電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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青天の霹靂

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〈倉知編〉

 土曜の昼過ぎ。休日出勤の加賀さんから、LINEが届いた。
『ごめん、帰りちょい遅れる』
 午前中で帰ってくると言っていたのに、遅いなと心配していたところだった。
 お仕事頑張ってくださいと送信するのと同時に、「今日、会社の駐車場でBBQやってんだけど」と加賀さんの科白が現れた。だけど、のあとに何か続きそうだ。待っていると、「捕まっちゃった。飲まされたから電車で帰るわ」「仕事終わってんのに飲んでてごめん」「愛してる」と次々とメッセージが送られてくる。一つずつ丁寧に咀嚼したあとで、文字を打つ。
『BBQってなんだっけって考えてました。バーベキューですよね?』
 既読がついて、「(笑)」とすぐに返ってきた。合っていたのか間違っていたのか。それきりLINEが途絶えた。会社の人の手前、スマホを使いづらいのかもしれない。
 とりあえず大切なことだけ伝えなければ。
『俺も、愛してます』
 送信してから、しばらく画面を見ていたが、やはり既読はつかなかった。
 何か食べようと思った。かと言って、一人分の料理というのは張り合いがないし慣れないから作りづらい。こういうときは、普段食べないものを食べるチャンスだ。
 戸棚からいそいそと非常用のカップラーメンを取り出して、ケトルでお湯を沸かし、注いで待つ。タイマーをセットし、二分を過ぎた頃、スマホが鳴った。
 リビングのテーブルに飛んでいく。画面を見た。加賀さんだ。
『倉知君も肉食いに来ない?』
 出ると加賀さんが唐突に言った。
「え、でも」
『あ、昼なんか食った?』
「いえ、今からカップラーメンでも食べようかと」
 ピピピ、とタイミングよくタイマーが音を立てる。
『三分経ったな』
 聞こえたらしい加賀さんがおかしそうに言った。
『じゃあ切るわ』
「加賀さん、待って、迎えに行ってもいいですか? 肉が食べたいとかじゃなくて、あの、車、俺が運転します。そしたら月曜日電車通勤しなくても済むし」
 慌てて提案すると、加賀さんが「助かる」と優しい声で言った。
『急がなくていいよ。適当に飲んでるから』
 通話が終了すると、急がなくていいと言われたにも関わらず、超特急でカップラーメンを平らげ、財布をポケットに突っ込んでマンションを出た。
 加賀さんは、俺が会社に顔を出しても平気らしい。
 電車に揺られながら、考える。
 男同士で付き合っていて、それを知られたくない場合、普通はその存在自体を隠そうとするのではないだろうか。加賀さんにはそういうことが一切ない。運動会に参加させ、「同じマンションに住んでいる仲良しの大学生」と先手を打つことで、下世話な勘繰りを上手くシャットアウトしているのかもしれない。
 恋人と紹介されなくてもいい。隠そうとされるより、気持ちがいい。
 電車を降りて、高木印刷に向かった。次第によくない考えが、頭を巡る。
 会社の人に捕まって、飲まされたと言っていた。それが女の人だったら。女性に囲まれる図はあまり見たくない。見たくはないが、そうだとしたら一刻も早く救い出さねば。
 独占欲を爆発させた俺は、歩道を駆けた。全力で、ひた走る。
 あっという間に高木印刷の敷地に到着した。植え込みから覗くと、広い駐車場の一画にテントが張られ、折り畳みの長机や椅子が青空の下に並べられていた。大勢の人が見えた。風に乗って、肉の焼ける匂いと人の笑い声が運ばれてくる。
 加賀さんを見つけるのは簡単だった。俺は視力がいいが、それとは関係なく、加賀さんは発光しているから見つけやすい。
 私服の中年男性に囲まれている、ただ一人のスーツ姿を認めると、安堵の息を吐いた。
 息を整え、尻ポケットからスマホを出す。「着きました」と送信する。返事は早かった。
『どこ? おいでよ。テントんとこいるよ』
 ごくり、と唾を飲み込んだ。俺が出ていってもおかしいと思われないだろうかと、怖気づく。
 返事をためらっていると、「来ないと大声で叫ぶぞ。くーらちくーーん」と脅してきた。
 まずい。加賀さんならやりかねない。
 早足でテントに向かう。
 加賀さんは、缶ビールを傾けていた。缶から口を離すと、右手を唇に持っていき、何かを咥えた。ハッとした。加賀さんが、煙草を吸っている。
 驚きすぎて、頭と体が一瞬、フリーズする。棒立ちになる俺に気づき、加賀さんが煙草を咥えたまま手招いた。
「加賀さん、煙草」
 我に返って駆け寄った。
「えっ、煙草吸うんですか?」
 何か、とんでもなくショックだった。別に煙草を吸うことが悪、とかではない。長く一緒にいるくせに、そんなことも知らなかったのかという、自分自身への絶望。
「まさか。吸わないよ」
 煙を吐きながら加賀さんが笑って答えた。
「吸ってるじゃないですか、美味しそうに」
「はは、うん。一本貰っただけだからそんな顔すんな」
 どんな顔をしているのか自分ではわからない。頬を撫でながら、加賀さんを凝視する。
 ワイシャツの第一ボタンを外して、ネクタイを緩め、片肘をついて、煙草をくゆらせている。
