婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第39話:しなびた野菜と、熱湯のショック療法

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 塩水選の普及により、王都から手足が燃える病の新たな患者は消えた。
 だが、飢餓の脅威が去ったわけではない。
 異常な低温と乾燥は続き、遠方から運ばれてくる貴重な生鮮食品に深刻なダメージを与えていた。

「……また廃棄ですか」

 王都の青果市場にて。
 アースガルド商会のガストンが、荷馬車の前で頭を抱えていた。
 荷台に積まれているのは、南方の温暖な地域から数日かけて運ばれてきた、ホウレンソウやレタスなどの葉物野菜だ。

 しかし、その姿は見るも無惨だった。
 水分が抜けてシナシナになり、変色して、まるで濡れた雑巾のようにへたり込んでいる。

「途中の峠道が寒すぎて、凍傷になりかけた上に、乾燥した風で水分を奪われました。……これでは売り物になりません」

 ガストンが悲しげに、しなびたホウレンソウをゴミ箱へ投げようとした。

「おい、待て!」

 そこへ、食料視察に来ていたジェラルド殿下が通りかかった。
 殿下は鼻をハンカチで押さえ、軽蔑したようにゴミ箱を蹴った。

「こんな腐った草を王都に持ち込むな! 疫病の次は、ゴミで埋め尽くす気か!」

「も、申し訳ございません殿下……。ですが、食料不足の折、少しでも野菜を届けようと……」

「言い訳無用! 見た目が全てだ。こんなクタッとした野菜など、見るだけで食欲が失せる。即刻焼却処分しろ! 豚でも食わんぞ!」

 殿下の言葉に、周囲の市民たちも残念そうに俯く。
 腹は減っているが、確かにこのドロドロになりかけた野菜を食べるのは勇気がいる。

「……相変わらず、見る目がおありになりませんね、殿下」

「む? マリアンヌか!」

 私が人混みをかき分けて現れると、殿下は露骨に嫌な顔をした。

「なんだ、また説教か? 見ろ、このゴミを。これを宝だとは言わせんぞ。完全に死んでいるじゃないか」

「死んでいませんわ。……ただしているだけです」

 私はゴミ箱から、しなびたレタスを拾い上げた。
 フニャフニャで、芯まで柔らかくなっている。

「植物の生命力を侮らないでください。彼らは水分を失って、仮死状態になって身を守っているのです。……適切なショック療法を与えれば、叩き起こせますわ」

「ショック療法だと?」

「ええ。セバス、お湯を用意して。温度はきっかり50度でね」

 市場の一角に、湯気を立てる大きな鍋が用意された。

「お嬢様、50度です。……お風呂にするには熱すぎますが、野菜を茹でるには温すぎますぞ」

 セバスチャンが温度計を見ながら首を傾げる。
 周囲の市民たちも、「野菜スープでも作るのか?」と怪訝な顔だ。

「茹でるんじゃないわ。……ヒートショックを与えるの」

 私はしなびたレタスとホウレンソウを束ねて持ち、鍋のお湯の中へ一気に沈めた。

「なっ!? 貴様、腐りかけの野菜を煮込んでどうする!」

 殿下が叫ぶ。
 私は時計を見ながら冷静にカウントした。

「いーち、にー、さーん……」

 葉物野菜なら数十秒。
 根菜なら数分。
 時間が来た瞬間、私はザバッと野菜を引き上げ、冷水を張った桶に放り込んだ。

「さあ、見てご覧なさい」

 私が桶から取り出した野菜を見て、ガストンの目が飛び出そうになった。

「こ、これは……!?」

 そこにあったのは、先ほどまでの濡れ雑巾ではなかった。
 茎はピンと立ち上がり、葉は鮮やかな緑色を取り戻し、瑞々しく輝いている。
 まるで、今朝畑から採ってきたばかりのようだ。

「シャキッとしている……! 死んでいた野菜が、生き返った!」

 ガストンが震える手でレタスをちぎる。
 小気味よい音が響き、切り口から水分が溢れ出した。

「魔法だ! 蘇生の魔法だ!」

 市民たちがどよめく。

「ま、魔法ではない! トリックだ! すり替えたな!」

 殿下が喚くが、私は冷ややかな目で彼を見下ろした。

「科学ですわ、殿下。……この現象には二つの理屈があります」

 私は復活したホウレンソウを指差した。

「一つは気孔の開閉。……植物の表面には呼吸するための穴があります。50度という熱ショックを与えられると、植物は『大変だ!』と驚いて、気孔を一斉に開くのです。そこからお湯が猛烈な勢いで吸い込まれ、失われた水分が補給される」

 私は続けて、茎の硬さを確かめた。

「もう一つは細胞壁の強化。……50度のお湯につけると、野菜に含まれるペクチンという成分が硬化します。さらに、細胞内の膨圧……、つまり水風船のような圧力が回復し、パンパンに張り詰めるのです」

 私はシャキシャキのレタスを殿下に差し出した。

「これを50度洗いと言います。汚れや雑菌も落ちて、保存性も高まる。……どうですか? 貴方が捨てようとしたゴミの味は」

 殿下は恐る恐るレタスを受け取り、端をかじった。
 新鮮な音と共に、彼の中で何かが崩れ去る音がした。

「う、美味い……。なぜだ……、なぜ私の食卓に出るサラダより新鮮なんだ……」

「それは、貴方が見た目で判断して捨てたからです」

 私はガストンに向き直った。

「ガストンさん。この方法を市場の商人たちに教えてあげて。……輸送中にしなびた野菜も、これで商品価値を取り戻せるわ。捨てずに売れば、飢えた人々を救えるし、商人の損害も減る」

「はい! すぐに広めます! マリアンヌ様、貴女は野菜の救世主です!」

 ガストンが鍋を持って走り出すと、市場のあちこちで「お湯をくれ!」「俺のキャベツも生き返らせてくれ!」と大騒ぎになった。

「……くそっ。また私が悪者か」

 殿下は復活したレタスを握りしめ、悔しそうに唇を噛んだ。

「悪者ではありませんよ、殿下」

 私は優しく、しかし残酷に告げた。

「貴方はただ、知らないだけ。……でも、為政者にとって無知は、悪意よりもタチが悪い罪ですわ」

 シャキッとした野菜の山が、市場に緑色の彩りを取り戻していく。
 地下のカロリー(根菜)、毒のないパン、そして蘇った葉物野菜。
 アースガルドの知恵が、瀕死の王都の食卓を一つずつ再生させていく。

「さて、セバス。野菜が確保できたら、次はタンパク質ね。……そろそろ、あの白いフワフワが恋しくないかしら?」

「白いフワフワ……? まさか羊ですか?」

「ええ。この寒い夏に、羊毛を着て震えている人々を、もっと機能的な素材で温めてあげましょう」

 野菜の次は、衣類。
 私の改革は、衣食住のすべてをアップデートするまで止まらない。
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