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第21話:イオン結合の誓い
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王都での決戦となる王家主催の夜会が、いよいよ明日に迫っていた。
この夜会は、クロード公爵家が開発した新素材を貴族社会にお披露目する場であり、同時に、ソフィアを陥れた者たちとの直接対決の場でもあった。
深夜の衣装部屋。
ソフィアは、明日のために仕立てられたドレスの前で立ち尽くしていた。
それは、彼女自身が開発したシルケット加工綿とクロード・レースをふんだんに使い、アレックスが特別に調合した深い群青色に染め上げられた、夜空のようなドレスだった。
「……綺麗」
けれど、ソフィアの指先は震えていた。
ドレスに触れようとする手が、どうしても止まってしまう。
(怖い……)
脳裏にフラッシュバックするのは、あの日の記憶。
濡れた羊毛のドレス。
元婚約者ギルバート王子の罵倒。
「心が歪んだ女」
「顔も見たくない」
そんな言葉や、周囲からの嘲笑と軽蔑の視線。
もしまた、同じことが起きたら?
自分が隣に立つことで、アレックス様まで汚れた公爵と呼ばれてしまったら?
ソフィアは呼吸が浅くなり、その場にしゃがみ込んだ。
「……逃げ出したい」
弱音を吐いた、その時だった。
「逃げる? 物理的に不可能だな」
静かな声と共に、衣装部屋の扉が開いた。
アレックスだった。彼は手に温かいハーブティーのカップを持っている。
「屋敷の周囲は警備兵で固めてあるし、何より君の靴底と床の摩擦係数では、私から逃げ切ることはできない」
「ア、アレックス様……」
彼はソフィアの蒼白な顔を見て、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、ソフィアの隣に膝をつき、目線を合わせた。
「……また、あの甘撚り王子のことを思い出していたか?」
「……はい。ごめんなさい。私、やっぱり怖くて。私のような傷物が、あんな晴れ舞台に立っていいのかって……」
「傷物?」
アレックスは不快そうに眉をひそめた。
「ソフィア。君は染色のメカニズムを知っているか?」
「え……? はい、繊維の隙間に色素を入り込ませること、ですよね?」
「半分正解だが、もっと深いレベルの話だ」
彼はソフィアの手を取り、自分の胸に当てさせた。
トクトクと、規則正しい鼓動が伝わってくる。
「染料が繊維に定着する方法はいくつかある。あの王子が君に向けた好意、あれは単なるファンデルワールス力(物理吸着)だ」
「ふぁんでる……?」
「分子間に働く、ごく弱い引力のことだ。ただ表面に乗っかっているだけだから、洗濯すれば――つまり、少しのトラブルや時間の経過で、すぐに落ちてしまう。色褪せた想いだ」
アレックスは、ソフィアの手を強く握りしめた。
「だが、私は違う」
その瞳は、明日の夜会のために用意したドレスよりも深く、強い青色を湛えていた。
「私の君への想いはイオン結合だ」
――イオン結合。
プラスの電荷を持つ原子と、マイナスの電荷を持つ原子が、電気的に強く引き合い、結びつく化学反応。
「私は偏屈で、理屈っぽく、プラスの電荷が強すぎる男だ。対して君は、自己評価が低く、常にマイナスの電荷を帯びて怯えている」
アレックスは自嘲気味に笑ったが、その声は熱を帯びていた。
「だが、だからこそ、我々は誰よりも強く惹き合う。プラスとマイナスが中和し、安定した化合物となるように。……この結合エネルギーは、ちょっとやそっとの熱や衝撃では切断できない」
「アレックス様……」
「君は傷物ではないし汚れでもない。君の心に染み付いた過去のシミは、私が新しい愛という染料で、分子レベルから完全に染め変えてやる」
彼はソフィアの頬に手を添え、親指で涙を拭った。
「愛なんて、脳内物質による化学反応に過ぎないと思っていた。だが……、もしそうなら、私の心は君という染料に完全に染着してしまったようだ。どんな漂白剤を使っても、もう二度と白くは戻らない」
それは、科学者である彼なりの、これ以上ない永遠の愛の告白だった。
ソフィアの目から、恐怖の涙ではなく、温かい涙が溢れ出した。
「……私で、いいのでしょうか。こんなに弱くて、臆病な私で」
「君でなければ、反応が起きないんだ。……実験データがそう証明している」
アレックスはソフィアの額に、誓いのキスを落とした。
触れた唇から、電流のような熱が伝わる。
「さあ、立つんだ。明日は君が主役だ。そのドレスを纏い、世界で一番美しい化学反応の結果を、あの愚か者たちに見せつけてやろう」
「……はい!」
ソフィアは立ち上がった。
不思議なことに、震えは止まっていた。
彼と強く結びついているという確信が、見えない鎧となって彼女を守ってくれている気がした。
衣装部屋の鏡に映る二人の姿は、まだ完璧ではないかもしれない。
けれど、互いに支え合い、決して離れない強さを秘めていた。
そして、運命の夜会が幕を開ける。
ソフィアとアレックス、二人の繊維が織りなす逆転劇が、いよいよ始まるのだった。
この夜会は、クロード公爵家が開発した新素材を貴族社会にお披露目する場であり、同時に、ソフィアを陥れた者たちとの直接対決の場でもあった。
深夜の衣装部屋。
ソフィアは、明日のために仕立てられたドレスの前で立ち尽くしていた。
それは、彼女自身が開発したシルケット加工綿とクロード・レースをふんだんに使い、アレックスが特別に調合した深い群青色に染め上げられた、夜空のようなドレスだった。
「……綺麗」
けれど、ソフィアの指先は震えていた。
ドレスに触れようとする手が、どうしても止まってしまう。
(怖い……)
脳裏にフラッシュバックするのは、あの日の記憶。
濡れた羊毛のドレス。
元婚約者ギルバート王子の罵倒。
「心が歪んだ女」
「顔も見たくない」
そんな言葉や、周囲からの嘲笑と軽蔑の視線。
もしまた、同じことが起きたら?
