! 貴様の世話にならずとも、我々は城を築いたぞ!」

 彼らが小屋の前で勝ち誇っていた、その時です。

「……困りますね。そこは家を建ててはいけない場所ですわよ」

 堤防の上から、日傘を差した私が声をかけました。
 隣には、視察に同行していたマックス様とロッテもいます。

「げっ、ジュリアンナ! また邪魔しに来たのか!」

 レイモンドが石を拾って構えます。

「邪魔ではありません。忠告です。……そこは旧河道、またの名を氾濫原と言います」

 私は地図を広げました。

「川というのは、長い時間をかけて蛇行を繰り返します。そこは一見すると陸地に見えますが、大雨が降れば川が本来の道として通り抜ける場所なのです」

「はんらん……? 何をバカな! 今はこんなに晴れているし、川面はずっと向こうだぞ!」

 老人が鼻で笑います。

「今は、ですね。……川のカーブの内側は、土砂が堆積して平坦な土地ができやすい。これをポイントバー(州)と言います。住みやすそうに見えますが、ひとたび増水すれば、水は最短距離を通ろうとして、その場所を真っ直ぐに突っ切ります」

 私は空を見上げました。
 西の山脈には、黒い雨雲がかかっています。

「上流では雨が降っています。……半日後には水位が上がりますわ。今のうちに退去して、長屋に戻りなさい。あそこは狭いですが、私がハザードマップを確認した安全地帯です」

「うるさい! 戻ってたまるか!」

「あんな豚小屋より、ここのほうがずっと快適なんだ! 嫉妬して嘘をついているんだろう!」

 シルヴィア様まで一緒になって私を罵倒します。
 彼らは、自分たちで見つけた楽園を手放したくない一心で、科学的な警告を拒絶しました。

「……そうですか。では、せめて流されないように、お互いの体をロープで結んでおくことをお勧めします」

 私は肩をすくめ、その場を去りました。
 自然の摂理は、言葉で説得するよりも、実体験のほうが理解が早いものですから。

 その夜。
 王都では一滴の雨も降りませんでしたが、上流の山岳地帯で降った豪雨が、時間を置いて川に到達しました。

 深夜、不気味な地鳴りのような音が響き始めました。

「な、なんだ? 風か?」

 小屋の中で寝ていた老人が目を覚まします。
 次の瞬間。

 ドパンッ!!

 小屋の床板を突き破って、冷たい泥水が噴き出してきました。

「うわああああっ! 水だ! 水が来たぞ!」

「キャアアア! 流されるぅぅ!」

 彼らが外に出ると、そこはもう陸地ではありませんでした。
 昼間まで美しい草原だった場所は、濁流の通り道となり、激しい勢いで水が流れています。
 川が蛇行をショートカットし、彼らの小屋がある旧河道を直進し始めたのです。

「木に掴まれ! 流されるな!」

 三人は必死で一本の柳の木にしがみつきました。
 彼らが苦労して作った新・新離宮(という名の立て小屋)は、あっけなく濁流に飲み込まれ、バラバラに砕け散って下流へと消えていきました。

「あぁ……、私の城が……、また……」

 レイモンドが絶望の声を上げます。

 翌朝。
 水が引いた河川敷には、泥だらけになり、柳の木に引っかかった三人の姿がありました。
 まるで、大漁の魚のようにぶら下がっています。

「……生きていましたか。頑丈ですね」

 私がマックス様と共に現れると、彼らは力なくこちらを見ました。
 反論する気力も残っていないようです。

「申し上げたはずです。川は生き物だと。……三日月湖ができるプロセスを、身を持って体験できましたね?」

 私はタオルを投げ渡しました。

「さあ、長屋へお戻りなさい。……それとも、次は崖崩れの危険地帯にでも住んでみますか? 地質学の実験台になっていただけるなら歓迎しますが」

「……帰る。帰ります……」

 老人が、震える声で降参しました。
 自然という巨大な力の前では、王の権威など木の葉一枚にも満たない。
 その事実を、骨の髄まで理解させられたようでした。

「お嬢様。……なんか、ちょっと可哀想になってきました」

 ロッテがポツリと言いました。

「自業自得ですわ。でも、これで彼らも大人しく安全な箱(長屋)の中で暮らすでしょう」

 トボトボと長屋へ戻っていく三人の背中を見送りながら、私は手帳にメモしました。

『河川敷の不法占拠対策:完了。次は護岸工事に着手』。

 王都の再建にとって、彼らはもう障害ですらありません。
 ただの反面教師という教材になったのです。
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