妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第1話:濡れた羊毛の涙

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 王宮のダンスホールは、むせ返るような香水の匂いと、上滑りするような笑い声で満たされていた。
 シャンデリアの光が、着飾った貴族たちの宝石を反射して煌めく。
 だが、ホールの隅に佇むソフィア・リネンにとって、その光景はただの虚飾に過ぎなかった。

(……このカーテン、素晴らしいわ)

 ソフィアは人々の輪から離れ、窓際にかかる真紅のベルベットをこっそりと指先で撫でた。
 彼女の関心は、煌びやかな宝石よりも、職人の魂が込められた織物に向いていた。

 経糸たていとに強撚のシルク、緯糸よこいとに上質な綿を使ったパイル織り。
 指の腹に吸い付くような滑らかさと、光を吸い込むような深みのある赤。
 これほどの密度で織り上げるには、熟練の職人が何日も織機に向かわなければならないはずだ。

「……ふふ」

 布の組織(構造)を想像するだけで、強張っていた心が少しだけ解ける。
 ソフィアは伯爵家の長女でありながら、家では義母と義妹のマリアンヌに使用人のように扱われてきた。
 今日のパーティーも、マリアンヌの引き立て役として、地味な灰色のドレスを着せられて連れてこられたのだ。
 婚約者である第二王子、ギルバートでさえ、ソフィアには目もくれず、マリアンヌとばかり踊っている。

 それでもいい、とソフィアは思った。
 美しい布に触れている時だけは、自分が惨めな存在であることを忘れられるから。

 ――その時だった。

「きゃあああああああっ!」

 絹を引き裂くような悲鳴が、ホールに響き渡った。

 音楽が止まる。
 人々の視線が一斉に突き刺さる。
 悲鳴の主は、ホールの中心にいたマリアンヌだった。
 
 彼女は床に座り込み、両手で顔を覆って震えている。
 その美しいピンク色のドレスの肩口が、黒く濡れていた。

「マリアンヌ! どうしたんだ!」

 ギルバート王子が血相を変えて駆け寄る。
 マリアンヌは震える指先を、ホールの隅――ソフィアの方へと向けた。

「お、お姉様が……、ソフィアお姉様が、私に水を……! 私が殿下と親しくしているのが気に入らないからって……!」

「え……?」

 ソフィアは目を見開いた。

 水をかけてなんていない。
 もちろん、手には何も持っていない。
 そもそも、マリアンヌとは十メートル以上離れていたはずだ。

「違うわ、私はただカーテンを見ていて……」

「黙れ!」

 ギルバート王子の怒号が、ソフィアの弁明を遮った。
 彼はマリアンヌを抱き起こしながら、軽蔑の眼差しでソフィアを睨みつける。

「ソフィア、君がこれほど心が歪んだ女だとは思わなかった。マリアンヌのドレスを見ろ。この濡れ方が何よりの証拠だ!」

「そんな、証拠だなんて……。私は本当に何も」

「往生際が悪いぞ! この会場でマリアンヌを妬んでいるのは君くらいだ!」

 周囲の貴族たちも、ひそひそと嘲笑交じりの声を上げる。

「やっぱりね、あの地味な姉ならやりかねないわ」

「妹の美しさが妬ましかったのよ」

「恐ろしい女だ」

 違う。
 そんなことやっていない。
 けれど、誰も信じてくれない。

 それは、いつものことだ。
 家でも、そして王宮でも。

 ソフィアの目から、大粒の涙が溢れそうになった、そのとき――。

「――やれやれ。騒がしくて、タペストリーの織り目も数えられない」

 氷のように冷ややかで、しかし驚くほど通る声が、喧噪を切り裂いた。

 人垣が割れる。

 現れたのは、漆黒の燕尾服を隙なく着こなした長身の男だった。
 黒髪をオールバックにし、片目には銀縁のモノクルを嵌めている。
 その鋭い銀色の瞳は、人間を見ているというよりは、顕微鏡で微生物を観察する学者のそれに似ていた。

「ア、アレクサンダー・クロード公爵……?」

 誰かが息を呑んで名を呼んだ。

 若くして公爵位を継ぎ、王国の富の半分を持つとも噂される大貴族。
 しかし極度の人間嫌いで、社交界には滅多に顔を出さない偏屈公爵としても有名だった。

 アレクサンダーは、怯えるソフィアを一瞥もしなかった。
 代わりに、彼は優雅な足取りでマリアンヌとギルバート王子の元へ歩み寄る。

「殿下。一つ、確認させていただいても?」

「な、なんだクロード公爵。今、私は取り込み中だ」

「なに、ほんの数秒です。学術的興味がありまして」

 言うが早いか、アレクサンダーは手袋を外し、マリアンヌの濡れた肩口に無遠慮に触れた。

「ひゃっ!?」

 マリアンヌが素っ頓狂な声を上げる。
 不敬とも取れる行為だが、アレクサンダーの表情は真剣そのものだった。
 彼は指先で生地を揉むように確かめると、ふん、と鼻を鳴らした。