自分が隣に立つことで、アレックス様まで汚れた公爵と呼ばれてしまったら?
ソフィアは呼吸が浅くなり、その場にしゃがみ込んだ。
「……逃げ出したい」
弱音を吐いた、その時だった。
「逃げる? 物理的に不可能だな」
静かな声と共に、衣装部屋の扉が開いた。
アレックスだった。彼は手に温かいハーブティーのカップを持っている。
「屋敷の周囲は警備兵で固めてあるし、何より君の靴底と床の摩擦係数では、私から逃げ切ることはできない」
「ア、アレックス様……」
彼はソフィアの蒼白な顔を見て、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、ソフィアの隣に膝をつき、目線を合わせた。
「……また、あの甘撚り王子のことを思い出していたか?」
「……はい。ごめんなさい。私、やっぱり怖くて。私のような傷物が、あんな晴れ舞台に立っていいのかって……」
「傷物?」
アレックスは不快そうに眉をひそめた。
「ソフィア。君は染色のメカニズムを知っているか?」
「え……? はい、繊維の隙間に色素を入り込ませること、ですよね?」
「半分正解だが、もっと深いレベルの話だ」
彼はソフィアの手を取り、自分の胸に当てさせた。
トクトクと、規則正しい鼓動が伝わってくる。
「染料が繊維に定着する方法はいくつかある。あの王子が君に向けた好意、あれは単なるファンデルワールス力(物理吸着)だ」
「ふぁんでる……?」
「分子間に働く、ごく弱い引力のことだ。ただ表面に乗っかっているだけだから、洗濯すれば――つまり、少しのトラブルや時間の経過で、すぐに落ちてしまう。色褪せた想いだ」
アレックスは、ソフィアの手を強く握りしめた。
「だが、私は違う」
その瞳は、明日の夜会のために用意したドレスよりも深く、強い青色を湛えていた。
「私の君への想いはイオン結合だ」
――イオン結合。
プラスの電荷を持つ原子と、マイナスの電荷を持つ原子が、電気的に強く引き合い、結びつく化学反応。
「私は偏屈で、理屈っぽく、プラスの電荷が強すぎる男だ。対して君は、自己評価が低く、常にマイナスの電荷を帯びて怯えている」
アレックスは自嘲気味に笑ったが、その声は熱を帯びていた。
「だが、だからこそ、我々は誰よりも強く惹き合う。プラスとマイナスが中和し、安定した化合物となるように。……この結合エネルギーは、ちょっとやそっとの熱や衝撃では切断できない」
「アレックス様……」
「君は傷物ではないし汚れでもない。君の心に染み付いた過去のシミは、私が新しい愛という染料で、分子レベルから完全に染め変えてやる」
彼はソフィアの頬に手を添え、親指で涙を拭った。
「愛なんて、脳内物質による化学反応に過ぎないと思っていた。だが……、もしそうなら、私の心は君という染料に完全に染着してしまったようだ。どんな漂白剤を使っても、もう二度と白くは戻らない」
それは、科学者である彼なりの、これ以上ない永遠の愛の告白だった。
ソフィアの目から、恐怖の涙ではなく、温かい涙が溢れ出した。
「……私で、いいのでしょうか。こんなに弱くて、臆病な私で」
「君でなければ、反応が起きないんだ。……実験データがそう証明している」
アレックスはソフィアの額に、誓いのキスを落とした。
触れた唇から、電流のような熱が伝わる。
「さあ、立つんだ。明日は君が主役だ。そのドレスを纏い、世界で一番美しい化学反応の結果を、あの愚か者たちに見せつけてやろう」
「……はい!」
ソフィアは立ち上がった。
不思議なことに、震えは止まっていた。
彼と強く結びついているという確信が、見えない鎧となって彼女を守ってくれている気がした。
衣装部屋の鏡に映る二人の姿は、まだ完璧ではないかもしれない。
けれど、互いに支え合い、決して離れない強さを秘めていた。
そして、運命の夜会が幕を開ける。
ソフィアとアレックス、二人の繊維が織りなす逆転劇が、いよいよ始まるのだった。
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