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※この話はパラレル設定です。二十七歳の二人が出会ったら、というもしものお話です。
〈倉知編〉
終電の車内は空いていた。朝の通勤ラッシュとは真逆の光景だ。
間隔を開けて座っている乗客の中で、立っているのは俺一人。
今日は金曜日で、職場の飲み会だった。ほどほどにしたつもりだったが、時間が時間だ。酔いが回っているのも相まって、眠い。
座ったら寝てしまいそうだったから、立っている。
あくびが出た。目の端に滲む涙を指で拭う。電車がスピードを緩め、停車した。駅だ。あと一駅で、自宅だ。
ドアが開き、腕を組んだ二人の女性が千鳥足で乗り込んできた。終電セーフ、イエーイ、とやけにハイテンションだ。
「見て見て、イケメン寝てる」
「ほんとだ、ヤバイ」
椅子の一番端で、鞄を抱きしめて眠っているスーツの男がいた。彼女たちは彼の顔を覗き込んで「ヤバイ」「イケメン」と繰り返している。
「写真撮らない?」
「撮る撮る、撮ろー」
えっ、と声が出た。一人が彼の隣に腰を下ろし、もう一人がスマホを向けて、「もうちょっと寄って!」と指示を出している。彼女たちの奇行に気づいている人はいるが、関わりたくないようだ。不快そうな目で見ながら、誰も何も言わない。
「肩に頭のっける感じで」
「彼氏が隣で爆睡中、みたいな?」
キャー、と盛り上がっている。見るに耐えない。手すりから手を離し、揺れる電車で一歩踏み出した。
「あの」
声をかけた。二人が動きを止めて俺を見る。メイクをしっかりと施した、大人の女性たちだ。こんな子どもじみた真似をする年齢には見えない。
「でかい!」
「巨人!」
俺を見上げてなぜか彼女たちが爆笑する。この人たちは酔っ払いだ。だからこんなことができるのだ。
「駄目ですよ、勝手に撮ったら」
「あっ、警察?」
「え? いえ、違いますけど、勝手に写真撮るのは駄目ですよ」
「なんで?」
「なんでって……、モラルに反するし、それに肖像権侵害なんじゃないでしょうか」
二人が顔を見合わせ、「こわっ」と息ぴったりに声を上げた。
「しょーぞーけんって何? しょーりゅーけんみたいなやつ?」
「なんか聞いたことある。この人弁護士なんじゃない?」
「弁護士ではないですけど」
「じゃあ勝手に撮るのが駄目なら、起こして許可貰おうよ」
「あっ、それいい、それいい」
起きてー、と揺さぶりだした。すごい。この幼さというか無邪気さはまるで小学生だ。
揺さぶられて目を覚ましたスーツの男性が、サラサラで艶やかな前髪の隙間から、俺たちを見た。うつろなまなざしのまま、女性二人と俺を順番に見て、「ん?」と首を傾げる。それから髪を掻き上げて、一度咳払いをし、困った顔で笑った。
「えっと、どちら様?」
息が止まる。心臓が、ドドドド、と怒涛の勢いで音を鳴らし、目がくらみ、足元が揺れた。
突然の体調不良に戸惑いつつ、胸を抑えて必死で息をする。
「あのぉ、一緒に写真撮りませんか?」
ありえないほどに密着して女性が言った。
「え? なんで?」
「この大きい人が、勝手に撮ったらなんとかけん? の侵害? だから? 起こしてから撮れって」
もう一人の女性が、スマホを片手に俺を指さして意味のわからないことを言った。起こしてから撮れだなんて、一言も言ってない。弁解しようと口を開きかけたとき、彼がハッと顔色を変えた。
「ちょっと待って、ここどこ?」
電車が減速を始め、タイミングよく駅名を告げる。
「うわ、やべえ、寝過ごした」
素早く腰を上げ、早足でドアに向かうと、キャアキャア騒ぐ女性たちを振り返り、軽く頭を下げた。
「起こしてくれてありがとう。じゃあね、おやすみ」
一呼吸置いたあとで、キャー! と悲鳴が上がる。開いたドアからホームに降り立つ彼の後姿を見送ってから、我に返る。俺も降りなければ。
後を追う形で電車を降ると、彼がため息をついて腕時計に目をやった。
「タクシー拾うか」
つぶやいてから、俺に気づいて目を上げた。
「あ、さっきの」
まずい、ストーカーだと思われる。違うんです、ここが元々俺の降りる駅で、と脳内で言い訳していると、にこ、と天使のような微笑みを浮かべた。
「もしかして、盗撮止めてくれた?」
「あ……、は、はい、そうです」
「やっぱり? めっちゃ助かった。ありがとう」
天使のような、じゃない。この人は天使だ。
夜なのに、眩しい。
目を細めてぼんやりしていると、彼は「じゃあね」と手を振って歩き出した。靴音が、夜のホームに響く。
焦りが生じた。その音が、カウントダウンのように聞こえた。
今、ここで別れたら、もう二度とこの人には会えない。
いいのか?
