妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第40話:断罪の法廷(後編)

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 有機溶剤による証拠隠滅の失敗を暴かれ、マリアンヌは逃げ場を失っていた。

 客観的な証拠、動機、そして科学的な痕跡。
 すべてが彼女を指し示している。
 もはや論理的な弁明は不可能だった。

 だからこそ、彼女は最後の武器にすがった。
 それが、彼女のお得意の涙である。

「うっ……、ううっ……!」

 マリアンヌはその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き崩れた。

「ひどい……、ひどいですわ! 私はただ、怖かっただけなのです! お父様に言われて、訳も分からず薬品を買わされて……。私は被害者です! こんな恐ろしい公爵に責め立てられて、頭がおかしくなりそうです!」

 なりふり構わぬ泣き落としだった。

 美しい令嬢が、床に伏して震え、涙を流す姿。
 それは、古い騎士道精神を持つ一部の貴族や、情に脆い者たちの心を揺さぶるには十分な演出だった。

「確かに、少しやりすぎではないか?」

「か弱い女性をそこまで追い詰めなくても……」

 会場の空気が、わずかにマリアンヌへの同情へと傾きかける。
 隣にいたギルバート王子も、これ幸いとばかりに声を上げた。

「そ、そうだ! マリアンヌは怯えているだけだ! クロード公爵、貴様の冷酷な尋問が彼女を錯乱させたのだ! これ以上、彼女をいじめるな!」

 論理を感情で塗りつぶそうとする、いつもの手口。
 ソフィアは唇を噛んだ。
 また、こうして有耶無耶にされてしまうのか。

 だが、アレックスは呆れたように天井を仰いだ。

「……やれやれ。証拠がなくなると、次は水分(涙)で希釈して誤魔化すつもりか」

 彼はハンカチを取り出すこともなく、冷ややかにマリアンヌを見下ろした。

「マリアンヌ嬢。君は今、自分が可哀想な被害者に見えると思っているな?」

「うっ、ぐすっ……、違います、私は本当に……」

「演技だ」

 アレックスが一刀両断する。

「人間の涙には三種類ある。目を潤す基礎分泌、ゴミが入った時の反射性分泌、そして感情による情動性分泌だ」

 彼は一歩踏み込み、マリアンヌの顔を覗き込んだ。

「情動性の涙――特に悔恨や悲しみによる涙には、副交感神経の働きでカリウムやマンガン、そしてタンパク質が多く含まれる。これらは粘度が高く、ゆっくりと頬を伝う。……だが、今の君の涙はどうだ?」

 アレックスは、彼女の頬を滑り落ちる雫を指差した。

「サラサラとして、水っぽい。これは交感神経が優位な状態――つまり恐怖や興奮、あるいは計算によって流される涙の特徴だ。君は罪を悔いているのではない。罰を受けるのが怖い、この場を切り抜けたいという自己保身のために泣いているだけだ」

「なっ……!」

 図星を突かれ、マリアンヌの涙が一瞬止まる。

「それに、勘違いしているようだが……、君の涙には何の価値もない」

 アレックスは背を向け、ソフィアの手を取って引き寄せた。

「ソフィア。君は覚えているか? 以前、君が泣いた時、私は『塩分がシルクを傷める』と言った」

「はい……、覚えています」

「訂正しよう。君の涙なら、私が何度でも拭う。だが、彼女の涙は別だ」

 アレックスは会場中の人々に聞こえるように、朗々と告げた。

「ソフィア。君の笑顔は、どんな強力な界面活性剤よりも、僕の心の汚れを落としてくれる」

「かいめん……、かっせいざい?」

 ソフィアが瞬きをする。

「そうだ。水と油は本来混ざり合わない。だが、界面活性剤があれば、その境界を取り払い、汚れを包み込んで洗い流すことができる」

 彼は愛おしげにソフィアを見つめた。

「人間嫌いで凝り固まっていた油汚れのような私の心を、君の優しさが解きほぐし、世界と繋げてくれた。君こそが、私にとって最高の浄化作用だ」

 そして、冷徹な視線を再びマリアンヌに向けた。

「だが、マリアンヌ。君の涙はただの汚染水だ。洗浄力などない。むしろ、触れるものすべてを嘘と欺瞞で汚していく。……そんな有害物質で、この神聖な法廷を汚すな」

 完全なる拒絶。
 涙という最後の武器すらも、汚染水と切り捨てられたマリアンヌは、絶望に顔を歪めた。

「あ……、ああぁ……っ!」

 もはや言葉も出ない。
 彼女の周りから、同情の気配は完全に消え失せていた。
 残ったのは、哀れな罪人を見る冷ややかな目だけだ。

 玉座の国王が、重々しく口を開いた。

「……勝負あったな。証拠は十分だ」

 国王が木槌を打ち鳴らす。

「ガストン・ベルベット伯爵、ならびに令嬢マリアンヌ。貴殿らが犯した数々の罪――殺人未遂、証拠隠滅、商取引における不正、そして王家を欺く行為。これらは万死に値する」

 厳粛な判決が下される。

「ベルベット家の爵位を剥奪し、全財産を没収する。ガストンおよびマリアンヌは、北方の鉱山へ送り、生涯労働刑に処す」

 鉱山。それは、アレックスが開発したジーンズを履いた鉱夫たちが働く、過酷な現場だ。
 かつて「絹しか着ない」と豪語していた彼女が、これからは泥と汗にまみれて生きることになるのだ。

「また、ギルバート第二王子。そなたの見る目の無さと、冤罪に加担した軽率さは王族にあるまじき失態だ。王位継承権を剥奪し、離宮での謹慎を命じる」

「そ、そんな……、父上!?」

 衛兵たちが罪人たちを取り囲む。
 マリアンヌが絶叫する。

「嫌よ! こんなの何かの間違いよ! お姉様、助けて! ソフィアお姉様ぁぁっ!」

 すがりつくような叫び声が響く。

 ソフィアは一瞬だけ悲しげな顔をしたが、決して振り返らなかった。
 アレックスが、彼女の耳元を守るように手を添えていたからだ。

「聞くな、ソフィア。あれはもう、君とは関係のないノイズだ」

「……はい。さようなら、マリアンヌ」

 ソフィアは小さく呟き、前を向いた。
 罪人たちが引きずり出され、扉が閉まる。
 法廷に静寂が戻った。

 国王が、アレックスとソフィアに向かって微笑んだ。

「クロード公爵、そしてソフィア嬢。見事であった。そなたらの真実のタペストリーは、実に美しく織り上げられていたぞ」

 アレックスは優雅に一礼し、ソフィアの手を取った。

「勿体なきお言葉。……ですが陛下、まだ完成ではありません」

「ほう?」

「これからは、二人でもっと強靭で、美しい未来を織っていく予定ですので」

 アレックスの言葉に、会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
 ソフィアは恥ずかしそうに頬を染めながらも、アレックスの手をしっかりと握り返した。

 長い戦いは終わった。
 嘘と悪意は科学の力で漂白され、二人の前には、晴れやかな青空のような未来が広がっていた。
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