婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第37話:手足が燃える病と、黒い爪の正体

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 難民の受け入れが進み、アースガルド領への移送が始まった頃。
 王都の貧民街を中心に、奇妙で恐ろしい奇病が爆発的に流行し始めた。

「熱い! 腕が燃える!」

「悪魔だ……、悪魔が僕の足を食いちぎっている!」

 通りでは、人々が手足を押さえて転げ回り、あるいは虚空を見つめて絶叫していた。
 彼らの手足は、まるで火傷を負ったかのように赤く腫れ上がり、やがて炭のように黒く変色して壊死していく。
 さらに、痙攣を起こし、ありもしない幻覚を見て暴れ回る者も続出した。

「……地獄絵図ですな」

 王都の別邸にて。
 セバスチャンが窓のカーテンを少しだけ開け、眉をひそめた。

「市民たちはパニックです。『業病だ』『神罰だ』と騒ぎ立て、王城の前には救済を求める群衆が押し寄せています」

「症状は? 壊死と、幻覚?」

 私は紅茶を飲みながら冷静に尋ねた。

「はい。手足が燃えるように熱くなり、やがて感覚がなくなり、ポロリと落ちる……。『聖火病』とか『魔女の火』と呼ばれているようです」

「……なるほど。原因の見当はついたわ」

 私がカップを置いた時、玄関ホールから騒がしい声が響いてきた。

「マリアンヌ! 出てきなさい! この人殺し!」

 リリーナ様だ。
 彼女は数人の近衛兵と、怯える市民たちを引き連れて、私の屋敷に乗り込んできたのだ。

「マリアンヌ! 貴女の仕業でしょう!」

 サロンに入ってくるなり、リリーナ様は私を指差して叫んだ。

「この恐ろしい病気が流行り始めたのは、貴女が薄汚い難民を王都に集め始めてからです! あの難民たちが病気を持ち込んだに違いありません! いいえ、貴女が彼らを媒介にして黒魔術の呪いを王都に撒き散らしたのよ!」

 後ろにいる市民たちも、憎悪の目で私を見ていた。

「魔女め!」

「俺の腕を返せ!」

 恐怖と痛みが、彼らを盲目にしている。

「……リリーナ様。証拠は?」

「証拠ならあります! 殿下の調べでは、この病気にかかったのは、貴女のジャガイモを買えなかった貧しい人々ばかりです! 貴女は自分の芋を買わない人間に罰を与えたのでしょう!?」

 なるほど。相変わらず想像力だけは豊かだ。
 私は溜息をつき、セバスチャンに合図をした。

「セバス。市場で売られているパンを買ってきてちょうだい。……一番安い、黒パンをね」

「は? パンですか? そんな悠長な……」

 リリーナ様が呆れる中、セバスは数分で戻ってきた。
 銀の盆の上には、レンガのように硬く、どす黒いパンが載っている。

「これが、今、貧民街で出回っているパンです。小麦が全滅したため、冷害に強いライ麦で作られたものですが……、質は最悪ですな」

「ええ。問題は質ではなく混入物よ」

 私はルーペを取り出し、そのパンを拡大して見せた。
 そして、パンの中に混じっていた、小指の爪ほどの大きさの黒い塊をピンセットで摘み出した。

「見てください、この黒くて硬い粒。……これは焦げた麦ではありません」

「な、なによそれ。ネズミの糞?」

 リリーナ様が顔をしかめる。

「いいえ。これは麦角。……ライ麦の花に寄生するカビの一種、麦角菌の菌核よ」

「カ、カビ……?」

「今年の王都は、記録的な長雨と湿気に襲われました。ジメジメした環境は、カビにとって天国です。……収穫されたライ麦には、この有毒なカビがびっしりと生えていたはずです」

 私はその黒い粒を、白いナプキンの上に落とした。
 カラン、と硬い音がする。

「この麦角には、強力なアルカロイドという毒が含まれています。……作用は二つ。一つは血管を極端に収縮させる作用。これにより手足の血流が止まり、燃えるような痛みと共に壊死します」

「ひっ……!」

 市民の一人が自分の黒ずんだ手を見て震え上がった。

「もう一つは、中枢神経への作用。……脳を侵し、幻覚や痙攣、精神錯乱を引き起こします。貴方たちが『悪魔を見た』と言うのは、この毒が見せた悪夢です」

 私はリリーナ様を真っ直ぐに見据えた。

「これは呪いでも魔術でもありません。……カビ毒による食中毒です。選別もせずに、カビたライ麦を粉にして民に食わせた、食料管理の不手際が招いた人災ですわ」

「そ、そんな……、カビを食べたくらいで、手足が落ちるなんて……」

「信じられないなら、この黒い粒を食べてみますか? すぐに火が見えるようになりますわよ」

 私がピンセットを差し出すと、リリーナ様は悲鳴を上げて後ずさりした。

「い、いやぁっ! 近寄らないで!」

「安心してください。……解決法は簡単です」

 私は黒いパンをゴミ箱に捨て、代わりにテーブルの上に置いてあったジャガイモを手に取った。

「カビたパンを食べるのを止めること。そして、このジャガイモを食べることです。ジャガイモは地中で育つため、空中のカビの影響を受けにくい。……現に、私のジャガイモを食べている人々からは、一人の発症者も出ていないでしょう?」

 市民たちがハッとした顔で顔を見合わせる。

「そういえば、隣の爺さんは芋を食ってるから元気だぞ」

「俺たちはパンしか食えなかったから……」

 真実が浸透していく。
 彼らを苦しめていたのは魔女の呪いではなく、自分たちが口にしていた汚染されたパンだったのだ。

「う、嘘よ! そんなのデタラメよ!」

 リリーナ様は認めようとしない。
 だが、その時、王城から駆けつけてきた侍医長が、息を切らして部屋に入ってきた。

「マ、マリアンヌ様の仰る通りです! 患者の家から押収した麦袋を調べたところ、この黒い爪のようなカビが大量に見つかりました! ……パンの摂取を禁じたところ、新たな発症者は止まりました!」

 侍医長の言葉が、決定打となった。
 市民たちは一斉にリリーナ様を睨みつけた。

「あんた、俺たちに毒を食わせておいて、それを魔女のせいにしてたのか!」

「芋を買わせないようにして、俺たちを殺す気か!」

「ち、違うわ! 私はただ……!」

 リリーナ様はジリジリと後退し、最後は「きゃあっ!」と叫んで逃げ出した。
 近衛兵たちも、バツが悪そうに私に敬礼して去っていく。

「……やれやれ。無知とは、時に刃物より人を傷つけますな」

 セバスチャンが新しい紅茶を淹れ直してくれる。

「でもお嬢様。麦角菌ですか。……毒であると同時に、使いようによっては薬にもなると聞きましたが」

「ええ、よく知っているわね。血管収縮作用を利用すれば、出産時の止血剤や、片頭痛薬の原料にもなるわ」

 私はテーブルに残された黒い粒を見つめた。
 ただの毒として捨てればゴミ。
 成分を理解し、正しく精製すれば薬。
 そして、知らずに食べれば呪い。

「知識があれば、呪いすら薬に変えられる。……でも今の王都に必要なのは、薬よりもまず安全な食事ね」

 私は倉庫の鍵をセバスに渡した。
 これで、ジャガイモへの偏見は完全に消え失せるだろう。
 命を守るための茶色い宝石として、アースガルドの芋は王都の食卓を独占することになる。
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