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第8話:妻の限界
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王太后の生誕祭に向けた新作香水の開発は、想像を絶する苦難を極めた。
アーサーの要求する一ヶ月という納期は、精油の抽出工程を考えれば正気の沙汰ではない。
さらに、イザベラが「私の感性」と称して気まぐれに持ってくる抽象的なイメージを、香りの化学式に落とし込む作業がクロエの肩に重くのしかかっていた。
「もっとこう……、ふわっとして、きらきらした感じ! あと、誰よりも目立つような強い甘さが欲しいですわ」
イザベラの無責任な言葉を反芻しながら、クロエは薄暗い工房でビーカーを傾けていた。
抽出されたばかりのジャスミンの精油が、琥珀色のとろみを持って滴り落ちる。
強い甘さ。
それは安易に配合すれば、ただの俗悪で下品な匂いに成り下がる。
気品を保ちながら彼女の要求を満たすためには、微量のオークモスやベチバーといった土や木の香りで底支えしなければならない。
ふいに、視界がぐらりと揺れた。
クロエは咄嗟に作業台の端を掴み、浅い呼吸を繰り返した。
ここ数日、まともな睡眠をとっていない。
食事も喉を通らず、口にするのは濃く淹れた紅茶だけだ。
指先は荒れ、目の下には濃い隈が張り付いている。
鏡を見るまでもなく、今の自分がどれほど酷い顔をしているか想像がついた。
(あと少し……、調香のベースさえ決まれば、熟成期間に入れる)
クロエは冷や汗を拭い、再びビーカーに向かおうとした。
しかし、持ち上げた右腕が、鉛のように重い。
全身の関節が軋むように痛み、奥歯がガチガチと鳴り始めた。
工房内の温度は蒸留器の熱で十分に高いはずなのに、氷水に浸かっているかのように体が震える。
「……奥様!」
慌ただしい足音と共に、工房に飛び込んできたのはメイドのメアリーだった。
彼女の手には、夕食のトレイが乗せられている。
「奥様、顔色が真っ青です! お熱があるのでは……!」
メアリーがトレイを放り出し、クロエの額に手を当てる。
「ひっ……! 燃えるように熱いです! 奥様、すぐにベッドへ……!」
「大丈夫、です……。あと少しで、ベースの配合が……」
クロエは震える手でビーカーを握りしめたまま、掠れた声で答えた。
ここで倒れるわけにはいかない。
明日には、アーサーがサンプルの確認に来る。
彼を怒らせれば、また「君がやりたがってた事業だろ」と冷たい言葉を浴びせられるだけだ。
「いけません! このままでは倒れてしまいます!」
メアリーは半ば強引にクロエからビーカーを取り上げ、彼女の体を支えた。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、クロエの足から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
目が覚めると、自室のベッドの上だった。
分厚い掛け布団を被せられているにもかかわらず、体はまだ小刻みに震えている。
喉はカラカラに渇き、頭の芯で鈍い痛みが脈打っていた。
「……奥様、お目覚めですか?」
ベッドの傍らで、メアリーが心配そうに覗き込んでいた。
彼女の目には涙が浮かんでいる。
「水、を……」
「はい、ただいま」
メアリーが差し出したコップの水を、クロエはゆっくりと飲み下した。
冷たい水が、火照った体に染み渡る。
「旦那様には……?」
「執事のトーマスさんが、旦那様をお呼びに上がりました。もうすぐお見えになるかと……」
メアリーが言い終わるか終わらないかのうちに、扉が乱暴に開かれた。
「クロエ! 倒れたって本当か!?」
アーサーの声だった。
しかし、その声に焦りや心配の色は薄い。
彼の表情に浮かんでいるのは、純粋な苛立ちだった。
光を孕んだ金髪は綺麗にセットされ、上等なベルベットのジャケットを着こなしている。
それは明らかに、外出の準備を整えた姿だ。
「……申し訳ありません。少し、熱を出してしまって……」
クロエはベッドから身を起こそうとしたが、アーサーはそれを手で制した。
