妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第5話:川の汚れは宝の山

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「……水が、不味いのです」

 クロード公爵邸の執務室。
 おずおずと陳情に訪れた領民代表の老人が、悲痛な面持ちで訴えた。

「クロード領を流れる川の水は、昔からどこか渋くて、飲むと口の中がキシキシします。作物の育ちも悪い。きっと、上流に住む水魔の呪いに違いありません……」

「呪い? 馬鹿馬鹿しい」

 書類の山に埋もれていたアレックスが、顔も上げずに切り捨てた。

「水質の悪化をオカルトのせいにするのは、思考停止した人間の悪い癖だ。原因は物理的、あるいは化学的な要因以外にあり得ない」

「で、ですが公爵様……」

「アレックス様、少し言い方が……」

 ソフィアが諌めるように小声で言うと、アレックスは「ふん」と鼻を鳴らし、ようやく羽ペンを置いた。

「わかった。現地へ行こう。その呪われた水とやらを分析すれば、お前たちの迷信もフェルトのように凝り固まった不安も、すべて溶解するだろう」

 案内されたのは、領地を縦断する川の中流域だった。

 水そのものは澄んで見えるが、川底の石はどこか白っぽく変色している。

「確かに、見た目は綺麗ですが……」

 ソフィアは川岸にしゃがみ込み、水を掌に掬ってみた。
 匂いはない。
 だが、指先で擦り合わせると、滑らかさがなく、キュッキュッと引っかかるような奇妙な感触がある。
 恐る恐る、指先についた雫を舐めてみた。

「……っ!」

「おい、ソフィア! 迂闊に口に入れるなと言っただろう。未知の細菌がいたらどうする」

 アレックスが慌てて駆け寄る。
 ソフィアは顔をしかめながら、口の中に広がる感覚を伝えた。

「ごめんなさい。でも……、変な味です。苦いというより、口の中の水分が全部持っていかれるような……、舌が縮こまるような感じがします」

「舌が縮こまる? ……収れん作用(アストリンゼント)か?」

 アレックスの目の色が変わった。

 彼は懐から試験管といくつかの試薬瓶を取り出した。
 まるで、散歩のついでに実験ができるよう常備しているかのようだ。
 彼は川水を試験管に採り、透明な液体――おそらくアンモニア水――を一滴垂らした。

 瞬間。
 透明だった水の中に、もわっと白い綿のような沈殿物が生まれた。

「水酸化アルミニウムのゲル沈殿……! やはりそうか!」

 アレックスは狂喜の笑みを浮かべ、モノクルを光らせた。

「ご老人! この川の上流には何がある?」

「は、はあ……。古い火山と、温泉が湧く岩場がありますが……」

「ビンゴだ! 火山性の土壌に含まれる硫酸塩が、温泉水に溶け出しているんだ」

 アレックスは試験管を太陽にかざし、高らかに宣言した。

「これは呪いでも毒でもない。――『明礬だ!」

「ミョウバン……、ですか?」

 ソフィアが首を傾げる。
 料理の灰汁抜きや、漬物の色止めに使われる白い粉のことだろうか。

「そうだ。硫酸カリウムアルミニウム。確かにこのまま飲めば不味いし、大量に摂取すれば腹も下すだろう。だがな、ソフィア。これは我々にとって、ダイヤモンドの原石よりも価値がある」

 アレックスはソフィアの肩をガシリと掴んだ。

「染色だ」

 その一言で、ソフィアの中に電流が走った。

「あっ……! 『媒染剤!」

 染色は、ただ植物の煮汁に布を浸せばいいわけではない。
 色素を繊維に定着させるための糊のような役割を果たす薬剤が必要だ。
 それが媒染剤である。

 中でもミョウバンは、アルミ媒染として最も一般的で、鮮やかな色を出すためには不可欠な最高級品だ。
 王都の染色ギルドでは、輸入物のミョウバンが高値で取引されていると聞いたことがある。

「その通りだ、助手殿! 素晴らしい理解力だ!」

 アレックスは川を指差した。

「この川は、巨大な媒染液のタンクだ。上流で結晶化させれば、純度の高いミョウバンが無限に採れる。今までお前たちは、黄金の水を垂れ流しながら『不味い』と嘆いていたわけだ」

 領民たちはポカンとしている。
 無理もない。
 水が不味いという悩み相談をしていたら、突然、大金持ちになれると言われたのだから。

「でも、アレックス様。ミョウバンが採れるのは素晴らしいことですが、領民たちの飲み水はどうするのですか?」

「簡単だ。上流に晶析プラントを作り、ミョウバンを取り尽くしてしまえばいい。そうすれば下流に流れるのは、ただの綺麗な水になる」

 アレックスはニヤリと笑った。

「公害を除去し、飲み水を確保し、さらに特産品として売りさばく。一石三鳥だ。……ククク、笑いが止まらん。イラクサという最強の繊維に続き、それを染めるための最強の媒染剤まで手に入るとはな」

 彼はすでに頭の中で、巨大な工場の設計図を描いているようだった。

「ソフィア、すぐにイラクサ繊維を持ってこい。この川の水で、茜を煮出して染める実験をするぞ。きっと、目が覚めるような鮮烈な赤が出るはずだ!」

「はい! ……ふふっ」

「なんだ、また笑っているのか?」

「いえ……。アレックス様にかかると、世界のすべてが宝物に見えてくるのが不思議で」

 ただの雑草が黄金の繊維になり、汚れた水が価値が高い粉になる。
 この人の知識というフィルターを通せば、絶望的な状況など存在しないのかもしれない。

 ソフィアは川面を見つめた。
 先ほどまで薄汚れて見えた川底の白さが、今は未来の豊かさを約束する輝きに見えた。

「さあ、忙しくなるぞ! ご老人、村の男たちを集めろ! 水路を引く!」

 公爵の号令が、川辺に響き渡る。
 かつて呪いの川と呼ばれたその場所は、この日を境に、クロード領の復興を支える恵みの川へと名前を変えることになるのだった。
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