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第11話:切り替わった妻の心
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(そうね……、彼の言う通りだわ)
クロエは、ひび割れた唇の端をわずかに持ち上げた。
彼女が熱を出して寝込んでいようが、死にかけていようが、彼にとっては納品に遅れが出るというだけの不都合なのだ。
便利な道具が故障した。
修理する時間も惜しいから、とりあえず休ませておけ。
彼の中でのクロエの価値は、ただそれだけのこと。
(私は、何を期待していたのかしら)
この男に、人の痛みや思いやりを求めること自体が間違っていたのだ。
彼は金、名声、女という、自分の欲望を満たすことしか頭にない。
他者の努力や献身は、彼という存在を輝かせるための燃料でしかなく、燃え尽きれば捨てられるだけのもの。
それに気づかず、身を粉にして尽くし続けてきた自分が、ひどく滑稽に思えた。
「奥様……? 大丈夫ですか? お医者様を……」
メアリーが不安げに覗き込む。
クロエの表情から、一切の感情が消え失せていたからだ。
先ほどまで微かに浮かべていた涙の跡は乾き、深い翡翠の瞳は、まるで硝子玉のように冷たく澄み切っていた。
「メアリー」
クロエは、驚くほど冷静な声で口を開いた。
熱で掠れてはいたが、その響きには迷いがなかった。
「泣かないで。私は大丈夫よ」
クロエは、メアリーの手から自分の手を静かに引き抜いた。
その仕草は、もう誰の温もりも必要としていないことを示しているかのようだった。
「お医者様は呼ばなくていいわ。ただの過労と熱よ。解熱剤を飲んで、一晩眠れば下がるはず」
「でも……っ」
「いいの。それより、トーマスを呼んできてもらえるかしら。少し、彼に頼みたいことがあるの」
クロエはゆっくりとベッドから身を起こし、背もたれに寄りかかった。
もはや、アーサーに傍にいてほしいなどと微塵も思わない。
あの男の足音も、声も、甘ったるい匂いも、今はただ不快なだけで、心は一ミリも動かなくなっていた。
(愛が憎しみに変わるんじゃない。……愛が、無関心に変わるのね)
クロエは、静かに自分の心を見つめた。
憎しみという感情すら、今の彼女には勿体なかった。
憎むためには、相手に対する執着が必要だ。
しかし、彼女の心はすでに、アーサー・ヴァレンティンという存在を、完全にどうでもいいものとして切り捨てていた。
「かしこまりました。すぐにお呼びいたします」
メアリーが慌ただしく部屋を出て行く。
一人残された寝室で、クロエは窓の外の空を見上げた。
熱のせいか、それとも心が完全に切り替わったせいか、不思議なほど頭が冴え渡っていた。
(……この家を出よう)
それは、衝動的な家出ではない。
自分の持つすべての専門知識と技術を持ち出し、彼らの手から完全に離れるための冷徹な決意。
彼らはクロエを、何もできない、自分たちに依存するだけの女だと見下している。
ならば、その傲慢さを最大限に利用してやればいい。
「私はもう、二度とあなたに期待しない」
冷え切った部屋に、クロエの呟きが静かに溶けていった。
その声には、微かな怒りも哀しみも混じっていない。
ただ、完璧な諦めと見切りだけが、氷のように美しく、冷ややかに横たわっていた。
クロエは、ひび割れた唇の端をわずかに持ち上げた。
彼女が熱を出して寝込んでいようが、死にかけていようが、彼にとっては納品に遅れが出るというだけの不都合なのだ。
便利な道具が故障した。
修理する時間も惜しいから、とりあえず休ませておけ。
彼の中でのクロエの価値は、ただそれだけのこと。
(私は、何を期待していたのかしら)
この男に、人の痛みや思いやりを求めること自体が間違っていたのだ。
彼は金、名声、女という、自分の欲望を満たすことしか頭にない。
他者の努力や献身は、彼という存在を輝かせるための燃料でしかなく、燃え尽きれば捨てられるだけのもの。
それに気づかず、身を粉にして尽くし続けてきた自分が、ひどく滑稽に思えた。
「奥様……? 大丈夫ですか? お医者様を……」
メアリーが不安げに覗き込む。
クロエの表情から、一切の感情が消え失せていたからだ。
先ほどまで微かに浮かべていた涙の跡は乾き、深い翡翠の瞳は、まるで硝子玉のように冷たく澄み切っていた。
「メアリー」
クロエは、驚くほど冷静な声で口を開いた。
熱で掠れてはいたが、その響きには迷いがなかった。
「泣かないで。私は大丈夫よ」
クロエは、メアリーの手から自分の手を静かに引き抜いた。
その仕草は、もう誰の温もりも必要としていないことを示しているかのようだった。
「お医者様は呼ばなくていいわ。ただの過労と熱よ。解熱剤を飲んで、一晩眠れば下がるはず」
「でも……っ」
「いいの。それより、トーマスを呼んできてもらえるかしら。少し、彼に頼みたいことがあるの」
クロエはゆっくりとベッドから身を起こし、背もたれに寄りかかった。
もはや、アーサーに傍にいてほしいなどと微塵も思わない。
あの男の足音も、声も、甘ったるい匂いも、今はただ不快なだけで、心は一ミリも動かなくなっていた。
(愛が憎しみに変わるんじゃない。……愛が、無関心に変わるのね)
クロエは、静かに自分の心を見つめた。
憎しみという感情すら、今の彼女には勿体なかった。
憎むためには、相手に対する執着が必要だ。
しかし、彼女の心はすでに、アーサー・ヴァレンティンという存在を、完全にどうでもいいものとして切り捨てていた。
「かしこまりました。すぐにお呼びいたします」
メアリーが慌ただしく部屋を出て行く。
一人残された寝室で、クロエは窓の外の空を見上げた。
熱のせいか、それとも心が完全に切り替わったせいか、不思議なほど頭が冴え渡っていた。
(……この家を出よう)
それは、衝動的な家出ではない。
自分の持つすべての専門知識と技術を持ち出し、彼らの手から完全に離れるための冷徹な決意。
彼らはクロエを、何もできない、自分たちに依存するだけの女だと見下している。
ならば、その傲慢さを最大限に利用してやればいい。
「私はもう、二度とあなたに期待しない」
冷え切った部屋に、クロエの呟きが静かに溶けていった。
その声には、微かな怒りも哀しみも混じっていない。
ただ、完璧な諦めと見切りだけが、氷のように美しく、冷ややかに横たわっていた。
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