いや、正確には、触れるのを躊躇ったように見えた。
そして、彼は苦しんでいるクロエに対して、残酷な言葉を吐くのだった。
アーサーの要求する一ヶ月という納期は、精油の抽出工程を考えれば正気の沙汰ではない。
さらに、イザベラが「私の感性」と称して気まぐれに持ってくる抽象的なイメージを、香りの化学式に落とし込む作業がクロエの肩に重くのしかかっていた。
「もっとこう……、ふわっとして、きらきらした感じ! あと、誰よりも目立つような強い甘さが欲しいですわ」
イザベラの無責任な言葉を反芻しながら、クロエは薄暗い工房でビーカーを傾けていた。
抽出されたばかりのジャスミンの精油が、琥珀色のとろみを持って滴り落ちる。
強い甘さ。
それは安易に配合すれば、ただの俗悪で下品な匂いに成り下がる。
気品を保ちながら彼女の要求を満たすためには、微量のオークモスやベチバーといった土や木の香りで底支えしなければならない。
ふいに、視界がぐらりと揺れた。
クロエは咄嗟に作業台の端を掴み、浅い呼吸を繰り返した。
ここ数日、まともな睡眠をとっていない。
食事も喉を通らず、口にするのは濃く淹れた紅茶だけだ。
指先は荒れ、目の下には濃い隈が張り付いている。
鏡を見るまでもなく、今の自分がどれほど酷い顔をしているか想像がついた。
(あと少し……、調香のベースさえ決まれば、熟成期間に入れる)
クロエは冷や汗を拭い、再びビーカーに向かおうとした。
しかし、持ち上げた右腕が、鉛のように重い。
全身の関節が軋むように痛み、奥歯がガチガチと鳴り始めた。
工房内の温度は蒸留器の熱で十分に高いはずなのに、氷水に浸かっているかのように体が震える。
「……奥様!」
慌ただしい足音と共に、工房に飛び込んできたのはメイドのメアリーだった。
彼女の手には、夕食のトレイが乗せられている。
「奥様、顔色が真っ青です! お熱があるのでは……!」
メアリーがトレイを放り出し、クロエの額に手を当てる。
「ひっ……! 燃えるように熱いです! 奥様、すぐにベッドへ……!」
「大丈夫、です……。あと少しで、ベースの配合が……」
クロエは震える手でビーカーを握りしめたまま、掠れた声で答えた。
ここで倒れるわけにはいかない。
明日には、アーサーがサンプルの確認に来る。
彼を怒らせれば、また「君がやりたがってた事業だろ」と冷たい言葉を浴びせられるだけだ。
「いけません! このままでは倒れてしまいます!」
メアリーは半ば強引にクロエからビーカーを取り上げ、彼女の体を支えた。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、クロエの足から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
目が覚めると、自室のベッドの上だった。
分厚い掛け布団を被せられているにもかかわらず、体はまだ小刻みに震えている。
喉はカラカラに渇き、頭の芯で鈍い痛みが脈打っていた。
「……奥様、お目覚めですか?」
ベッドの傍らで、メアリーが心配そうに覗き込んでいた。
彼女の目には涙が浮かんでいる。
「水、を……」
「はい、ただいま」
メアリーが差し出したコップの水を、クロエはゆっくりと飲み下した。
冷たい水が、火照った体に染み渡る。
「旦那様には……?」
「執事のトーマスさんが、旦那様をお呼びに上がりました。もうすぐお見えになるかと……」
メアリーが言い終わるか終わらないかのうちに、扉が乱暴に開かれた。
「クロエ! 倒れたって本当か!?」
アーサーの声だった。
しかし、その声に焦りや心配の色は薄い。
彼の表情に浮かんでいるのは、純粋な苛立ちだった。
光を孕んだ金髪は綺麗にセットされ、上等なベルベットのジャケットを着こなしている。
それは明らかに、外出の準備を整えた姿だ。
「……申し訳ありません。少し、熱を出してしまって……」
クロエはベッドから身を起こそうとしたが、アーサーはそれを手で制した。
いや、正確には、触れるのを躊躇ったように見えた。
そして、彼は苦しんでいるクロエに対して、残酷な言葉を吐くのだった。
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