婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第40話:濡れた羊の悪臭と、起毛する植物

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 冷たい雨が降り続く王都で、新たな問題が浮上していた。
 それは臭いである。

「……臭いですな」

 王都の社交界、復興支援のための慈善パーティー会場にて。
 セバスチャンがハンカチで鼻を覆いながら、眉間に深い皺を刻んだ。
 会場は屋内のホールだが、窓は閉め切られ、湿気が充満している。
 そこに数百人の貴族が密集していた。

「ええ。まるで雨の日の牧小屋に迷い込んだようだわ」

 私も扇子で鼻をあおいだ。
 漂っているのは、動物性の脂が酸化したような、鼻の奥にまとわりつく独特の獣臭だ。

 原因は明白。
 貴族たちが着ている豪華なドレスやマントだ。
 この国では、防寒着といえば羊毛が常識。
 しかし、連日の雨で生乾きになった羊毛は、水分と雑菌を含んで、強烈な悪臭を放ち始めていた。

「あら、マリアンヌ! 貴女、そんな薄着で寒くありませんの?」

 人混みをかき分けて、リリーナ様が現れた。
 彼女は最高級の羊毛をふんだんに使った、モコモコのドレスを着込んでいる。
 隣には、同じく分厚いウールのマントを羽織ったジェラルド殿下もいる。

「見てください、殿下。マリアンヌのあの貧相なドレス。まるで下着のような薄っぺらい布ですわ」

 リリーナ様が嘲笑する。
 確かに、私が着ているのは、見た目は薄手のシンプルな白いドレスだ。
 それに比べて、二人の服は豪華で……、そして、ひどく臭かった。

「……リリーナ様。失礼ですが、少し離れていただけます? 濡れた犬のような臭いがしますわよ」

「な、なんですって!? これは最高級のメリノウールよ! 暖かくて、気品があって……、ハクション!」

 リリーナ様が大きなくしゃみをした。
 殿下も青い顔をして、ガタガタと震えている。

「くそっ……、ウールを着ているのに、なぜこんなに寒いんだ。それに、服が鉛のように重い……」

「当然ですわ。羊毛は水を吸うと重くなる。そして、乾きにくいのが欠点です」

 私は自分のドレスの裾を摘んでみせた。

「この湿気の中でウールを着続けるのは、冷たい水を吸ったスポンジを全身に巻き付けているようなもの。……体温が奪われて当然です」

「ふん! じゃあ貴様はそのペラペラの服で暖かいと言うのか? 強がりもいい加減にしろ!」

 殿下が私の腕を掴もうとする。
 その手が触れた瞬間、彼は驚いたように目を見開いた。

「……あ、温かい? なんだ、この熱は?」

「ええ。とてもポカポカしていますわ」

 私はニッコリと笑い、ドレスの生地を彼に触らせた。
 一見すると普通の綿布だが、表面が細かく毛羽立っている。

「これが綿です。……ただし、ただの綿ではありません。ネル加工を施したものです」

「ネル……?」

「綿の表面を機械で引っ掻いて、繊維を毛羽立たせたのです。……見てください、この細かい毛並みを」

 私はルーペを取り出し、生地の表面を拡大して見せた。

「この毛羽立ちが、生地と肌の間に空気の層を作ります。空気は最高の断熱材。……つまり、この薄い布一枚で、分厚いウールに匹敵する保温力があるのです」

 さらに、私はリリーナ様のドレスを指差した。

「それに、綿は植物性繊維。羊毛と違って、濡れても獣臭がしません。吸水性が高く、すぐに乾くから、雑菌も繁殖しにくい。……このジメジメした季節には、羊よりも植物の方が優秀なのです」

「そ、そんな……、植物ごときが、羊毛に勝てるわけが……」

 リリーナ様が悔しそうに唇を噛むが、その間にも彼女のドレスからは生乾きの臭いが立ち上っている。
 周囲の貴族たちも、自分たちの服の臭いと重さにうんざりしていたのか、私の白くて清潔なドレスを羨望の眼差しで見ていた。

「ガストンさん、出番よ」

 私が合図すると、会場の隅に控えていたガストンが、ワゴンを押して現れた。
 そこには、アースガルド領で織り上げられた、色とりどりのフランネル生地のショールや肌着が積まれている。

「さあ、皆様! 臭くて重い濡れ衣を脱いで、このアース・コットンをお試しあれ! 洗ってもすぐに乾く、魔法の起毛布ですぞ!」

「く、ください! その肌着を!」

「もう羊の臭いには耐えられないんだ!」

 貴族たちが殺到する。
 殿下とリリーナ様は、人波に押されてよろめいた。

「ま、待て! 羊毛産業は我が国の伝統だぞ! 綿花など、敵国の……」

 殿下が叫ぶが、誰も聞く耳を持たない。
 伝統よりも、今の快適さと清潔さが優先だ。

「……殿下。伝統を守るのも結構ですが、まずはご自身が風邪を引かないように」

 私はガストンから受け取った綿のショールを一枚、殿下の肩にかけてあげた。

「……っ」

 殿下は払いのけようとしたが、そのふんわりとした温かさと、軽さに、動きを止めた。
 濡れたウールの重圧から解放された肩が、正直に安堵している。

「……くそっ。なぜだ……、なぜお前は、いつも私の欲しいものばかり持っているんだ……」

 殿下はショールを握りしめ、力なくうなだれた。

「それは、私が現場を見ているからです」

 私は会場を見渡した。
 フランネルを羽織った人々が、ホッとした顔で談笑を始めている。
 悪臭は消え、清潔で温かい空気が戻ってきた。

「アースガルドの黒ボク土は、野菜だけでなく、綿花の栽培にも適していました。……地下の熱を利用して育てたこの綿が、王都の冬を変えるでしょうね」

 セバスチャンが満足げに頷く。

「衣食住、全てにおいてアースガルド流が浸透しましたな。……これで、リリーナ様のファッションリーダーの座も陥落です」

 リリーナ様は、誰もいなくなったホールの隅で、重たいウールのドレスを引きずりながら、一人震えていた。
 その姿は、時代の変化に取り残された旧弊の象徴のようだった。

「さあ、次は住の仕上げね。……湿気てカビだらけになった王都の家々を、どうにかしてあげないと」

 私は次の手を考えながら、軽やかなコットンのドレスを翻して会場を後にした。
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