妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第29話:暗闇の証言

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 クロード公爵家は、デニム生地のクロード・ジーンズで鉱山労働者の心と金を鷲掴みにし、名実ともに繊維産業の覇者となりつつあった。
 王都の貴族社会における地位も盤石となり、アレックスは国王への陳情や商工会議所での会合で多忙を極めていた。

 そんなある日の夜。
 王都のタウンハウスへ帰宅したソフィアは、執事のセバスチャンに声をかけられた。

「ソフィア様、アレックス様が、少し遅れるとのことです」

「あら。分かりましたわ。ではその間、皆さんのお手伝いをしておきますね」

 そう言って、ソフィアは使用人用の裏口からゴミを捨てに出た。
 夜の王都は、貴族街とはいえ、人通りの少ない裏路地は薄暗い。
 生ゴミの入ったバケツをゴミ捨て場に置こうとした、その時だった。

 背後から、何者かに口を塞がれ、路地の壁に強く押し付けられた。

 反射的に悲鳴を上げようとするが、それも無駄に終わる。
 全身から力が抜け、持っていたバケツがガシャンと音を立てて倒れた。

(だ、誰……!?)

 暗闇で相手の顔は見えない。
 だが、男の腕がソフィアの体を抱きしめるように固定し、もう片方の手がドレスの胸元に伸びてきた。

 目的は、金品か、それとも――。
 恐怖で心臓が破裂しそうになった瞬間、男の懐から、微かにカチッと金属が擦れる音がした。

「……っ!」

 その音に、男の体がわずかに硬直したように感じた。
 その隙を逃さず、ソフィアは全身の力を振り絞って、男の足を踏みつけた。

「ぐはっ!」

 男がうめき声を上げ、一瞬だけ腕の力が緩む。
 ソフィアはそのまま体当たりをするように逃げ出し、裏路地を全力で駆け抜けた。

 「誰か! 誰かいませんか!?」

 裏口の警備兵が異変に気づき、駆けつけてきた。
 男はソフィアを追いかけることはせず、そのまま暗闇の中へ消えていった。

「……くそっ。目を離した隙にこれか」

 事件発生から一時間後。

 アレックスは、現場となった裏路地を鋭い目つきで観察していた。
 ソフィアは無事だったが、アレックスに優しい言葉をかけられたあとも、少し怯えていた。
 ドレスも少し破れ、髪は乱れている。

「ソフィア。相手の顔は?」

「見えませんでした。暗くて……、でも、体格は大きかったと思います」

「何か特徴は? 匂い、声、服の素材……、何でもいい」

 アレックスは、ソフィアの記憶を呼び起こすように問いかけた。
 ソフィアは震える手で、自分の胸元――襲われた時に男の腕が触れていたあたり――を撫でた。

「あの……。腕が私の体を強く抱きしめていた時……、服の、肌触りが……」

「肌触り? どうだった?」

「とても……、滑らかでした。絹のように、ツルツルとしていて、高級な布だと思いました」

 滑らか。
 アレックスの眉がピクリと動く。
 その時、裏路地の奥から、一人の男が進み出てきた。

「よお、公爵さん。こんなところで何の騒ぎだ?」

 男の名はギル。
 この裏路地を縄張りにしているチンピラのリーダーだ。
 彼らのようなならず者は、王都の治安を乱す存在としてアレックスも警戒していた。

「見ての通り、襲撃事件だ。君は何か知っているか?」

「へっ、俺は何も知らねえな。……だが、今夜、この路地を通りかかった奴なら知ってるぜ」

「誰だ?」

「ベルベット家の馬車だ。あの当主のじいさんが、馬車に乗ってこの路地の奥へ入っていくのを見たな。……なんか、でっかい荷物を抱えた男も一緒に乗ってたぜ」

 ベルベット家。
 また、マリアンヌの実家か。
 アレックスは冷徹な目で、ギルの顔を見つめた。

「ベルベット家の馬車が、なぜこんな裏路地に?」

「さあな。裏の抜け道を使ったんじゃねえか? 急いでたみたいだったぜ」

「ふむ。……そのベルベット家の馬車に乗っていた男の服の肌触りはどうだった?」

 アレックスの唐突な質問に、ギルは首を傾げた。

「あー? そんなことまでわからねえよ。でも、公爵さんがいつも着てるような、高そうな上着を羽織ってた気がするな。……確か、ベルベットの」

 その言葉に、ソフィアはハッとした。

(ベルベット……)

