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第2話:フェルト化思考と呆れる公爵様
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石畳を叩く馬の蹄の音が、規則的なリズムを刻んでいる。
王宮から走り去った漆黒の馬車の中は、重苦しい沈黙……、ではなく、アレクサンダー・クロード公爵の不機嫌な溜息で満たされていた。
「……はあ。非論理的だ。あまりにも非論理的で、頭痛がしてくる」
向かいの席に座る彼は、長い足を組み、片手でこめかみを揉んでいる。
ソフィアは小さく身を縮こまらせた。
勢いで連れ出されたものの、冷静になればとんでもない事態だ。
国王主催のパーティーで、第二王子の婚約破棄宣言を無視し、断罪された令嬢を連れ去ったのだから。
「あ、あの……、公爵様」
「アレックスでいい。私の名前は長すぎて、呼ぶだけで口輪筋の無駄な筋力を消費する」
「は、はい、アレックス様……。その、申し訳ありませんでした。私のせいで、王家の方々に楯突くような形になってしまって……」
ソフィアが消え入るような声で謝罪すると、アレックスは銀色の瞳を向けた。
怒られる、と思って身構える。
しかし、彼は呆れたように肩をすくめただけだった。
「勘違いしないでくれたまえ。私は君を助けたわけではない。あの場の知性の欠落に耐えきれず、唯一まともな感性を持っていた君を回収しただけだ」
「まともな、感性……、ですか?」
「ああ。あの赤のベルベットだ」
アレックスは懐からハンカチを取り出し、モノクルを拭き始めた。
「あのカーテンは、南方の希少なシルクを使った輪奈ビロードだ。織りあげるのに膨大な手間がかかる芸術品だが、あの会場にいた有象無象は誰も見向きもしなかった。……君以外はね」
彼は拭き終わったモノクルを再び装着し、鋭い視線をソフィアに据えた。
「君はあの布の価値を知っていた。そして、逆目で触れることで最も美しい艶が出ることも理解していた。その一点において、君はあの王子よりも遥かに高等な生物だ」
高等な生物。
褒められているのか分類されているのか分からないが、彼がソフィアの好きなことを否定しなかったことだけは確かだった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「でも……、ギルバート殿下はきっとお怒りです。公爵家に迷惑がかかるのでは……」
「放っておけばいい。今の彼と議論するのは不可能だ」
アレックスは窓の外を流れる夜景を見やり、吐き捨てるように言った。
「彼の思考回路は完全にフェルト化している」
「フェルト化……?」
聞き慣れた手芸用語が、公爵の口から飛び出したことにソフィアは目を丸くした。
フェルト化とは、羊毛などの繊維が絡まり合い、縮んで硬くなる現象のことだ。
「そうだ。羊毛の表面にはスケール(鱗)がある。これに熱と圧力と水分を加えて揉み込むと、スケール同士がガッチリと噛み合い、二度と解けないほど強固に絡まり合う。これがフェルト化だ」
アレックスは指を組み合わせて、ぎゅうっと握りしめて見せた。
「今の王子は、マリアンヌ嬢の涙という水分と、怒りという熱、そして王族としてのプライドという圧力によって、脳のシナプスがフェルト状に凝り固まっている状態だ。こうなってはもう、論理の糸を一本ずつ解きほぐすことは不可能だよ。ハサミで切り裂くしかない」
真面目な顔で語られる強烈な皮肉に、ソフィアはぽかんとした後、思わず吹き出してしまった。
「ふ、ふふっ……」
「……何かおかしなことでも?」
「いえ、ごめんなさい。殿下の頭の中が、硬いフェルトになっているのを想像してしまって……」
羊毛の帽子のようにカチカチになった王子の脳みそ。
あまりにも奇妙で、的確な例えだった。
笑ってはいけない状況なのに、笑いが止まらない。
涙が滲むほど笑ったのは、いつぶりだろうか。
「笑えるなら問題ない。恐怖で機能不全に陥っているかと思ったが、君の精神構造は意外と丈夫なようだ」
アレックスは満足げに頷くと、居住まいを正した。
「さて、本題に入ろう。ソフィア・リネン嬢」
「はい」
「君を私の領地へ連れて行くが、ただ飯を食わせるつもりはない。我がクロード領は広大だが、産業がなく貧しい。私はそれを改革しようとしている」
彼は真剣な眼差しでソフィアを見つめた。
「私は繊維の科学的構造や性質には詳しいが、あくまで学問としての知識だ。美しい、心地よいといった感覚的な領域……、いわゆる風合いの判定には自信がない。そこでだ」
アレックスは、ソフィアの手を取った。
貴族令嬢にしては、少し荒れた手。
針仕事で指先は硬くなり、小さな傷が無数にある。
マリアンヌや義母からは「使用人の手だ」と嘲笑われてきた手だ。
だが、アレックスはその指先を、まるで貴重な原石でも見るかのようにまじまじと観察した。
「数多の布に触れ、針を通してきたこの指先が、私には必要だ。……どうだろう、私の助手兼開発アドバイザーとして働いてくれないか? 衣食住と、実験に必要なあらゆる素材は保証する」
それは、実家での居候扱いとは違う。
明確な役割と、敬意を持った提案だった。
ソフィアは、自分の指先を見つめた。
誰も見向きもしなかった、ただの布好きの地味な女。
けれどこの人は、「君が必要だ」と言ってくれた。
「……私で、お役に立てるなら」
「謙遜は不要だ。論理的に考えて、君以上の適任者はいない」
アレックスはニヤリと笑うと、馬車の壁をコツコツと叩いた。
「契約成立だ。ようこそ、私の研究所へ。……覚悟しておきたまえ、我が領地は布地にする前の綿花のようにフワフワした場所ではないぞ。泥と雑草だらけだ」
