殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第100話:設計図の署名

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「……起きていますか、マックス様」

「ああ。……君が隣でソワソワしていたら、寝てなどいられんよ」

 まだ夜が明けきらぬ、薄紫色の空の下。

 私たちは老体に鞭打って早起きし、王都の中央広場へと散歩に出ていました。
 街はまだ眠りの中にあり、清掃のブラシの音だけが遠くに聞こえます。

「どうしても、今でなくてはダメなのか?」

 マックス様が欠伸を噛み殺しながら尋ねます。

「ええ。今年のうち、今日この日の、この瞬間しか見られない現象がありますから」

 私は懐中時計を確認しました。
 今日は夏至。そして時刻は、日の出の直前。
 私がこの広場を設計してから三十年、ずっと秘密にしていた仕掛けが作動する時です。

「……来ますわよ」

 東の空が白み、稜線から強烈な朝陽が顔を出しました。
 その光は、広場の中央に立つ巨大な時計塔――私たちが復興のシンボルとして建てた塔の先端を照らしました。

 そして、その長い影が、石畳の上を秒針のように滑っていきます。

「……あそこです」

 私が指差したのは、広場の片隅にある何気ない敷石の一角でした。
 時計塔の影の先端が、その場所にピタリと重なった瞬間。

「……ん? あれは……」

 マックス様が目を細めました。
 石畳の凹凸と、影のコントラストが、ある文字を浮かび上がらせていたのです。

 石に刻まれたレリーフの溝に影が落ちることで、普段は見えない模様が、黒くくっきりと描かれます。

『 𝐉 & 𝐌 』

 流麗な筆記体で描かれた、二つのイニシャル。
 ジュリアンナと、マックス。
 二つの文字は、蔦のように絡み合い、決して離れないように結ばれていました。

「……いつの間に、こんな仕掛けを?」

 マックス様が驚いて私を見ます。

「三十年前、広場の舗装工事をした時です。……職人たちに無理を言って、こっそりと細工してもらいました」

 私は杖をつき、その文字の上に立ちました。

「かつて、レイモンド殿下の屋敷に隠した署名は、私の所有権を主張するための呪いのようなものでした。……ですが、これは違います」

 私は朝陽を見上げました。

「これは、私たちがこの時代に生きた証。……そして、この国を愛し、守り抜いた二人の人間がいたという、未来へのささやかなメッセージです」

 太陽が昇るにつれ、影は形を変え、文字はまた石畳の模様の中に溶けて消えていきました。

 たった数分間だけの、秘密の署名。

 誰にも気づかれず、けれど毎年必ず、太陽がある限り繰り返される現象。

「……ロマンチストだな、君は」

 マックス様が、くしゃりと笑いました。

「構造計算と効率の鬼かと思っていたが……、最後の最後に、こんな計算外のプレゼントを用意しているとは」

「ふふ。……計算通りですわ」

 私は彼の腕に抱きつきました。

「建物は、いつか風化します。記録も、いつか散逸するかもしれません。……でも、太陽と影の法則は変わりません」

「ああ。……俺たちの愛もな」

 街が目覚め始めました。

 鎧戸が開く音、パン屋の香ばしい匂い、そして子供たちの元気な声。
 私たちが基礎を築き、柱を立て、屋根をかけたこの国で、新しい一日が始まります。

「……ねえ、マックス様」

「なんだ?」

「私の人生の設計図。……いかがでしたか?」

 マックス様は、私の肩を抱き寄せ、王都の全景を見渡しました。
 そして、満足げに頷き、私に世界で一番嬉しい言葉をくれました。

「――最高の名建築だ」

 私は静かに目を閉じ、微笑みました。

 風が吹いています。 

 カビ臭い風でも、硫黄の臭いがする風でもない。
 花の香りと、人々の営みの匂いを運んでくる、希望の風です。

 私たちの一連の物語は、ここでページを閉じます。
 けれど、私たちが築いた礎の上で、人々の物語はずっと続いていくでしょう。

 愛も、国も、大切なのは見えない基礎。
 それさえあれば、どんな嵐でも揺らぐことはありません。

「さあ、帰りましょう。……今日のお茶は、とびきり甘くしましょうね」

 私たちは手を取り合い、光の溢れる街へと歩き出しました。

 その足取りは、いつまでも、どこまでも、確かなものでした。
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