「……冷たいな」

「当たり前だ! 水をかけられたばかりなんだぞ!」

 ギルバート王子が怒鳴る。
 しかし、アレクサンダーは呆れたように肩をすくめた。

「殿下。貴方は吸湿発熱という現象をご存じないのですか?」

「きゅうしつ……何だと?」

「羊毛(ウール)などの動物性繊維は、水分を吸着すると熱を発する性質があります。水分子の運動エネルギーが熱エネルギーに変換されるからです」

 アレクサンダーは、まるで講義でもするかのように淡々と語り始めた。

「この令嬢が着ているドレスは、最高級のメリノウールだ。ウールは繊維の中でも特に吸湿発熱性が高い。乾燥した冬場、これだけの量の水を浴びれば、直後の数分間は表面温度が数度上昇するはずです」

 彼は懐から懐中時計を取り出し、ちらりと見た。

「悲鳴が上がってから、私が触れるまで約一分。もし、ソフィア嬢が水をかけたのなら、この布はほんのりと温かくなければおかしい。しかし、これは完全に冷え切っている。気化熱で周囲の温度よりも下がっているほどだ」

 会場が静まり返る。
 誰も彼の言っていることの意味を完全には理解できていない。
 だが、その論理の組み立てが異様な説得力を持っていた。

「つまり、結論はこうだ。このドレスが濡れたのは、悲鳴が上がるより少なくとも十分以上前。おそらく、控え室か何かで自分で水を被り、乾かないうちにここまで走ってきた……、といったところでしょう」

 アレクサンダーはモノクルの位置を直しながら、マリアンヌを見下ろした。

「君の嘘は、安物のレースのように穴だらけだね」

 マリアンヌの顔が蒼白になる。

「な……、なによ、それ! わけのわからない理屈をこねないでよ!」

「理屈ではない。単なる繊維の物性の話だ」

「そんなの関係ないわ! 私は被害者なの! 殿下、この男はお姉様の味方なんです!」

 マリアンヌが泣き叫ぶ。
 すると、ギルバート王子ははっとしたようにマリアンヌを抱きしめた。

「そ、そうだ! クロード公爵、貴様のその小賢しい計算が何だというのだ! マリアンヌが泣いている、それが真実だ!」

「……は?」

 アレクサンダーが心底嫌そうな顔をした。

「科学的根拠よりも、涙を信じると?」

「当たり前だ! 人の心を持たぬ貴様にはわかるまい! ソフィア、貴様のような冷酷な女は私の婚約者にふさわしくない。今ここで婚約を破棄し、追放を命じる!」

 論理が、感情によって握りつぶされた瞬間だった。

 ソフィアは膝から崩れ落ちそうになった。
 真実が暴かれたのに、それでも断罪は覆らない。

 これが権力。
 これが、この国の貴族社会なのだ。

 アレクサンダーは、深いため息をついた。
 それは、ソフィアへの同情というよりは、愚かな人類全体への失望のように聞こえた。

「……やれやれ。思考回路がフェルト化している人間と話すのは骨が折れる」

 彼はギルバート王子に背を向けると、へたり込んでいるソフィアの前に立った。

 見下ろす銀色の瞳。

 ソフィアは震えながら彼を見上げた。
 助けてくれたのに、無駄にしてしまった。

「立てるかな?」

 差し出された手。
 その手は、先ほどマリアンヌの嘘を暴いた手だ。

「……はい」

 ソフィアがおずおずと手を取ると、彼は予想外の言葉を口にした。

「君、先ほどあのベルベットのカーテンを触っていたね」

「え……?」

「パイルの方向を確認していた。あれは逆目で使うことで色に深みが出る。それを理解して触れていた令嬢は、会場で君だけだった」

 アレクサンダーの口元が、わずかに緩んだ。
 皮肉ではない、微かな笑み。

「ここにいる人々は知性のかけらもないようだな。酸素の無駄遣いだ。……行くぞ」

「ど、どこへですか?」

「私の領地だ。ちょうど、繊維に詳しい助手を求めていたところでね」

 アレクサンダーはソフィアの手を引くと、王族や貴族たちが唖然として見守る中、堂々と出口へと歩き出した。

 背後でギルバート王子の怒鳴り声が聞こえたが、ソフィアの耳にはもう届かなかった。

 握られた大きな手のひら。
 その温もりだけが、凍り付いたソフィアの心を溶かす唯一の熱源だった。
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