5 / 44
第5話:川の汚れは宝の山
しおりを挟む
「……水が、不味いのです」
クロード公爵邸の執務室。
おずおずと陳情に訪れた領民代表の老人が、悲痛な面持ちで訴えた。
「クロード領を流れる川の水は、昔からどこか渋くて、飲むと口の中がキシキシします。作物の育ちも悪い。きっと、上流に住む水魔の呪いに違いありません……」
「呪い? 馬鹿馬鹿しい」
書類の山に埋もれていたアレックスが、顔も上げずに切り捨てた。
「水質の悪化をオカルトのせいにするのは、思考停止した人間の悪い癖だ。原因は物理的、あるいは化学的な要因以外にあり得ない」
「で、ですが公爵様……」
「アレックス様、少し言い方が……」
ソフィアが諌めるように小声で言うと、アレックスは「ふん」と鼻を鳴らし、ようやく羽ペンを置いた。
「わかった。現地へ行こう。その呪われた水とやらを分析すれば、お前たちの迷信もフェルトのように凝り固まった不安も、すべて溶解するだろう」
案内されたのは、領地を縦断する川の中流域だった。
水そのものは澄んで見えるが、川底の石はどこか白っぽく変色している。
「確かに、見た目は綺麗ですが……」
ソフィアは川岸にしゃがみ込み、水を掌に掬ってみた。
匂いはない。
だが、指先で擦り合わせると、滑らかさがなく、キュッキュッと引っかかるような奇妙な感触がある。
恐る恐る、指先についた雫を舐めてみた。
「……っ!」
「おい、ソフィア! 迂闊に口に入れるなと言っただろう。未知の細菌がいたらどうする」
アレックスが慌てて駆け寄る。
ソフィアは顔をしかめながら、口の中に広がる感覚を伝えた。
「ごめんなさい。でも……、変な味です。苦いというより、口の中の水分が全部持っていかれるような……、舌が縮こまるような感じがします」
「舌が縮こまる? ……収れん作用(アストリンゼント)か?」
アレックスの目の色が変わった。
彼は懐から試験管といくつかの試薬瓶を取り出した。
まるで、散歩のついでに実験ができるよう常備しているかのようだ。
彼は川水を試験管に採り、透明な液体――おそらくアンモニア水――を一滴垂らした。
瞬間。
透明だった水の中に、もわっと白い綿のような沈殿物が生まれた。
「水酸化アルミニウムのゲル沈殿……! やはりそうか!」
アレックスは狂喜の笑みを浮かべ、モノクルを光らせた。
「ご老人! この川の上流には何がある?」
「は、はあ……。古い火山と、温泉が湧く岩場がありますが……」
「ビンゴだ! 火山性の土壌に含まれる硫酸塩が、温泉水に溶け出しているんだ」
アレックスは試験管を太陽にかざし、高らかに宣言した。
「これは呪いでも毒でもない。――『明礬だ!」
「ミョウバン……、ですか?」
ソフィアが首を傾げる。
料理の灰汁抜きや、漬物の色止めに使われる白い粉のことだろうか。
「そうだ。硫酸カリウムアルミニウム。確かにこのまま飲めば不味いし、大量に摂取すれば腹も下すだろう。だがな、ソフィア。これは我々にとって、ダイヤモンドの原石よりも価値がある」
アレックスはソフィアの肩をガシリと掴んだ。
「染色だ」
その一言で、ソフィアの中に電流が走った。
「あっ……! 『媒染剤!」
染色は、ただ植物の煮汁に布を浸せばいいわけではない。
色素を繊維に定着させるための糊のような役割を果たす薬剤が必要だ。
それが媒染剤である。
中でもミョウバンは、アルミ媒染として最も一般的で、鮮やかな色を出すためには不可欠な最高級品だ。
王都の染色ギルドでは、輸入物のミョウバンが高値で取引されていると聞いたことがある。
「その通りだ、助手殿! 素晴らしい理解力だ!」
アレックスは川を指差した。
「この川は、巨大な媒染液のタンクだ。上流で結晶化させれば、純度の高いミョウバンが無限に採れる。今までお前たちは、黄金の水を垂れ流しながら『不味い』と嘆いていたわけだ」
領民たちはポカンとしている。
無理もない。
水が不味いという悩み相談をしていたら、突然、大金持ちになれると言われたのだから。
「でも、アレックス様。ミョウバンが採れるのは素晴らしいことですが、領民たちの飲み水はどうするのですか?」
「簡単だ。上流に晶析プラントを作り、ミョウバンを取り尽くしてしまえばいい。そうすれば下流に流れるのは、ただの綺麗な水になる」
アレックスはニヤリと笑った。
「公害を除去し、飲み水を確保し、さらに特産品として売りさばく。一石三鳥だ。……ククク、笑いが止まらん。イラクサという最強の繊維に続き、それを染めるための最強の媒染剤まで手に入るとはな」
彼はすでに頭の中で、巨大な工場の設計図を描いているようだった。
「ソフィア、すぐにイラクサ繊維を持ってこい。この川の水で、茜を煮出して染める実験をするぞ。きっと、目が覚めるような鮮烈な赤が出るはずだ!」
「はい! ……ふふっ」
「なんだ、また笑っているのか?」
「いえ……。アレックス様にかかると、世界のすべてが宝物に見えてくるのが不思議で」
ただの雑草が黄金の繊維になり、汚れた水が価値が高い粉になる。
