妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第6話:密室の倉庫

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 領地経営は順調な滑り出しを見せていた。

 イラクサから繊維を取り出す作業は軌道に乗り、川から採取したミョウバンによる染色実験も成功。
 次なるステップとして、アレックスは近隣の商業都市から試験的に綿花(コットン)を買い付けていた。
 イラクサ繊維と綿を混ぜて紡ぐ混紡により、肌触りの良さと強さを両立させるためだ。

 その貴重な綿花が到着して三日後のこと。
 保管倉庫の視察に訪れたソフィアは、扉を開けた瞬間に顔をしかめた。

「……臭います」

「うん? 埃っぽいのは倉庫の常だろう」

「いいえ、違います。これは……、土のような、湿った嫌な臭いです」

 ソフィアの予感は的中した。
 倉庫の奥に積み上げられた綿花の梱包を解くと、本来ならば純白であるはずの綿の塊が、緑や黒の斑点に覆われていたのだ。

「ああ、なんてこと……! 綿が……」

 ソフィアが悲鳴を上げる。
 
 カビだ。
 それも、表面だけでなく深部まで菌糸が食い込んでいる。
 これでは売り物にならないどころか、糸にすることすら不可能だ。

「ど、どういうことだ! 換気は完璧だったはずだぞ!」

 叫んだのは、倉庫管理を任されていた男、ベインズだった。
 彼は雇われたばかりの中年男性で、脂汗をかきながら必死に弁解を始めた。

「公爵様、信じてください! 私はマニュアル通り、毎日窓を開けて換気を行っていました! 雨の日だって、湿気がこもらないように細心の注意を払っていたんです!」

「ふむ。マニュアル通り、か」

 アレックスは感情の読めない顔で、壁に掛かった湿度計を見た。
 針は湿度45%を指している。
 カビが生えるような環境ではない。

「ほら、見てください! 今はこんなに乾燥している! これはきっと、仕入れた綿花が元々腐っていたんです! 不良品を掴まされたんですよ!」

 ベインズはここぞとばかりに責任転嫁を図る。
 しかし、ソフィアは首を横に振った。

「いいえ。到着した時に私が確認しました。その時は、とても乾いていて、ふわふわの良い綿でしたわ」

「じゃ、じゃあ、お前さんの確認ミスだ!」

「……っ」

 ソフィアが唇を噛む。

 証拠がない。
 今の倉庫内の空気は確かに乾燥しているのだ。
 だが、アレックスは静かに笑った。
 それは、獲物を追い詰める捕食者の笑みだった。

「ベインズ。君は繊維の平衡水分率という言葉を知っているか?」

「へ、へい……、なんだって?」

 アレックスは懐から一枚の紙を取り出した。
 そこには、曲線を描くグラフが書かれている。

「繊維というものは、周囲の湿度に合わせて水分を吸ったり吐いたりする。だが、それには時間がかかるんだ。そして、ある湿度環境に長く置かれると、繊維内の水分量は一定の値で安定する。これを平衡水分率という」

 彼は汚染された綿花の一部をピンセットで摘み出し、携帯用の水分計に挟んだ。
 数値が表示される。

「……水分率14%。高いな。高すぎる」

「だ、だから、元々湿っていたんだと……」

「黙りたまえ。ここからは数学の時間だ」

 アレックスはグラフを突きつけた。

「綿(セルロース)において、水分率が14%になるための相対湿度は、グラフから読み取ると約85%以上だ。カビがこれほど爆発的に繁殖するには、その高湿度環境が少なくとも48時間は維持されなければならない」

 アレックスの視線が鋭くベインズを射抜く。

「君は『毎日換気していた』と言ったな? この地域の過去三日間の気象データによると、外気の平均湿度は60%前後。雨も降っていない。窓を開けていたなら、倉庫内の湿度が85%を超えることは物理的にあり得ないのだよ」

「そ、それは……局地的な雨が……!」

「いいや、違う。外気が乾燥しているのに、綿だけが湿っている。この現象が示す答えは一つだ」

 アレックスは倉庫の床を指差した。
 コンクリートの床の一部に、うっすらと白い輪染みのような跡が残っている。

湿だ。君はこの倉庫を密閉し、床に大量の水を撒くか、あるいは湯を沸かして蒸気を充満させた。そうやって人工的に湿度が高い環境を作り出し、綿を腐らせた。そして私の視察直前に窓を全開にして、空気だけを乾燥させて証拠隠滅を図った」

 ベインズの顔色が土気色に変わる。

「だが、綿は正直だ。空気はすぐに入れ替わっても、繊維の奥に入り込んだ水分はそう簡単には抜けない。この綿は、君が犯した密室での罪を記憶していたわけだ」

 逃げ場のない論理の檻。
 ベインズはその場に崩れ落ちた。

「……金だ。王都の商人から、頼まれたんだ……。『新参者の公爵が商売を始める前に、出鼻をくじいてやれ』って……」

「やはりな。私の事業を快く思わない連中の差し金か」

 アレックスは汚れた綿花を投げ捨て、冷徹に見下ろした。

「愚かな。君が腐らせたのは綿花だけじゃない。君自身の信用と、人生だ。……連れて行け」

 控えていた警備兵にベインズが連行されていく。
 静まり返った倉庫に、カビ臭い空気だけが残された。

「……残念です」

 ソフィアがカビた綿を悲しげに見つめる。

「せっかくの綿が全滅です。これでは、混紡の実験が……」

「嘆くな、ソフィア。実験材料は失ったが、もっと重要なデータが得られた」

「え?」

「我々の敵の存在だ。この事業は、確実に既得権益層を脅かしている。だからこそ彼らは妨害工作に出た。つまり、我々の方向性は正解だということだ」

 アレックスはソフィアの頭にポンと手を置いた。

「それに、カビた綿も無駄にはしない。これを炭化させて活性炭を作れば、脱臭剤や濾過材として使える。……転んでもただでは起きないのが、科学というものだ」

「ふふっ。……そうですね、アレックス様」

 どんな失敗も次の発明の種にする。
 その逞しさに、ソフィアは救われた気がした。

 敵は多い。
 けれど、この論理と知識の盾があれば、きっと戦える。
 腐った綿の山を前に、二人は新たな対策――警備システムの強化と、敵対勢力への対抗策――を練り始めるのだった。
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