「そうか。ベルベットの服か。……ギル、君は嘘をついているな」

 アレックスの目が、ギルを射抜いた。
 ギルは一瞬怯んだが、すぐに強気に構えた。

「へっ、何のことだか」

「ソフィアの証言と矛盾する」

「どういう意味だ?」

「ソフィアは襲った男の服の肌触りを『滑らかだった』と言った。だが、君が言ったベルベットの服は、その証言とは全く異なる特性を持つ」

 アレックスは、事件現場の壁に貼られた古びたポスターの一部を指差した。
 それは、ベルベット生地の宣伝用ポスターだった。

「ベルベットとは、短い毛羽(パイル)を表面に織り出した起毛素材だ。このパイルには順目と逆目がある。順目に撫でると滑らかだが、逆目に撫でると毛が立ち、ざらざらとした独特の抵抗感がある」

 彼はソフィアが襲われた状況を再現するように、自分の腕を壁に押し付けた。
 そして、男がソフィアを羽交い締めにし、体を固定した状況を想像させた。

「男がソフィアを壁に押し付け、後ろから抱きしめるように固定したのなら、服のパイルは逆目の状態になる。その状態で触れれば、必ずざらざらとした抵抗感があったはずだ。だが、ソフィアは『滑らかだった』と言った」

 アレックスは、ギルを真っ直ぐに見つめた。

「つまり、襲った男はベルベットの服を着ていない。……いや、そもそも、君がその襲撃事件の犯人、あるいは共犯者だ。ソフィアにベルベットの肌触りを伝えようとして、矛盾が生じた。……違うか?」

 ギルの顔色が、みるみるうちに青ざめていく。

 彼は自分が「見た」と証言したはずのベルベットの服の肌触りを、自分の犯行と擦り合わせようとした結果、決定的な矛盾を生んでしまったのだ。

「ち、違う! 俺はただの目撃者だ!」

「カチッという金属音も聞こえたそうだな。ソフィアの記憶が正しければ、それはポケットから出したナイフの音だ」

 アレックスは懐からナイフを取り出し、カチッと開いて見せた。
 ギルが目を見開く。

「お前の狙いは、ソフィアの首にかけていた王城の通行証か、あるいは彼女の持つ新商品の設計図だろう。ベルベット家と裏で手を組んで、金を稼ぐつもりだったか」

 ギルは震えながら、ゆっくりと後ずさる。

「くそっ……! なんだてめえは!?」

「……衛兵、確保だ!」

 物陰に潜んでいた衛兵たちがギルを取り囲み、あっという間に拘束した。
 ギルは捕らえられながらも、アレックスを睨みつけた。

「てめえ! 俺がベルベット家の当主が乗った馬車を見たってのは本当だぞ! あれは幻じゃねえ!」

「分かっている。それだけが、唯一の事実だろう」

 アレックスは冷たく言い放ち、ソフィアを抱き寄せた。

「ベルベット家は、夜会の後、ひそかに裏路地で君を襲う計画を立てていた。そして、それに君が協力した。……違うか?」

「くそっ……!」

「口の硬い男だ。だが、その嘘も、貴様が着ている服の肌触りも、全て論理によって暴かれる」

 連行されていくギルの背中を見送りながら、ソフィアはアレックスに抱きついた。

「怖かった……。でも、アレックス様がすぐに来てくださって、本当に良かったです」

「もう二度と、君から目を離さない。……私が隣にいれば、どんな暗闇でも君は滑らかなシルクのように無傷でいられる」

 アレックスの腕の中で、ソフィアは安堵の息を吐いた。
 見えない脅威が潜む王都の夜で、アレックスの能力は、彼女を守る最強の盾となった。

 ただ、事件は解決したが、ベルベット家の黒い影は、ますます深まっていた……。
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