電車の男 同棲編

月世

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Ⅱ.加賀編

お祝いの夜

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「乾杯!」
 倉知の父の号令で、グラスを触れ合わせる。全員が集まった場に参加するのは久しぶりだ。相変わらず倉知家は、温かい幸福感に包まれている。
 テーブルに並べきれないほどの豪華な料理と、家族全員の笑顔。こうやって祝って貰える倉知は幸せ者だと思う。
「七世もいよいよ大学生かー」
 倉知の父が感慨深げにビールに口をつけた。
「一番下の子が大学生だもんな。親も老けるはずだよ」
「それ、私のこと?」
 料理を取り分けていた倉知の母が、悲しそうな顔で言った。
「違う、俺! 俺だよ、俺! お母さんは若いし可愛いよ!」
「……えへっ」
 嬉しそうに肩をすくめる母は、他人の俺から見ても若いし可愛い、と思う。
「ちょっと、加賀さん来てるのにイチャつかないでよ、気持ち悪い!」
 五月がビールの泡をつけたままの唇を尖らせて抗議する。
「本当に仲良しですよね。見習いたいです」
 俺の科白に、倉知が口の中のサラダを急いで飲み込んでから言った。
「俺と加賀さんのほうが仲良しですよ」
「お、おう、そうかな?」
 両親と張り合ってどうする。
「私とお父さんのほうが仲良しだもん」
 倉知の母が鼻息を荒くして応戦する。似たもの親子だ。
「外野から見たらどっちも同じくらい仲良しだよ」
 六花がニヤニヤしながら言った。
「五月と六花も四月から社会人だし、もう俺の役目も終わったかな」
 倉知の父があっという間にビールを飲み干して、手酌で注ぎ足した。
 五月は電機メーカーのエンジニアに、六花はデザイン会社のグラフィックデザイナーになる。五月が理系で工学部に所属していた、というのも意外だったが、遊んでいるように見えてちゃんとしていたのにもさらに驚いた。
 三人とも、優秀なのだと思う。
「よし、隠居すっかな」
「駄目だよ、ローンが残ってるよ。それに七世の授業料はどうするの」
 真剣な顔で母が言い、父が「ロマンがない」とうなだれた。
「あ、ねえ、加賀さん。今じゃなくてもいいんだけど、今後のお金のことも決めておかないとね」
 倉知の父が俺を見て言った。
「生活費ですか」
「本当はもっと早く決めなきゃいけなかったんだろうけど。なんか実感沸かなくて」
 息子が男と一緒に暮らす、と言い出したら、混乱するのが普通だ。
「お父さん、俺バイトするよ」
 倉知の一言に、父と六花が同時に「駄目」と言った。
「お前は勉強に集中しなさい」
「私も働くんだし、あんたがバイトする必要なんて一切ないから」
 頼もしい姉だ、と感心していると、もう一人の姉が「あたしの働いた分は、全部あたしのものだから」と何故か胸を張る。
「でもなんか、養って貰ってるのが心苦しいっていうか」
 学生のくせに変なところを遠慮する奴だ。
「家を出るんだから、自分のことは自分でしたい」
「七世」
 倉知の父が、グラスをテーブルに置いた。
「家を出てもお前はまだ未成年で、大学生だ。頼むから、大学卒業するまでは養わせてくれ」
 親の本音を聞いた気がした。父親にとって、立派に育った息子でも、まだまだ背伸びをしたいだけの子どもに見えるのだろう。そうあって欲しい、と切実な響きがあった。
 正直、金のことは心配していない。むしろいらないくらいだ。
 父が購入したマンションだから家賃はかからないし、車を買ったとはいえ、アパートにいた頃よりは支出は抑えられている。光熱費と食費くらい、倉知一人が増えたからと言って首が絞まるほどでもない。
 でもそれを言って断るのも、違うと感じた。特に倉知の両親は、親としての義務を大事に考えている。生活費を断るのは、彼らを否定することに繋がる。だから、黙っていた。
「わかった」
 倉知が素直にうなずいた。そして、父と母に向かって順番に頭を下げた。
「あと四年間、よろしくお願いします」
 本当に、こいつはすごい奴だな、と思った。なかなか親に、こういうことはできない。扶養されるのが当然で金を出して貰うことになんのためらいもない若者のほうが圧倒的に多いと思う。
 俺も学生時代はそっち側の考えだった。感謝はしていたが、倉知のように親の存在を心からありがたがっていたかと言えば、自信はない。
「なんかうちが貧乏で、生活に困ってるみたいで恥ずかしいんだけど」
 そんなふうには思わなかったが、五月が俺を気にしながらピザを丸めて口に放り込んだ。
「そうだよ。お金の話はあとにして、食べよう、食べよう!」
 倉知の母が手を叩いて、取り分けた料理を俺の前に置いた。
 それから談笑しながら食事を続けていたが、途中で俺の携帯に着信があった。隣の倉知が振動音に気づく。
「電話ですか?」
「そうみたい」
