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1.5章 逃走
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「ねぇ、母ちゃん。
まだつかないのー?
もう尻がいたい!」
「こら、我慢なさい。
周りに迷惑よ」
「ねえ、あなた。
家についたらお隣さんのところ行ってくれないかしら?」
「ああ、わかった」
「お兄ちゃん、帰ったら遊んでー」
「えー、でももう疲れたんだよな」
乗合馬車の中。いろんな人がもちろん乗っている。だからいろんな声も聞こえてくる。親子の声。夫婦の声。兄妹の声。
一人、で乗っている人、あまりいないのかな……。どうしてだろう、急に怖くなってきた。今、自分には頼れる人は誰もいなくて、もしかしたらすべての人が敵なのかもしれない。その実感が、本当に急にやってきたのだ。
大切な人に向ける、暖かな、声。兄上、も。兄上も、そんな声で、僕に話しかけて、くれていた。厄介な弟だって、そんなこと言わずに……。
手に入れたと思った。薄氷の上だって知っていたけれど、僕の『特別』を。ねえ、どうして? どうして、神様? 僕の願いを叶えてくれるんじゃなかったの?
僕は、ただ……。
ねえ、この怒りを、この悲しみを。僕はどうしたらいいの? ミベラ様、神様なら願いを叶えてよ! 僕に、僕にあなたの世界を見ろというなら! そこに用意しているのは幸せなシナリオであってよ! このぐちゃぐちゃな、感情を、どうにかして。
……どうして僕は逃げているんだ? 敵はあそこにいた。あの皇宮に。皇帝も、皇后も、あいつらはいまだのうのうとあそこにいる。なのに、どうして僕は今、こうして逃げている。しかも、あいつらの追手からおびえて。今からでもいい。戻って、そしてあいつらの首を掻き切りたい。いや、そんな生暖かいことしない。
指を切って、次は足。そうやってゆっくりと死に向かわせてやりたい。ずっと、ずっと苦しませて。ああ、毒でもいい。長く、ひどく苦しむ毒。母上を殺した毒。そうやって、あの二人の、敵を討てるのは僕だけなのに!
このくらいの願い、かなえてくれてもいいじゃないか!
『スーハル、愛しているわ』
『生きてくれ、スーハル。
傷ついても、一人になっても……。
俺の自慢の弟』
は、はうえ。あに、うえ。二人は、どうして望まないの? 自分の敵を討てと。命じてくれたら、僕は……。僕だって同じ気持ちだった。二人のためなら、死んでもいいって。そう思えるくらい大切だったのに。
ああ、だめだ。……蓋をしておこう、この気持ちに。母上の亡くなった姿、それに兄上の苦しそうな声。僕のすべての憎しみが詰まったこの記憶と感情に。いや、できるだけ二人のすべてに蓋を。だって、二人が望んだのはそういう生き方なのでしょう?
僕はいい子だから、できるよ。二人が望むように生きてみせる。何事もなかったかのように、笑って、そうして生きていける。いや、生きていく。僕は、大丈夫。かちゃり、頭の中で音がする。鍵がかかった音が。ゆっくりと息を吸って、吐く。ようやく平静を取り戻せた。
なんだかおなかすいた、パン食べよう。
先ほどかったパンを取り出す。う、やっぱり固い。でも、仕方ない、これしか食べるものがないんだ。目を閉じながら、なんとかかぶりつく。はー、歯が欠けないといいんだが。
「おい、こんなとこで飯なんか食うなよ」
「そうよ。
匂いがこもったって、逃せないのに」
「え、あ、ごめんなさい」
もしかして、ここで食べてはだめだった? 確かに、前世では電車で食事をする人どうなの? って思ったけれど、そういうことか? でもこのパン匂いとかないのに。
これはまずい。感覚だが、こう嫌な感じがする。おそらく睨まれている? 乗合馬車なんて乗ったことがないから、こういうところのルールがわからない。
慌ててパンをしまう。食事はしばらく我慢か。でも、ここで妙に注目されるよりは我慢した方がいい。これで一件落着だろう、そう思った僕は甘かったらしい。男はさらに言いつのってきた。
「それに、あんたなんでそんなフードかぶってんだ?
隣でそんな恰好されてちゃ、辛気臭いんだよ」
「え、あ、あの、すみません。
でも……」
おとなしくパンをしまったのに、なんで絡んでくるんだろう。あまりにも非効率的。だけど、ここで言い返すのも面倒だ。
「あー、ぼくしってるよ。
この人めがみえないんだ」
「こ、こら!」
「あ?
目?
確かに開けてないが」
「チトセ兄ちゃんがたすけてた」
「チトセ?」
チトセさんの名を口にすると、思い切り舌打ちされた。そのあと、飯は食うな、とだけいって隣の人は黙り込む。初めからそれだけでよかっただろうに。
そのあとも馬車は進んでいった。
何日かかけてチャベの町へとつくと馬車を降りる。これもチトセさんのおかげだと思うけれど、御者さんが次に乗る馬車を教えてくれた。出発は夜らしい。その前に何か食べるものを買うか。まあ、またあのパンがいいんだろうけど。
なんとかまたパンと水を手に入れる。そして馬車に乗り込むと、出発。これは国境までつながっているらしい。助かる。
まだつかないのー?