靴音が遠ざかる。選択を、迫られている。
俺は駆けだして、呼び止めていた。
「あの」
改札を出た彼が、振り返った。
「俺のアパート、すぐそこで」
言葉を選びながら、「えっと」と言葉を繋ぐ。
「この辺、タクシー拾うの大変だし、よかったら」
うちに来ませんか。最後の一言が言えずに口を閉ざす。後悔した。完全に不審者だ。我ながら不気味だ。出会ったばかりの見知らぬ男の家に、誰が来る?
「泊めてくれるの?」
彼が顔を輝かせて訊いた。
「はい、……え?」
「ほんとにいいの?」
「いいです。けど、俺、怪しくないですか? 初対面なのにこんなこといきなり、変ですよね?」
「はは、自分で言う?」
楽しそうに笑った彼は、優しい表情ではっきりと言った。
「怪しくないよ」
一緒に駅を出て、アパートに着いて、それから。
いろいろあった。
朝、目が覚めると全裸で、ベッドにいた。隣には同じく一糸まとわぬ生まれたままの彼が。
本当に、いろいろあったのだ。
〈加賀編〉
まるで来客があることを見越していたかのようだ。掃除の行き届いた、清潔な部屋だった。
テレビとデスクとベッドが置かれた無駄のない生活スペースだ。おそらく、この男の几帳面さがそのままこの部屋に反映されている。
彼は俺をクッションに座らせると、「寝ますか? お風呂にしますか? ビール飲みますか? あ、何か食べますか?」と質問を重ねた。
「奥さんみたい」
おかしくて笑うと、キョトンとしてからやおら赤面した。なるほど、この男はものすごく純粋で繊細な性格の持ち主らしい。
「明日休みだし、飲むか」
ここ最近仕事が忙しく、帰宅すると日付が変わっていることが多い。電車で居眠りして寝過ごすなんて失態は初めてだったが、不可抗力だ。本当はすぐにでも眠ってしまいたい。でも単純に、眠るのはもったいないと思ったのだ。
興味がある。この男に。
こんなにも他人に親切な人間に、出会ったことがない。
終電で乗り過ごした見知らぬ男を、自宅に招き入れ、泊まらせるなんて。はっきり言って危機感がなさすぎる。危ない奴なんてその辺にゴロゴロしている。朝起きたら金目のものを根こそぎ奪われていることだってありうるのだ。
と、ネクタイを緩めながら、ビールを片手に説教をすると、神妙な顔つきで聞いていた彼が「でも」と口を挟んだ。
「危機感がないのはあなたもですよ」
「えー、そう?」
「普通、知らない人の家に泊まろうなんて思いませんよ。それに、電車の中で寝るのは危険です。無防備すぎます。財布盗られたり、襲われたり」
「え、襲われる?」
笑いながら訊き返すと、男は真剣な顔でうなずいた。
「ほら、現に写真撮られそうになったじゃないですか。あなたみたいな人は、気をつけないと」
「俺みたいな?」
ビールの缶を傾けて訊くと、はたと動きを止めて、俺から目を逸らし、間を置いてから口を開いた。
「綺麗、だと思いました」
「綺麗」
反復すると、彼は缶ビールを一気にあおり、飲み干した。床の上に缶を勢いよく置くと、体を左右に揺らして、焦点の定まらない目で俺を見た。
「綺麗です」
「酔ってる? ビール一本だけど」
笑いを堪えて顔を覗き込むと、彼はぼんやりとして「違います」と否定した。
「さっきまで、飲み会で、だからビール一本で酔っ払ったわけじゃないです」
「お、おう。そうか」
「俺、二十七歳なんですけど」
唐突だな、と思ったが、同い年だということが判明して一気に親近感が湧いた。
「今まで誰とも付き合ったことがありません」
「え」
「さっきも上司が、女の人紹介してやるとか、お見合いしろとか言うんですけど、抵抗があって」
うつむいて、ぶつぶつと独白を始めた。