馬車は王都の門をくぐり、闇夜の街道へと進んでいく。
こうして、アレックスとの契約が成立したことにより、ソフィアの新たな運命の歯車が動き始めたのだった。
王宮から走り去った漆黒の馬車の中は、重苦しい沈黙……、ではなく、アレクサンダー・クロード公爵の不機嫌な溜息で満たされていた。
「……はあ。非論理的だ。あまりにも非論理的で、頭痛がしてくる」
向かいの席に座る彼は、長い足を組み、片手でこめかみを揉んでいる。
ソフィアは小さく身を縮こまらせた。
勢いで連れ出されたものの、冷静になればとんでもない事態だ。
国王主催のパーティーで、第二王子の婚約破棄宣言を無視し、断罪された令嬢を連れ去ったのだから。
「あ、あの……、公爵様」
「アレックスでいい。私の名前は長すぎて、呼ぶだけで口輪筋の無駄な筋力を消費する」
「は、はい、アレックス様……。その、申し訳ありませんでした。私のせいで、王家の方々に楯突くような形になってしまって……」
ソフィアが消え入るような声で謝罪すると、アレックスは銀色の瞳を向けた。
怒られる、と思って身構える。
しかし、彼は呆れたように肩をすくめただけだった。
「勘違いしないでくれたまえ。私は君を助けたわけではない。あの場の知性の欠落に耐えきれず、唯一まともな感性を持っていた君を回収しただけだ」
「まともな、感性……、ですか?」
「ああ。あの赤のベルベットだ」
アレックスは懐からハンカチを取り出し、モノクルを拭き始めた。
「あのカーテンは、南方の希少なシルクを使った輪奈ビロードだ。織りあげるのに膨大な手間がかかる芸術品だが、あの会場にいた有象無象は誰も見向きもしなかった。……君以外はね」
彼は拭き終わったモノクルを再び装着し、鋭い視線をソフィアに据えた。
「君はあの布の価値を知っていた。そして、逆目で触れることで最も美しい艶が出ることも理解していた。その一点において、君はあの王子よりも遥かに高等な生物だ」
高等な生物。
褒められているのか分類されているのか分からないが、彼がソフィアの好きなことを否定しなかったことだけは確かだった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「でも……、ギルバート殿下はきっとお怒りです。公爵家に迷惑がかかるのでは……」
「放っておけばいい。今の彼と議論するのは不可能だ」
アレックスは窓の外を流れる夜景を見やり、吐き捨てるように言った。
「彼の思考回路は完全にフェルト化している」
「フェルト化……?」
聞き慣れた手芸用語が、公爵の口から飛び出したことにソフィアは目を丸くした。
フェルト化とは、羊毛などの繊維が絡まり合い、縮んで硬くなる現象のことだ。
「そうだ。羊毛の表面にはスケール(鱗)がある。これに熱と圧力と水分を加えて揉み込むと、スケール同士がガッチリと噛み合い、二度と解けないほど強固に絡まり合う。これがフェルト化だ」
アレックスは指を組み合わせて、ぎゅうっと握りしめて見せた。
「今の王子は、マリアンヌ嬢の涙という水分と、怒りという熱、そして王族としてのプライドという圧力によって、脳のシナプスがフェルト状に凝り固まっている状態だ。こうなってはもう、論理の糸を一本ずつ解きほぐすことは不可能だよ。ハサミで切り裂くしかない」
真面目な顔で語られる強烈な皮肉に、ソフィアはぽかんとした後、思わず吹き出してしまった。
「ふ、ふふっ……」
「……何かおかしなことでも?」
「いえ、ごめんなさい。殿下の頭の中が、硬いフェルトになっているのを想像してしまって……」
羊毛の帽子のようにカチカチになった王子の脳みそ。
あまりにも奇妙で、的確な例えだった。
笑ってはいけない状況なのに、笑いが止まらない。
涙が滲むほど笑ったのは、いつぶりだろうか。
「笑えるなら問題ない。恐怖で機能不全に陥っているかと思ったが、君の精神構造は意外と丈夫なようだ」
アレックスは満足げに頷くと、居住まいを正した。
「さて、本題に入ろう。ソフィア・リネン嬢」
「はい」
「君を私の領地へ連れて行くが、ただ飯を食わせるつもりはない。我がクロード領は広大だが、産業がなく貧しい。私はそれを改革しようとしている」
彼は真剣な眼差しでソフィアを見つめた。
「私は繊維の科学的構造や性質には詳しいが、あくまで学問としての知識だ。美しい、心地よいといった感覚的な領域……、いわゆる風合いの判定には自信がない。そこでだ」
アレックスは、ソフィアの手を取った。
貴族令嬢にしては、少し荒れた手。
針仕事で指先は硬くなり、小さな傷が無数にある。
マリアンヌや義母からは「使用人の手だ」と嘲笑われてきた手だ。
だが、アレックスはその指先を、まるで貴重な原石でも見るかのようにまじまじと観察した。
「数多の布に触れ、針を通してきたこの指先が、私には必要だ。……どうだろう、私の助手兼開発アドバイザーとして働いてくれないか? 衣食住と、実験に必要なあらゆる素材は保証する」
それは、実家での居候扱いとは違う。
明確な役割と、敬意を持った提案だった。
ソフィアは、自分の指先を見つめた。
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けれどこの人は、「君が必要だ」と言ってくれた。
「……私で、お役に立てるなら」
「謙遜は不要だ。論理的に考えて、君以上の適任者はいない」
アレックスはニヤリと笑うと、馬車の壁をコツコツと叩いた。
「契約成立だ。ようこそ、私の研究所へ。……覚悟しておきたまえ、我が領地は布地にする前の綿花のようにフワフワした場所ではないぞ。泥と雑草だらけだ」
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