もう尻がいたい!」
「こら、我慢なさい。
周りに迷惑よ」
「ねえ、あなた。
家についたらお隣さんのところ行ってくれないかしら?」
「ああ、わかった」
「お兄ちゃん、帰ったら遊んでー」
「えー、でももう疲れたんだよな」
乗合馬車の中。いろんな人がもちろん乗っている。だからいろんな声も聞こえてくる。親子の声。夫婦の声。兄妹の声。
一人、で乗っている人、あまりいないのかな……。どうしてだろう、急に怖くなってきた。今、自分には頼れる人は誰もいなくて、もしかしたらすべての人が敵なのかもしれない。その実感が、本当に急にやってきたのだ。
大切な人に向ける、暖かな、声。兄上、も。兄上も、そんな声で、僕に話しかけて、くれていた。厄介な弟だって、そんなこと言わずに……。
手に入れたと思った。薄氷の上だって知っていたけれど、僕の『特別』を。ねえ、どうして? どうして、神様? 僕の願いを叶えてくれるんじゃなかったの?
僕は、ただ……。
ねえ、この怒りを、この悲しみを。僕はどうしたらいいの? ミベラ様、神様なら願いを叶えてよ! 僕に、僕にあなたの世界を見ろというなら! そこに用意しているのは幸せなシナリオであってよ! このぐちゃぐちゃな、感情を、どうにかして。
……どうして僕は逃げているんだ? 敵はあそこにいた。あの皇宮に。皇帝も、皇后も、あいつらはいまだのうのうとあそこにいる。なのに、どうして僕は今、こうして逃げている。しかも、あいつらの追手からおびえて。今からでもいい。戻って、そしてあいつらの首を掻き切りたい。いや、そんな生暖かいことしない。
指を切って、次は足。そうやってゆっくりと死に向かわせてやりたい。ずっと、ずっと苦しませて。ああ、毒でもいい。長く、ひどく苦しむ毒。母上を殺した毒。そうやって、あの二人の、敵を討てるのは僕だけなのに!
このくらいの願い、かなえてくれてもいいじゃないか!
『スーハル、愛しているわ』
『生きてくれ、スーハル。
傷ついても、一人になっても……。
俺の自慢の弟』
は、はうえ。あに、うえ。二人は、どうして望まないの? 自分の敵を討てと。命じてくれたら、僕は……。僕だって同じ気持ちだった。二人のためなら、死んでもいいって。そう思えるくらい大切だったのに。
ああ、だめだ。……蓋をしておこう、この気持ちに。母上の亡くなった姿、それに兄上の苦しそうな声。僕のすべての憎しみが詰まったこの記憶と感情に。いや、できるだけ二人のすべてに蓋を。だって、二人が望んだのはそういう生き方なのでしょう?
僕はいい子だから、できるよ。二人が望むように生きてみせる。何事もなかったかのように、笑って、そうして生きていける。いや、生きていく。僕は、大丈夫。かちゃり、頭の中で音がする。鍵がかかった音が。ゆっくりと息を吸って、吐く。ようやく平静を取り戻せた。
なんだかおなかすいた、パン食べよう。
先ほどかったパンを取り出す。う、やっぱり固い。でも、仕方ない、これしか食べるものがないんだ。目を閉じながら、なんとかかぶりつく。はー、歯が欠けないといいんだが。
「おい、こんなとこで飯なんか食うなよ」
「そうよ。
匂いがこもったって、逃せないのに」
「え、あ、ごめんなさい」
もしかして、ここで食べてはだめだった? 確かに、前世では電車で食事をする人どうなの? って思ったけれど、そういうことか? でもこのパン匂いとかないのに。
これはまずい。感覚だが、こう嫌な感じがする。おそらく睨まれている? 乗合馬車なんて乗ったことがないから、こういうところのルールがわからない。
慌ててパンをしまう。食事はしばらく我慢か。でも、ここで妙に注目されるよりは我慢した方がいい。これで一件落着だろう、そう思った僕は甘かったらしい。男はさらに言いつのってきた。
「それに、あんたなんでそんなフードかぶってんだ?
隣でそんな恰好されてちゃ、辛気臭いんだよ」
「え、あ、あの、すみません。
でも……」
おとなしくパンをしまったのに、なんで絡んでくるんだろう。あまりにも非効率的。だけど、ここで言い返すのも面倒だ。
「あー、ぼくしってるよ。
この人めがみえないんだ」
「こ、こら!」
「あ?
目?
確かに開けてないが」
「チトセ兄ちゃんがたすけてた」
「チトセ?」
チトセさんの名を口にすると、思い切り舌打ちされた。そのあと、飯は食うな、とだけいって隣の人は黙り込む。初めからそれだけでよかっただろうに。
そのあとも馬車は進んでいった。
何日かかけてチャベの町へとつくと馬車を降りる。これもチトセさんのおかげだと思うけれど、御者さんが次に乗る馬車を教えてくれた。出発は夜らしい。その前に何か食べるものを買うか。まあ、またあのパンがいいんだろうけど。
なんとかまたパンと水を手に入れる。そして馬車に乗り込むと、出発。これは国境までつながっているらしい。助かる。
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