 仕事かと思ったが、画面を見ると、予想外の人物からの着信だった。なんでこのタイミングでかかってくるのか。
「すいません、ちょっと出てもいいですか?」
 どうぞどうぞ、と全員が快諾する。席を立って、リビング出ると、通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
『まだ会社か?』
 父が言った。
「いや、倉知君とこ。大学の合格祝いでお呼ばれしてる」
『そうか。七世君に渡したいものがあったんだが』
「え、何?」
『合格祝いだ』
 合否を父に知らせてはいないが、端から落ちると思っていなかったらしい。
『まだ八時前だな』
「うん、え? ちょっと待って、来るつもり?」
『明日から東京だ。しばらく時間が取れそうにないから、渡してしまいたい』
「いやいや、いきなり来たらおうちの人も困るから」
『大丈夫、玄関口ですぐに失礼する』
 父と倉知家の面々が顔を合わせたことはまだ一度もない。結婚するわけでもないし、かしこまって両家の挨拶を交わす、というのもおかしな感じがしたから、一回は会っておきたい、とお互いに言いながら、先延ばしになっていた。
『渡したいんだ。今すぐ』
「なんだよ、時計?」
 父は時計のことになると感覚がおかしくなる。電話の向こうから、ふふふ、と不気味な笑い声が聞こえた。
「もうわかった。好きにして。住所言おうか?」
 訊くと、父が「必要ない」と言って電話を切った。自由な人だ。
 ため息をついてから、リビングに戻る。
「おかえりなさい。大丈夫でした?」
 倉知が俺を振り返る。
「うん、大丈夫……じゃないかも」
「え?」
 席につく前に「本当に申し訳ありません」と深刻な声で謝って、頭を下げた。
「え、何? やだ、加賀さん帰っちゃうの? やだやだ!」
「もしかして仕事の呼び出しですか?」
 五月と六花がそれぞれ悲しそうに眉を下げた。
「じゃなくて、あの、実は、父が今からお邪魔したいって」
「えっ」
 倉知が素っ頓狂な声を上げた。五月と六花は目を輝かせ、笑顔全開の歓迎ムードだが、倉知の父は、ゲホゲホとむせている。
「お、お父さんがいらっしゃるの?」
 ハッとなって自分の格好を見下ろして、おもむろに立ち上がった。
「スーツ着てくる」
「わわ私も、礼服、着てくる」
 倉知の母が夫に続く。慌てて二人を止めた。
「いえ、そのままでいてください。ほんとすいません、急な話で」
「やったー、どんな人だろ、楽しみ!」
「加賀さんのお父さんだもんね。きっと、すごいイケメンだよ。うわー、描かせてくれないかな」
 盛り上がる五月と六花。倉知は落ち着かない様子でウーロン茶を飲んでいる。何回会っても慣れないのはわかる。あの人と馴れ合える他人は少ない。
「ああっ、どうしよう! 料理がもうない!」
 倉知の母がテーブルの上の、食べ尽くされた残骸を見て頭を抱える。
「すぐ帰るそうなので、気にしないで」
「あっ、デザートにアップルパイ作ったんだった! 甘い物はお好きかな?」
 宥めようとする俺を遮って、倉知の母が叫ぶ。父はその手の物は好んでは食べないが、振る舞われれば話は別だ。
「どうかな、あの、玄関口で帰るって言ってたんでお気遣いなく」
「私の手作りアップルパイ、食べて貰いたい!」
 完全に色めき立っている。倉知の父はビールをあおって空にして、グラスに溢れるほど注ぎ、すぐに流し込むように飲み干した。
「駄目だ、酔えない……」
「ほんと、なんかすいません」
「いや、いいんだ。いつかは会うんだから。うわあ、俺、殴られる? 半殺し?」
「え、なんでですか」
「だってうちの息子がたぶらかしたんだもん」
 それは違うと思う。倉知のほうが先に俺に惚れたのかもしれないが、たぶらかした、というか、何も知らない純朴な少年に手を出したのは、大人の俺のほうだ。
「父は七世君のこと、気に入ってますよ」
「えっ、そうなの?」
 倉知は親に俺の父と会ったことを話していないのかもしれない。横目で見ると、難しい顔で天井を見上げていた。
「殴られなきゃいけないのは俺のほうです。お父さんからも、父からも」
 倉知の父が不思議そうに俺を見る。
「たぶらかしたのは俺のほうだし。なあ?」
 倉知に同意を求めた。何か別のことを考えていたらしい倉知が「ふえっ?」と妙な声を上げた。
「その辺の話、詳しくお聞かせください」
 六花が割り込んで、身を乗り出してくる。
「馬鹿、りっちゃん、あたしは聞きたくないんだから!」
 ガチャガチャと騒ぎ出す二人の娘を、父はぼんやりと眺め、母はニコニコと微笑んで見守っていた。
 期待と緊張と不安が入り交じった空気の中で、チャイムが鳴ったとき、真っ先に立ち上がったのは倉知だった。リビングを出て玄関に向かう倉知を、緊張した表情の父と、ワクワクした様子の母、はしゃぐ二人の姉が続く。
 それを見送って、席を立ち、ネクタイを締め直して、あとを追った。
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