「誰でもいいからとりあえず付き合えばって、周りは軽く言うんですけど、そういうのじゃなくて、もっとこう、俺は、好きになった人と付き合いたくて……、恋愛がしたくないわけじゃないんです。好きな人ができたらそのときは」
言葉を切って、俺を見た。
「好きです」
「……はい?」
部屋の中がしん、と静まり返る。何も言えないでいると、彼がカエルのおもちゃのように床にへばりつき、頭を下げた。
「すいません、ごめんなさい、忘れてください、お願いします」
「いやいやいや、ちょっと待って」
「大変だ」
彼が突然ガバッと顔を上げて、驚愕の表情で俺を見る。そして、震える声で言った。
「俺、変態だ」
ブッと吹き出してしまった。
「ああーっ、なんで好きだなんて言っちゃったんだろう」
「ん? 何、冗談?」
「いえ、本気です」
キリッとした顔で断言されて、声を上げて笑う。
面白い。表情をコロコロ変えて、赤くなったり青くなったりする男が、段々と可愛く思えてきた。
「なあ、今まで誰とも付き合ったことないって、じゃあキスもしたことないの?」
「ないですよ、当たり前じゃないですか」
胸を張って清らか宣言をすると、頭を掻いて、照れくさそうに言った。
「キスってどんなのかな、ファーストキスはレモン味とかイチゴ味とか、本当なのかな」
こんなに可愛いことを言う二十七歳の男が存在するのか。ムラ、といたずら心が芽生えてしまった。
夢見る表情で虚空を眺める男に、にじり寄る。距離を詰め、顔を近づける。目が合った。唇が合わさり、その目が大きく見開かれた。
「何味だった?」
「……ビール味」
「はは」
彼は酔っていたが、俺は酔っていなかった。だから、自分の行動がわからない。俺は男が好きなわけじゃない。普通に、恋愛対象は女だ。それなのに。
押し倒されるまま、されるがままに体を開いた。
二十七歳の童貞男に、処女を捧げてしまったのだ。
次の日の朝、彼の姿はなく、書き置きと鍵が置かれていた。
仕事に行ってきます。カギは郵便受けに入れてください。
本当に、申し訳ありませんでした。
短い文章の中に、後悔が滲んでいるような気がした。そうか、と悟った。
つまり、もう会わないということ。
考えないようにした。ふとした瞬間に、彼のことが頭をよぎったが、気のせいだと思い込んだ。
淡々と日々を過ごしていた。
そしてある日。
仕事で訪れた先で、彼に再会したのだ。
「高木印刷の加賀です。よろしくお願いいたします」
呆然と立ち尽くす彼に、名刺を差し出した。彼は操られるように、自分も名刺を差し出した。目を落とし、微笑んだ。名前も知らなかったのだと、このときやっと、気がついた。
「お世話になります、倉知先生」
もう一つ、気づいたことがある。
俺はこの人を、諦めたくない。
〈おわり〉
〈倉知編〉
終電の車内は空いていた。朝の通勤ラッシュとは真逆の光景だ。
間隔を開けて座っている乗客の中で、立っているのは俺一人。
今日は金曜日で、職場の飲み会だった。ほどほどにしたつもりだったが、時間が時間だ。酔いが回っているのも相まって、眠い。
座ったら寝てしまいそうだったから、立っている。
あくびが出た。目の端に滲む涙を指で拭う。電車がスピードを緩め、停車した。駅だ。あと一駅で、自宅だ。
ドアが開き、腕を組んだ二人の女性が千鳥足で乗り込んできた。終電セーフ、イエーイ、とやけにハイテンションだ。
「見て見て、イケメン寝てる」
「ほんとだ、ヤバイ」
椅子の一番端で、鞄を抱きしめて眠っているスーツの男がいた。彼女たちは彼の顔を覗き込んで「ヤバイ」「イケメン」と繰り返している。
「写真撮らない?」
「撮る撮る、撮ろー」
えっ、と声が出た。一人が彼の隣に腰を下ろし、もう一人がスマホを向けて、「もうちょっと寄って!」と指示を出している。彼女たちの奇行に気づいている人はいるが、関わりたくないようだ。不快そうな目で見ながら、誰も何も言わない。
「肩に頭のっける感じで」
「彼氏が隣で爆睡中、みたいな?」
キャー、と盛り上がっている。見るに耐えない。手すりから手を離し、揺れる電車で一歩踏み出した。
「あの」
声をかけた。二人が動きを止めて俺を見る。メイクをしっかりと施した、大人の女性たちだ。こんな子どもじみた真似をする年齢には見えない。
「でかい!」
「巨人!」
俺を見上げてなぜか彼女たちが爆笑する。この人たちは酔っ払いだ。だからこんなことができるのだ。
「駄目ですよ、勝手に撮ったら」
「あっ、警察?」
「え? いえ、違いますけど、勝手に写真撮るのは駄目ですよ」
「なんで?」
「なんでって……、モラルに反するし、それに肖像権侵害なんじゃないでしょうか」
二人が顔を見合わせ、「こわっ」と息ぴったりに声を上げた。
「しょーぞーけんって何? しょーりゅーけんみたいなやつ?」
「なんか聞いたことある。この人弁護士なんじゃない?」
「弁護士ではないですけど」
「じゃあ勝手に撮るのが駄目なら、起こして許可貰おうよ」
「あっ、それいい、それいい」
起きてー、と揺さぶりだした。すごい。この幼さというか無邪気さはまるで小学生だ。
揺さぶられて目を覚ましたスーツの男性が、サラサラで艶やかな前髪の隙間から、俺たちを見た。うつろなまなざしのまま、女性二人と俺を順番に見て、「ん?」と首を傾げる。それから髪を掻き上げて、一度咳払いをし、困った顔で笑った。
「えっと、どちら様?」
息が止まる。心臓が、ドドドド、と怒涛の勢いで音を鳴らし、目がくらみ、足元が揺れた。
突然の体調不良に戸惑いつつ、胸を抑えて必死で息をする。
「あのぉ、一緒に写真撮りませんか?」
ありえないほどに密着して女性が言った。
「え? なんで?」
「この大きい人が、勝手に撮ったらなんとかけん? の侵害? だから? 起こしてから撮れって」
もう一人の女性が、スマホを片手に俺を指さして意味のわからないことを言った。起こしてから撮れだなんて、一言も言ってない。弁解しようと口を開きかけたとき、彼がハッと顔色を変えた。
「ちょっと待って、ここどこ?」
電車が減速を始め、タイミングよく駅名を告げる。
「うわ、やべえ、寝過ごした」
素早く腰を上げ、早足でドアに向かうと、キャアキャア騒ぐ女性たちを振り返り、軽く頭を下げた。
「起こしてくれてありがとう。じゃあね、おやすみ」
一呼吸置いたあとで、キャー! と悲鳴が上がる。開いたドアからホームに降り立つ彼の後姿を見送ってから、我に返る。俺も降りなければ。
後を追う形で電車を降ると、彼がため息をついて腕時計に目をやった。
「タクシー拾うか」
つぶやいてから、俺に気づいて目を上げた。
「あ、さっきの」
まずい、ストーカーだと思われる。違うんです、ここが元々俺の降りる駅で、と脳内で言い訳していると、にこ、と天使のような微笑みを浮かべた。
「もしかして、盗撮止めてくれた?」
「あ……、は、はい、そうです」
「やっぱり? めっちゃ助かった。ありがとう」
天使のような、じゃない。この人は天使だ。
夜なのに、眩しい。
目を細めてぼんやりしていると、彼は「じゃあね」と手を振って歩き出した。靴音が、夜のホームに響く。
焦りが生じた。その音が、カウントダウンのように聞こえた。
今、ここで別れたら、もう二度とこの人には会えない。
いいのか?
靴音が遠ざかる。選択を、迫られている。
俺は駆けだして、呼び止めていた。
「あの」
改札を出た彼が、振り返った。
「俺のアパート、すぐそこで」
言葉を選びながら、「えっと」と言葉を繋ぐ。
「この辺、タクシー拾うの大変だし、よかったら」
うちに来ませんか。最後の一言が言えずに口を閉ざす。後悔した。完全に不審者だ。我ながら不気味だ。出会ったばかりの見知らぬ男の家に、誰が来る?
「泊めてくれるの?」
彼が顔を輝かせて訊いた。
「はい、……え?」
「ほんとにいいの?」
「いいです。けど、俺、怪しくないですか? 初対面なのにこんなこといきなり、変ですよね?」
「はは、自分で言う?」
楽しそうに笑った彼は、優しい表情ではっきりと言った。
「怪しくないよ」
一緒に駅を出て、アパートに着いて、それから。
いろいろあった。
朝、目が覚めると全裸で、ベッドにいた。隣には同じく一糸まとわぬ生まれたままの彼が。
本当に、いろいろあったのだ。
〈加賀編〉
まるで来客があることを見越していたかのようだ。掃除の行き届いた、清潔な部屋だった。
テレビとデスクとベッドが置かれた無駄のない生活スペースだ。おそらく、この男の几帳面さがそのままこの部屋に反映されている。
彼は俺をクッションに座らせると、「寝ますか? お風呂にしますか? ビール飲みますか? あ、何か食べますか?」と質問を重ねた。
「奥さんみたい」
おかしくて笑うと、キョトンとしてからやおら赤面した。なるほど、この男はものすごく純粋で繊細な性格の持ち主らしい。
「明日休みだし、飲むか」
ここ最近仕事が忙しく、帰宅すると日付が変わっていることが多い。電車で居眠りして寝過ごすなんて失態は初めてだったが、不可抗力だ。本当はすぐにでも眠ってしまいたい。でも単純に、眠るのはもったいないと思ったのだ。
興味がある。この男に。
こんなにも他人に親切な人間に、出会ったことがない。
終電で乗り過ごした見知らぬ男を、自宅に招き入れ、泊まらせるなんて。はっきり言って危機感がなさすぎる。危ない奴なんてその辺にゴロゴロしている。朝起きたら金目のものを根こそぎ奪われていることだってありうるのだ。
と、ネクタイを緩めながら、ビールを片手に説教をすると、神妙な顔つきで聞いていた彼が「でも」と口を挟んだ。
「危機感がないのはあなたもですよ」
「えー、そう?」
「普通、知らない人の家に泊まろうなんて思いませんよ。それに、電車の中で寝るのは危険です。無防備すぎます。財布盗られたり、襲われたり」
「え、襲われる?」
笑いながら訊き返すと、男は真剣な顔でうなずいた。
「ほら、現に写真撮られそうになったじゃないですか。あなたみたいな人は、気をつけないと」
「俺みたいな?」
ビールの缶を傾けて訊くと、はたと動きを止めて、俺から目を逸らし、間を置いてから口を開いた。
「綺麗、だと思いました」
「綺麗」
反復すると、彼は缶ビールを一気にあおり、飲み干した。床の上に缶を勢いよく置くと、体を左右に揺らして、焦点の定まらない目で俺を見た。
「綺麗です」
「酔ってる? ビール一本だけど」
笑いを堪えて顔を覗き込むと、彼はぼんやりとして「違います」と否定した。
「さっきまで、飲み会で、だからビール一本で酔っ払ったわけじゃないです」
「お、おう。そうか」
「俺、二十七歳なんですけど」
唐突だな、と思ったが、同い年だということが判明して一気に親近感が湧いた。
「今まで誰とも付き合ったことがありません」
「え」
「さっきも上司が、女の人紹介してやるとか、お見合いしろとか言うんですけど、抵抗があって」
うつむいて、ぶつぶつと独白を始めた。
「誰でもいいからとりあえず付き合えばって、周りは軽く言うんですけど、そういうのじゃなくて、もっとこう、俺は、好きになった人と付き合いたくて……、恋愛がしたくないわけじゃないんです。好きな人ができたらそのときは」
言葉を切って、俺を見た。
「好きです」
「……はい?」
部屋の中がしん、と静まり返る。何も言えないでいると、彼がカエルのおもちゃのように床にへばりつき、頭を下げた。
「すいません、ごめんなさい、忘れてください、お願いします」
「いやいやいや、ちょっと待って」
「大変だ」
彼が突然ガバッと顔を上げて、驚愕の表情で俺を見る。そして、震える声で言った。
「俺、変態だ」
ブッと吹き出してしまった。
「ああーっ、なんで好きだなんて言っちゃったんだろう」
「ん? 何、冗談?」
「いえ、本気です」
キリッとした顔で断言されて、声を上げて笑う。
面白い。表情をコロコロ変えて、赤くなったり青くなったりする男が、段々と可愛く思えてきた。
「なあ、今まで誰とも付き合ったことないって、じゃあキスもしたことないの?」
「ないですよ、当たり前じゃないですか」
胸を張って清らか宣言をすると、頭を掻いて、照れくさそうに言った。
「キスってどんなのかな、ファーストキスはレモン味とかイチゴ味とか、本当なのかな」
こんなに可愛いことを言う二十七歳の男が存在するのか。ムラ、といたずら心が芽生えてしまった。
夢見る表情で虚空を眺める男に、にじり寄る。距離を詰め、顔を近づける。目が合った。唇が合わさり、その目が大きく見開かれた。
「何味だった?」
「……ビール味」
「はは」
彼は酔っていたが、俺は酔っていなかった。だから、自分の行動がわからない。俺は男が好きなわけじゃない。普通に、恋愛対象は女だ。それなのに。
押し倒されるまま、されるがままに体を開いた。
二十七歳の童貞男に、処女を捧げてしまったのだ。
次の日の朝、彼の姿はなく、書き置きと鍵が置かれていた。
仕事に行ってきます。カギは郵便受けに入れてください。
本当に、申し訳ありませんでした。
短い文章の中に、後悔が滲んでいるような気がした。そうか、と悟った。
つまり、もう会わないということ。
考えないようにした。ふとした瞬間に、彼のことが頭をよぎったが、気のせいだと思い込んだ。
淡々と日々を過ごしていた。
そしてある日。
仕事で訪れた先で、彼に再会したのだ。
「高木印刷の加賀です。よろしくお願いいたします」
呆然と立ち尽くす彼に、名刺を差し出した。彼は操られるように、自分も名刺を差し出した。目を落とし、微笑んだ。名前も知らなかったのだと、このときやっと、気がついた。
「お世話になります、倉知先生」
もう一つ、気づいたことがある。
俺はこの人を、諦めたくない。
〈おわり〉
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