この人の知識というフィルターを通せば、絶望的な状況など存在しないのかもしれない。
ソフィアは川面を見つめた。
先ほどまで薄汚れて見えた川底の白さが、今は未来の豊かさを約束する輝きに見えた。
「さあ、忙しくなるぞ! ご老人、村の男たちを集めろ! 水路を引く!」
公爵の号令が、川辺に響き渡る。
かつて呪いの川と呼ばれたその場所は、この日を境に、クロード領の復興を支える恵みの川へと名前を変えることになるのだった。
クロード公爵邸の執務室。
おずおずと陳情に訪れた領民代表の老人が、悲痛な面持ちで訴えた。
「クロード領を流れる川の水は、昔からどこか渋くて、飲むと口の中がキシキシします。作物の育ちも悪い。きっと、上流に住む水魔の呪いに違いありません……」
「呪い? 馬鹿馬鹿しい」
書類の山に埋もれていたアレックスが、顔も上げずに切り捨てた。
「水質の悪化をオカルトのせいにするのは、思考停止した人間の悪い癖だ。原因は物理的、あるいは化学的な要因以外にあり得ない」
「で、ですが公爵様……」
「アレックス様、少し言い方が……」
ソフィアが諌めるように小声で言うと、アレックスは「ふん」と鼻を鳴らし、ようやく羽ペンを置いた。
「わかった。現地へ行こう。その呪われた水とやらを分析すれば、お前たちの迷信もフェルトのように凝り固まった不安も、すべて溶解するだろう」
案内されたのは、領地を縦断する川の中流域だった。
水そのものは澄んで見えるが、川底の石はどこか白っぽく変色している。
「確かに、見た目は綺麗ですが……」
ソフィアは川岸にしゃがみ込み、水を掌に掬ってみた。
匂いはない。
だが、指先で擦り合わせると、滑らかさがなく、キュッキュッと引っかかるような奇妙な感触がある。
恐る恐る、指先についた雫を舐めてみた。
「……っ!」
「おい、ソフィア! 迂闊に口に入れるなと言っただろう。未知の細菌がいたらどうする」
アレックスが慌てて駆け寄る。
ソフィアは顔をしかめながら、口の中に広がる感覚を伝えた。
「ごめんなさい。でも……、変な味です。苦いというより、口の中の水分が全部持っていかれるような……、舌が縮こまるような感じがします」
「舌が縮こまる? ……収れん作用(アストリンゼント)か?」
アレックスの目の色が変わった。
彼は懐から試験管といくつかの試薬瓶を取り出した。
まるで、散歩のついでに実験ができるよう常備しているかのようだ。
彼は川水を試験管に採り、透明な液体――おそらくアンモニア水――を一滴垂らした。
瞬間。
透明だった水の中に、もわっと白い綿のような沈殿物が生まれた。
「水酸化アルミニウムのゲル沈殿……! やはりそうか!」
アレックスは狂喜の笑みを浮かべ、モノクルを光らせた。
「ご老人! この川の上流には何がある?」
「は、はあ……。古い火山と、温泉が湧く岩場がありますが……」
「ビンゴだ! 火山性の土壌に含まれる硫酸塩が、温泉水に溶け出しているんだ」
アレックスは試験管を太陽にかざし、高らかに宣言した。
「これは呪いでも毒でもない。――『明礬だ!」
「ミョウバン……、ですか?」
ソフィアが首を傾げる。
料理の灰汁抜きや、漬物の色止めに使われる白い粉のことだろうか。
「そうだ。硫酸カリウムアルミニウム。確かにこのまま飲めば不味いし、大量に摂取すれば腹も下すだろう。だがな、ソフィア。これは我々にとって、ダイヤモンドの原石よりも価値がある」
アレックスはソフィアの肩をガシリと掴んだ。
「染色だ」
その一言で、ソフィアの中に電流が走った。
「あっ……! 『媒染剤!」
染色は、ただ植物の煮汁に布を浸せばいいわけではない。
色素を繊維に定着させるための糊のような役割を果たす薬剤が必要だ。
それが媒染剤である。
中でもミョウバンは、アルミ媒染として最も一般的で、鮮やかな色を出すためには不可欠な最高級品だ。
王都の染色ギルドでは、輸入物のミョウバンが高値で取引されていると聞いたことがある。
「その通りだ、助手殿! 素晴らしい理解力だ!」
アレックスは川を指差した。
「この川は、巨大な媒染液のタンクだ。上流で結晶化させれば、純度の高いミョウバンが無限に採れる。今までお前たちは、黄金の水を垂れ流しながら『不味い』と嘆いていたわけだ」
領民たちはポカンとしている。
無理もない。
水が不味いという悩み相談をしていたら、突然、大金持ちになれると言われたのだから。
「でも、アレックス様。ミョウバンが採れるのは素晴らしいことですが、領民たちの飲み水はどうするのですか?」
「簡単だ。上流に晶析プラントを作り、ミョウバンを取り尽くしてしまえばいい。そうすれば下流に流れるのは、ただの綺麗な水になる」
アレックスはニヤリと笑った。
「公害を除去し、飲み水を確保し、さらに特産品として売りさばく。一石三鳥だ。……ククク、笑いが止まらん。イラクサという最強の繊維に続き、それを染めるための最強の媒染剤まで手に入るとはな」
彼はすでに頭の中で、巨大な工場の設計図を描いているようだった。
