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第5話 氷獄の一雫

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「はぁぁぁぁぁっっっっ!!」

 イリヤが魔法陣を構築しているその間にも、少女はドラゴンに対して猛攻を繰り返す。

 その刃は鱗を穿つには至らず、だがその燃え上がるような気勢をドラゴンは無視できない。あるいは、一瞬でも油断すれば己の鱗を貫かれるという確信を抱いているのかもしれなかった。

 一分一秒が数十倍にも引き伸ばされたと錯覚するほどに、少女とドラゴンが激しいぶつかり合いを繰り広げる。ドラゴンの爪が掠め、牙が紙一重まで迫りながらも少女は揺るがずに攻め手を止めない。イリヤの言った時間を稼ぐために、持ちうる体力も精神も余さずこの三分間で絞り尽くす気でいた。

 ──少女にとってもこれは博打であった。

 彼女は理解していた。己の剣ではやはりドラゴンを討ち取るには至らない。よほど油断したところ渾身の一撃に見舞ったところでようやく仕留めることができるかもしれないというほどだ。そしてドラゴンがその隙を己に晒さないことも重々承知していた。

 結局はそれでジリ貧になり、体力が限界を迎えたのが先ほどの状況だ。

 どう足掻いたところで、自分一人ではこの場を生き残ることはできない。

 ゆえに、あの正体不明の少年が出した提案に賭けるしか無かった。

 初対面の人間に命を預けるような真似、普段の自分であればしないだろう。それこそ藁にも縋る思いというやつだ。この絶望的な状況を脱することができるのならば、悪魔に魂を売っても良いとさえ考えた。

(これで駄目でしたって言われたら化けて出てやる!)

 心の内で未来への恨み言を吐き出しつつ、少女は高らかに跳躍すると渾身の力でドラゴンの頭蓋を叩き割るような大上段を振り下ろした。

 ──ゴギンッ!!

 生物を穿ったとは到底思えないような鈍い音。岩石をも粉砕するほどの衝撃でありながらも、残念ながらドラゴンの頭を割るには至らなかった。

 それどころか、横面に剣を叩きつけた時とは違い、ドラゴンは剣を頭部に受けながらも踏みとどまったのだ。動きこそ早くはあったが、直線的な動きであり大ぶりの一撃。無防備にうけていれば脳を揺らされていただろうが、身構えていれば耐えられると踏んでいたのか。

 首に力を入れると、ドラゴンが頭部に受けた大剣ごと少女の体を弾き飛ばす。無防備に空中へ投げ出された少女へ、ドラゴンが体を横に回転させる。僅かの時間差で勢いのついた尻尾の薙ぎ払いが襲い掛かる。

「くっ──ぁぁぁあああああああっっっっ!」

 寸前に剣を盾替わりに構えるのが精一杯。尻尾の薙ぎ払いをまともに受けた少女の体は、弾かれた玉のように吹き飛ばされる。勢いそのままに地面に叩きつけられると幾度もバウンドしながら転がっていき、やがて止まった。

「あ……ぎぃ……あがぁ……」

 体がバラバラになるほどの衝撃を身に受けながらも、意識も剣を手放さなかったのは流石であろう。

 しかし、それが限界であった。

 たったの一撃。しかしそれは、十メートルを超える巨体が振るう一撃。ペースを配分を完全に放棄した全力の攻めで体力が擦り減っていた状態で、いまの一発だ。剣を構えて立ち上がるのが精一杯といったところ。

 それを理解したのか、ドラゴンはゆっくりと少女に近づくと、口の中には燃え盛る炎を蓄え始めていた。とどめを刺す気なのだろう。

 もはやドラゴンに向けて剣を振るう力も残されていない。少女は絶望感と悔しさを抱きながら歯を噛み締めた

「…………ここまでなの?」
「ああ、ここまでじゃ」

 諦めの言葉はしかし、それとは真逆の色を含んだ声が後を継いだ。

 少女はハッとなり後ろを向けば、そこには少年の姿があった。奇しくも彼のそばに吹き飛ばされていたようだ。

「今でちょうど三分。お陰さんで、十分すぎるくらいに準備ができた。感謝する」

 色濃い絶望を浮かべていた少女に、少年は不敵な笑みを向けた。彼の足元を見れば、不思議な模様が浮かび上がっている。彼女には理解できなかったが、それでも途轍もない『力』が宿っていることだけは肌で感じ取ることができた。

