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第10話:灰になった夫への気持ち
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重い扉が閉まる音が、静まり返った寝室に虚しく響き渡った。
アーサーの足音は、迷うことなく遠ざかっていく。
軽やかで、浮き立つようなその足取りは、これから逢瀬を楽しむ男のそれ以外の何物でもなかった。
ベッドの傍らで、メイドのメアリーが堪えきれないように嗚咽を漏らしている。
「奥様……、あんなの、あんまりです……っ」
メアリーが握りしめるクロエの手は、高熱で異常なほど熱かった。
しかし、クロエ自身の内側は、恐ろしいほどの寒気に包まれていた。
(ああ……)
クロエは、微かに開いた瞳で、アーサーが消えた扉の向こうの虚空を見つめていた。
頭の芯で脈打つ熱の痛みよりも、もっと深い場所が軋みを上げている。
『僕はイザベラと観劇に行くから』
『君が体調管理を怠るから、僕の予定が狂いそうだよ』
『僕が傍にいたからって、君の熱が下がるわけじゃないだろ?』
去り際に投げつけられた言葉の破片が、一つ一つ、クロエの胸に突き刺さっていく。
かつては、この男の甘い言葉を信じていた。
『君のおかげだ、クロエ。君は僕の女神だよ』
事業の黒字化に成功した夜、彼が差し出した温かい手。
その手に引かれて、政略結婚から本当の夫婦になれたのだと、心の底から喜んだ。
自分の持つ知識と技術が、彼の役に立ち、彼を笑顔にできることが何よりの誇りだった。
だからこそ、どれほど無理難題を押し付けられても耐えてきた。
徹夜で蒸留器の前に立ち続け、指先が荒れ果てても、彼が褒めてくれるならそれでよかった。
自分の考案した香水を、別の女の感性の賜物として発表されても、彼がそれで社交界での立場を盤石にできるのなら、裏方に徹しようと自分を無理矢理納得させてきた。
彼が公然と愛人を作り、その女の俗悪な香水の匂いを漂わせて帰ってきても、波風を立てないよう、愛想笑いでやり過ごしてきた。
すべては、彼を愛していたからだ。
いつか、自分の献身に気づいてくれるはずだという、微かで愚かな期待があったからだ。
しかし。
クロエは、ゆっくりと瞬きをした。
高熱で霞む視界の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
それは、怒りではなかった。
「どうして私を大切にしてくれないの!」と叫び、枕を涙で濡らすような、熱情を伴う悲しみでもなかった。
もっと静かで、冷たい感覚。
胸の奥で、何かが完全に凍りつく音がした。
まるで、長い間辛うじて燃え続けていた最後の種火に、氷水がぶち撒けられたような感覚。
一瞬にしてすべての熱が奪われ、後には冷たい灰だけが残った。
アーサーの足音は、迷うことなく遠ざかっていく。
軽やかで、浮き立つようなその足取りは、これから逢瀬を楽しむ男のそれ以外の何物でもなかった。
ベッドの傍らで、メイドのメアリーが堪えきれないように嗚咽を漏らしている。
「奥様……、あんなの、あんまりです……っ」
メアリーが握りしめるクロエの手は、高熱で異常なほど熱かった。
しかし、クロエ自身の内側は、恐ろしいほどの寒気に包まれていた。
(ああ……)
クロエは、微かに開いた瞳で、アーサーが消えた扉の向こうの虚空を見つめていた。
頭の芯で脈打つ熱の痛みよりも、もっと深い場所が軋みを上げている。
『僕はイザベラと観劇に行くから』
『君が体調管理を怠るから、僕の予定が狂いそうだよ』
『僕が傍にいたからって、君の熱が下がるわけじゃないだろ?』
去り際に投げつけられた言葉の破片が、一つ一つ、クロエの胸に突き刺さっていく。
かつては、この男の甘い言葉を信じていた。
『君のおかげだ、クロエ。君は僕の女神だよ』
事業の黒字化に成功した夜、彼が差し出した温かい手。
その手に引かれて、政略結婚から本当の夫婦になれたのだと、心の底から喜んだ。
自分の持つ知識と技術が、彼の役に立ち、彼を笑顔にできることが何よりの誇りだった。
だからこそ、どれほど無理難題を押し付けられても耐えてきた。
徹夜で蒸留器の前に立ち続け、指先が荒れ果てても、彼が褒めてくれるならそれでよかった。
自分の考案した香水を、別の女の感性の賜物として発表されても、彼がそれで社交界での立場を盤石にできるのなら、裏方に徹しようと自分を無理矢理納得させてきた。
彼が公然と愛人を作り、その女の俗悪な香水の匂いを漂わせて帰ってきても、波風を立てないよう、愛想笑いでやり過ごしてきた。
すべては、彼を愛していたからだ。
いつか、自分の献身に気づいてくれるはずだという、微かで愚かな期待があったからだ。
しかし。
クロエは、ゆっくりと瞬きをした。
高熱で霞む視界の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
それは、怒りではなかった。
「どうして私を大切にしてくれないの!」と叫び、枕を涙で濡らすような、熱情を伴う悲しみでもなかった。
もっと静かで、冷たい感覚。
胸の奥で、何かが完全に凍りつく音がした。
まるで、長い間辛うじて燃え続けていた最後の種火に、氷水がぶち撒けられたような感覚。
一瞬にしてすべての熱が奪われ、後には冷たい灰だけが残った。
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