「ソフィア、すぐにイラクサ繊維を持ってこい。この川の水で、茜を煮出して染める実験をするぞ。きっと、目が覚めるような鮮烈な赤が出るはずだ!」
「はい! ……ふふっ」
「なんだ、また笑っているのか?」
「いえ……。アレックス様にかかると、世界のすべてが宝物に見えてくるのが不思議で」
ただの雑草が黄金の繊維になり、汚れた水が価値が高い粉になる。
この人の知識というフィルターを通せば、絶望的な状況など存在しないのかもしれない。
ソフィアは川面を見つめた。
先ほどまで薄汚れて見えた川底の白さが、今は未来の豊かさを約束する輝きに見えた。
「さあ、忙しくなるぞ! ご老人、村の男たちを集めろ! 水路を引く!」
公爵の号令が、川辺に響き渡る。
かつて呪いの川と呼ばれたその場所は、この日を境に、クロード領の復興を支える恵みの川へと名前を変えることになるのだった。
19
あなたにおすすめの小説
一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。
木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」
結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。
彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。
身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。
こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。
マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。
「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」
一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。
それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。
それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。
夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。
【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。
銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。
しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。
しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……
【12月末日公開終了】これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
「陛下、子種を要求します!」~陛下に離縁され追放される七日の間にかなえたい、わたしのたったひとつの願い事。その五年後……~
ぽんた
恋愛
「七日の後に離縁の上、実質上追放を言い渡す。そのあとは、おまえは王都から連れだされることになる。人質であるおまえを断罪したがる連中がいるのでな。信用のおける者に生活できるだけの金貨を渡し、託している。七日間だ。おまえの国を攻略し、おまえを人質に差し出した父王と母后を処分したわが軍が戻ってくる。そのあと、おまえは命以外のすべてを失うことになる」
その日、わたしは内密に告げられた。小国から人質として嫁いだ親子ほど年齢の離れた国王である夫に。
わたしは決意した。ぜったいに願いをかなえよう。たったひとつの望みを陛下にかなえてもらおう。
そう。わたしには陛下から授かりたいものがある。
陛下から与えてほしいたったひとつのものがある。
この物語は、その五年後のこと。
※ハッピーエンド確約。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
お子ちゃま王子様と婚約破棄をしたらその後出会いに恵まれました
さこの
恋愛
私の婚約者は一つ歳下の王子様。私は伯爵家の娘で資産家の娘です。
学園卒業後は私の家に婿入りすると決まっている。第三王子殿下と言うこともあり甘やかされて育って来て、子供の様に我儘。
婚約者というより歳の離れた弟(出来の悪い)みたい……
この国は実力主義社会なので、我儘王子様は婿入りが一番楽なはずなんだけど……
私は口うるさい?
好きな人ができた?
……婚約破棄承りました。
全二十四話の、五万字ちょっとの執筆済みになります。完結まで毎日更新します( .ˬ.)"
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる