婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第38話:塩水の選別と、科学の聖女

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 リリーナ様の魔女騒動が鎮火した後も、王都の混乱は続いていた。
 むしろ、恐怖の質が変わっただけだった。

「パンを食べるな! 手足が腐るぞ!」

「でも、芋の配給だけじゃ足りない! 腹が減って死にそうだ!」

 広場では、配給された黒パンを地面に叩きつけて泣き叫ぶ母親や、空腹に耐えかねて毒入りのパンに手を伸ばそうとする子供たちの姿があった。

 ジャガイモの輸送は全力で行っているが、数万人の王都民すべての胃袋を今すぐ満たすには時間がかかる。
 倉庫にはまだ大量のライ麦がある。だが、その中には黒い爪(麦角)が混入しており、どれが安全でどれが危険か、素人目には判別がつかないのだ。

「……地獄ですな」

 王都の中央広場にて。
 セバスチャンが荷馬車から降り、周囲を見渡して溜息をついた。

「毒と分かっているのに、それしか食べるものがない。……究極の選択を強いられています」

「選択する必要なんてないわ。毒だけを取り除けばいいのだから」

 私は腕まくりをして、荷台の上に立った。

「セバス。例のピンク・ソルトを準備して。……それも大量にね」

 数分後……。

「王都の皆さんに告ぐ!」

 私が拡声器(ブリキを加工して作った簡易的なもの)で声を張り上げると、殺気立った群衆が一斉にこちらを向いた。

「アースガルド辺境伯、マリアンヌです。……貴方たちが恐れている死のパンを、安全な命の糧に戻す方法を教えます!」

 ざわめきが広がる。

「安全に戻す? そんな魔法があるのか?」

「魔女が何を言うか!」

 私は群衆の懐疑的な視線を無視し、広場の中央に巨大な樽を設置させた。
 そして、その中に水をなみなみと注ぎ込む。

「魔法ではありません。使うのは水と塩だけです」

 私は荷台から、アースガルド領特産の岩塩を樽の中に豪快に投入した。
 ザラザラとピンク色の結晶が溶けていく。

「いいですか? これはただの塩水ではありません。限界まで塩を溶かした飽和食塩水です」

 私は近くにいた農夫から、麦角菌が混じったライ麦の袋を受け取った。

「この中には、健康な麦と、毒のカビ(麦角)が混ざっています。手作業で選り分けるには何日もかかるでしょう。……でも、科学の力を使えば一瞬です」

 私は袋の中身を、一気に塩水の樽へとぶちまけた。

 麦粒が水中で舞う。
 群衆が固唾を飲んで見守る中、数秒後、奇妙な現象が起きた。

 水面に、黒くて細長い粒だけが次々と浮かんできたのだ。
 対して、黄色い健康な麦粒は、樽の底へと沈んでいく。

「……浮いた!」

「黒い毒だけが、浮いてきたぞ!」

「これが塩水選よ」

 私は網ですくい上げた黒い麦角を、皆に見えるように掲げた。

「健康な麦の実は中身が詰まっていて重い。対して、カビの塊である麦角や、虫食いの麦は、中身がスカスカで軽い。……真水ではどちらも沈みますが、濃い塩水の中では、軽い毒だけが浮力に負けて浮き上がるのです」

 私は浮いた毒を捨て、底に沈んだ健康な麦を取り出し、真水で洗ってみせた。

「浮いた毒を捨てて、沈んだ麦を洗えば、もう塩辛くも毒でもありません。……これでパンを焼けば、手足が燃えることも、悪魔を見ることもないわ」

 静寂。
 そして、爆発的な歓声。

「すげぇ! 魔法だ!」

「いや、科学だ! マリアンヌ様がそう言った!」

「塩だ! 塩を持ってこい! 俺たちの麦を洗うんだ!」

 人々は我先にと家に走り、隠し持っていた麦を持ち寄った。
 広場のあちこちで塩水選が始まり、黒い毒が次々と取り除かれていく。

「ああ、ありがとうございます! これで子供にパンを食べさせられます!」

 涙ながらに私の手にキスをする母親。
 足元に跪き、拝み始める老人たち。

「聖女様だ……! アースガルドの聖女様だ!」

「リリーナの偽聖女とは大違いだ!」

 広場はマリアンヌ・コールに包まれた。
 私は苦笑して、セバスチャンを見た。

「……やれやれ。聖女と呼ばれるのは柄じゃないわね。私はただ、比重の選別をしただけよ」

「民にとっては、それが奇跡なのです。……それにしてもお嬢様、ジェラルド殿下が輸入を止めた塩を使って、殿下が撒き散らした毒を取り除くとは。……なんとも皮肉な巡り合わせですな」

「ええ。殿下の嫌がらせがなければ、これほどの塩の備蓄はなかった。結果的に、殿下が民を救う手助けをしてくれたことになるわね」

     *

 その頃、王城の一室では。
 窓の外から聞こえる「マリアンヌ万歳」の声に、リリーナ様が耳を塞いで震えていた。

「う、嘘よ……。あんなのインチキよ……。私が聖女なのに……、どうして泥臭いあいつが……」

 部屋の隅には、ジェラルド殿下も膝を抱えて座り込んでいた。
 彼の前には、マリアンヌから時価で買い取らされた大量のジャガイモが転がっている。

「……食べたか?」

「え?」

「あのジャガイモだ。……悔しいが、美味いんだ。小麦がないなら、これを食べるしかない」

 殿下は力なく笑い、生のジャガイモをかじった。
 かつて豚の餌と罵ったそれは、今の彼らに残された唯一の希望だった。

     *

 王都の広場には、香ばしいパンの香りが戻りつつあった。
 毒を取り除かれたライ麦パンと、アースガルド産のジャガイモ。
 質素だが、安全で温かい食事が、人々の顔に血色を取り戻していく。

「さて、セバス。食料問題はこれで峠を越えたわ」

 私は樽の水面に映る自分の顔を見た。
 少し疲れているが、充実感がある。

「次は経済ね。……この大混乱で、王都の産業は死にかけている。特に、殿下が潰しかけた繊維産業を、私たちが引き継いで再建するわよ」

「羊毛と綿花の戦いですな」

「ええ。この寒い夏を逆手に取って、新しいファッションを流行らせてあげる」

 科学の聖女は、休むことを知らない。
 次なる変革の波が、王都の商業区へと押し寄せようとしていた。
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