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サヨナラの終わり その26
しおりを挟む僕が京都に住むようになってから、優里は仕事休みにたまに日帰りで来た。
多忙と身体の疲れなどで、僕のほうから岐阜に出向けなかったからだ。
週末と日曜日は岡田の事務所に顔を出すことが多かったが、優里の都合に合わせて土日のいずれかのバイトを休んで京都でデートをした。
限られたふたりの時間を僕たちはいつも鴨川沿いを歩き、そして河原町三条あたりのホテルで気持ちを確かめ合った。
京都駅で優里を見送るときは毎回切ない気持ちになったが、優里は満足そうな表情だった。
一方、江美の家には岡田の事務所に顔を出した日曜日の夜などに立ち寄って、そのまま翌日は大学へ通った。
そんな生活が六月七月と続いた。
相変わらず日々の忙しさに理由付けをして、優里と江美とのことに結論を出せずにいた。
八月四日までニューパラダイスのバイトをこなして、たった一日だけ休んだあと島根県松江市の水郷祭に来ていた。
ここで三日ほどバイをしたあとは松山だ。
岡田も来ていたし、山本も例のカンさんや石やんたちも熊本や下関のバイを終えてから合流していた。
僕の担当は相変わらず「たこ焼き」だった。
これはいわゆる粉物なので、キチンとした衛生管理と集中力と手際良さが必要で、他のテキ屋衆はあまりやりたがらなかった。
彼らは昔からある綿菓子やお面、焼とうもろこしや天津甘栗など、比較的楽なものをバイしたがった。
「アンちゃんはもう慣れたもんやな。大学なんか辞めてテキ屋を本職にどうや」
石やんが宿で若い衆と将棋を指しながら言った。
将棋ひとつでも彼らは金を賭けていた。
「テキ屋の仕事は、僕好きですよ。たまに信じられないくらい売れるでしょう。そのときは快感です。雨が降ったら商売になりませんしね、テキ屋こそ本当の水商売ですよ」
「ホンマにその通りやなあ。ワシらこそ水商売や。エエこと言うわアンちゃんは」
石やんは妙に感心していた。
われわれは明朝から準備をして二日間のバイを行う。
その後は一日だけ休んで去年と同様に松山行きとなる。
山本はいつも静かに部屋の隅で酒を飲んでいた。
この日も移動の疲れで少しだけ畳の上に横になったあと、仲居に酒を運ばせて夕食前から塩辛を肴にして飲みはじめていた。
僕はフランス語の本を読んでいた。でもこういう仕事の合間に教本をめくっても頭に入るはずはなかった。
「小野寺君よ、ちょっとこっちへ来んかね」
山本は卓袱台にあった湯のみ茶碗に酒を注ぎながら言った。
僕はテキストを閉じて彼のもとへ座布団を移した。
「その塩辛、旨そうですね?」
「そうやな、辛さと甘みがちょうど良い具合で絶品や。ここの宍道湖周辺や鳥取の境港からは質の良い新鮮な魚介類が水揚げされるんや。美味しいぞ。どや、ちょっとつまんでみんか。酒、この新しいコップでいこか、ほら」
山本はもう一つの湯飲み茶碗に注いだ酒を僕に勧めた。
「前からお訊きしようと思っていたのですけど、山本さんはおいくつなのですか?」
僕は塩辛を少し口に入れ、それから酒を半分くらい一気に飲んでから訊いた。
「ワシか、ワシに興味あるんか、それで君からはいくつに見える?」
「そうですね。遠慮なく言わせてもらうと、五十歳を少し過ぎたあたりですか?」
僕は正直に言った。
白髪混じりの頭髪はフサフサしていたが、顔のシワとシミからどう見ても四十代に見えないし、かといって六十歳前まではいかないと思ったからだ。
「戦争経験者なんや、ワシはな。それで大体分かるやろ」
大東亜戦争は昭和二十年八月に終戦となった。
その戦争に徴兵されたということは、五十過ぎで当たっているのではないかと僕は思った。
「まあ、どうでもいいが、小野寺君が訊くから答えるが、今年五十六歳になったわけや。歳よりちょっと若く言うてもろうて嬉しいわい。さあ、もっと酒飲んだらんかい」
山本は僕のコップに酒を注いだ。僕は最近日本酒の美味しさが少し分かりはじめていた。
「小野寺君よ、アンタはレイテ島って知っとるか?」
「いえ、知りません」
「そうやろうなあ、若い人が知らんのは仕方がないが、酷いところでな。ワシは徴兵されてから最初は満州へ行ったんや。満州は知っとるかな?」
「知ってます。楽園といわれて多くの日本人が移民したところですね」
「ま、そんなところやが、満州のことはまあええわ。それでな、満州で騎兵隊に所属したんやが、ちょっと体を壊して野戦病院に入ったんや。ところが身体が一向に良うならんからな、それでいったん国に帰って大阪の療養所に移ったんや」
「はい」
「そこの環境がよかったのか、二、三ヶ月で治りよってな。そしたら戦況が緊迫しているときでな、次に南方送りよ」
「南方・・・ですか?」
僕は大東亜戦争のことは父親から話しを聞いたことがあるが、あまり多くを語りたがらなかったので詳しくは知らない。
高校の日本史では、世界で唯一核爆弾を投下された終戦前後の時期に、あまり多くの時間を割り当てていないことに疑問を持ったこともあった。
「レイテ島は悲惨でな」
山本は湯飲みの酒を飲み干し、一升瓶を右手で持ってなみなみと注ぎながら言った。
「レイテ島では食糧や武器などの物資を積んだ輸送船がことごとく途中で米軍にやられてしもうて、一切届かんかったんや。そらもう酷かった。酷いとか悲惨とかいう言葉以上の表現があるかな、小野寺君よ」
「もっと悲惨な言葉ですか?そうですね・・・地獄とか、修羅場とか、ですかね」
「そうやな、地獄や。ホンマに生き地獄やったわ。ほとんどの兵隊が死んでしもうてな、生きて帰ったのはほんのわずかや。
兵隊の死体の上をヨロヨロ歩いて逃げたんや。弾に当たって死ぬのは仕方がないが、皆が餓死なんやで、小野寺君よ・・・」
山本は少し言葉を詰まらせた。
そして湧き出てきた悲しみを消すかのように湯飲みの酒をまた一杯飲み干した。
山本の年齢を訊いたことをきっかけに、古井戸の底に沈んでいた苦い沈殿物を僕が何十年ぶりかに救い上げてしまったような気がした。
「でも、山本さんは帰還されたのですよね。すごい精神力ということでしょうか」
僕は言葉を探したが、適切なものが思いつかず「精神力」と言った。
「いやいや、そんなもの何も関係ないわ。精神力もクソもあるかいな。運としか言いようがないわな。人間は極限になったら草でも虫でも、それにな、いざとなったら人肉でも食いよるんや」
山本はそこまで話すと、「もうエエわ、小野寺君。歳を訊かれたのに変な話をしてしもうて悪かったな。ま、アンタはしっかり勉強せなアカンで」と言って黙り込んでしまった。
僕は座布団を戻して散歩に出た。
山本がレイテ島から生還後、なぜテキ屋になったのか、なぜ小指が欠落したのかなど、僕は彼のその後の人生をもっと知りたいと思った。
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