「──っ、まずい! 逃げて!」

 そこで少女は思い出す。慌てて振り向けば、今まさにドラゴンが灼熱の吐息を吐き出す瞬間であった。

 身構える余裕も目を瞑る猶予もなく、少女は己の身体が地獄の炎に焼き尽くされる未来を想像したが。

「言うたじゃろうて。ここまでじゃと」

 ドラゴンの口から炎が噴き出すのと、少女の眼前に半透明の壁が生じるのは同時であった。
 

  
 さすがはドラゴンの代名詞とも呼べる灼熱の吐息。その温度は岩をもドロドロに溶かすほどの超高温。人の身でまともに喰らえば一瞬で塵も残さず蒸発しているであろう。

 だがそれでも、絶対零度を宿した氷結の壁を溶かすには至らなかった。

「流石に絶対零度はがすぎるか。三分かけてもここまでとは、やっはり本調子には程遠いいのぅ。良くて二割ってところか」

 完成した魔法の出来具合に不満を抱くイリヤ。癖で髭を撫でようとするが、手に触れるのは産毛が僅かに茂るツルツルの顎だった。

「とはいえ、よくぞ耐えてくれた」
「これって……あなたが?」
「他に誰がやるというのじゃ」

 まるで現実離れした光景を目の当たりにしたように、少女は目の前に生じた氷の壁とイリヤの顔を交互にみやる。直前まで死を確信していた者というのはこんなものなのだろう。

 己の必殺が防がれ、ドラゴンが目を見開く。再び口の中に紅蓮を灯すと、先ほどよりも強烈な勢いで豪炎が放たれる。だが、イリヤが生み出した氷の壁は揺るぎなく僅かほどに溶ける気配も無かった。

「無駄じゃよ。その程度の炎であれば、丸一日掛けたところで小揺るぎもせん。今の儂じゃぁそれだけの時間、維持し続けるのは無理じゃがな」

 全盛期であれば余裕だったかの、と内心にボヤく。

 イリヤの言葉は理解できずとも、侮られているのは分かったのか。ドラゴンは怒りの咆哮を轟かせる。空気を震わせる怒声に、少女の肩がびくりと震えた。

 今度は地響きをあげ床を砕くほどの勢いでドラゴンが突進を仕掛ける。灼熱の吐息が通用せぬなら、その巨体を持って押し潰そうというのだろう。

「残念ながら、こいつでシメじゃ」

 氷の壁を崩したイリヤが手を前に突き出せば、向けた先は他ならぬこちらに迫るドラゴン。

 放たれたのは小さな氷の礫。

 それは少女の脇を抜けると、ドラゴンの胸に当たって儚く弾ける。

氷獄の一雫ニブルス・ワン。ちと名前に負けとるがな」

 次の瞬間、ドラゴンを中心に巨大な氷山が出現した。

 超低温の冷気が吹き荒れ、小規模な吹雪のような風が舞い散る。

 凍つく氷山の内側に閉じ込められたドラゴンはピクリとも動かない。一瞬にして超低温に晒されたことで心臓の鼓動すら凍りつき絶命したのだ。

「嘘……でしょ……こんなの……ありえない」

 少女は現実逃避をするようにボヤく。目の前に巨大な氷山が生じたことも、あれほどに苦戦した暴虐が一瞬にして葬られたことも何もかも。視界に映るその全てがまるで受け入れられない。これが悪夢と言われてもすんなり納得できてしまうだろう。

「へっくしょん!」

 背後に響くくしゃみで、少女は我に帰った。

 見れば、肩を抱いて身震いする少年の姿があった。あれだけに壮大な力を感じさせていた魔法陣はもはや影も形もない。

「うぅぅぅ……、下が裸なの忘れとった。これを選んだのは明らかに失敗じゃな……へっくしょん!!」

 鼻水を垂らしてガタガタと震えるその姿は、この非現実を生み出したとは到底思えないただの少年であった。
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