 いつものパリッと隙のない、清潔感の塊のような加賀さんとはまた違った味わいがある。なんだか異様にカッコイイ。やさぐれる、いや、ワイルド? とにかくカッコよすぎて目が離せない。
 こんな加賀さんを見られるなんて、迎えにきてよかった。
「倉知君」
「はい?」
「さっきから話しかけられてるけど、この人に」
 加賀さんが、隣に座っている男性の肩を叩きながら言った。見覚えがある。社内運動会でいつも加賀さんの近くに陣取っている人だ。おそらく同じ部署なのだろう。
「どうせ俺は影が薄いよ。何? 髪も薄いって?」
「すいません、ボーっとしてて。あの、影は薄くないです」
「影は薄くないけど髪は薄いですってか? 君も言うね!」
 やけに薄毛を推してくる。妙に親しみを感じるのはきっと言うことが父に似ているからだ。父もよく毛が薄いと自虐的にネタにする。自然と笑みが零れた。
「なんでそんな可愛い顔で原田のこと見てるの?」
 加賀さんが言った。
「ちょっとお父さんに似てるなって思って、それで」
 可愛い発言をごまかそうと、急いで思ったままを口にすると、ドッと場が沸いた。お父さん、お父さん、と周囲の人たちが彼を呼び、加賀さんも「お父さん」と肩を組む。
「助っ人君……、俺、加賀と同い年だよ?」
 助っ人君、というのはどうやら俺のことらしい。高木印刷の社員の中で、俺は運動会のリレーで助っ人をするおなじみの人物なのかもしれない。会話をするのは初めてなのに、受け入れられている感じがして、ホッと息をつく。
「倉知君のお父さん、薄毛ネタ挟んでくるもんな」
 つまりそういうことだ。うんうん、とうなずくと、原田さんは特に気にしてはいない感じで、「そこに座りなさい、息子よ」と対面の空いているパイプ椅子を指差した。
「失礼します」
 頭を下げてから、腰掛ける。
「お、礼儀正しいな。大学生だっけ? ビール飲める?」
 隣に座っていた中年の男性が、目の前に缶ビールを置いた。
「飲める年齢ですけど、運転しなきゃいけなくて」
「じゃあ肉は? ちょっと、こっちに肉持ってきてー」
 はいよー、と遠くで野太い返事が上がる。加賀さんの顔をちら、と見た。煙草を咥え、無言で俺を見ている。
 テーブルにはビールとチューハイの空き缶が並んでいる。バーベキューも終盤なのだろう。多くの人がすでに酔っ払っているように見えた。
 加賀さんは、酒が強い。滅多に酔わない。とはいえ、この目は酔っているときの目だ。舐めるような焼けつく目。じりじりと、焦げそうな熱を感じる。
「大学何年?」
 俺の前に紙コップを置いて、ペットボトルのオレンジジュースを注ぎながら、隣の男性が訊いた。
「ありがとうございます、四年です」
「じゃあ来年社会人?」
「就職先決まったの?」
「うち来ない?」
「製造部入ってよ。うちの会社いいよ。どう?」
 質問攻めにされて、いよいよ焦ってきた。この流れでもし加賀さんとの関係性について説明を求められたら。「同じマンションに住む仲良しの大学生」以上の情報を欲しがられたら。どうすればいいのかわからない。
「倉知君は四月から教師になるんだよ。な」
 俺の内心を知ってか知らずか、煙草の灰を灰皿にとんとんと落としながら、のんびりとした口調で加賀さんが言った。
「あ、はい」
 教師、すげえ、おー、となぜか拍手が起きる。
「お肉、お待たせしましたぁ」
 肉を焼いていたであろう野太い声の持ち主ではなく、華奢な感じの女性が、両手に皿を持って現れた。
「こんにちは」
 俺の顔を覗き込んで、机に皿を置いてニコニコする女性が、「あの」と自分の手を服になすりつけながら、続けた。
「握手してもらえますか?」
「え?」
「運動会で、いつもリレー走ってる速い人ですよね。ファンなんです」
 差し出してくる手を握って応じると、キャーと声を上げ、スマホを翳して「写真」と言った。
「一緒に撮ってもらっても」
「撮らないよ」
 加賀さんが言った。全員が、加賀さんを見た。煙草の煙を吐きながら、灰皿に先端を押しつけて揉み消し、笑顔で「ごめんね」と謝った。
「えっ、あっ、……えーっ、そうなんですか?」
 意味ありげに俺と加賀さんを見比べる女性の視界に原田さんが割り込んで、手を振ってみせた。
「俺と一緒に撮る?」
「あっ、大丈夫でーす」
 彼女は、ウフフ、ウフフフフ、と言いながら、後ずさるようにして離れていった。こっちを見ている女性の輪にするりと溶け込んでいくと「加賀さんに牽制されちゃった」と嬉しそうに報告しているのが聞こえた。女性たちのキャー、という悲鳴交じりの黄色い声には耳慣れた好奇の響きが含まれている。
 まずい、と加賀さんを見た。
「バレたんじゃない?」
 原田さんが肘で加賀さんを小突き、俺はさらに驚愕する。周りの人たちの顔を、一人ひとり確認する。すべてわかっている。そんな様子だった。
「いいよ、別に」
「あの」
 震える手を握り締め、声を上げた。加賀さんを含む、一同が俺を見る。
「加賀さん」
「ん?」
 会社の人に、話したんですか? とか、どれくらいの人が、何をどれほど知っているのかとか、いろいろ訊きたいのに頭がぐちゃぐちゃになって声が出ない。空気を吸って、吐く。ひたすらそれを繰り返す俺を見て、隣の人がぽんぽんと背中を叩く。
「倉知君、落ち着いて。平気だから」
 加賀さんが俺を宥めるように、両方の手のひらを見せた。
「な、何が……、何が平気なんですか?」
「言っとくけど自分から言ったわけじゃないよ。なんとなく気づいてる連中がいてさ」
 こいつとか、と原田さんに親指を向ける。
「でもそういうので差別されたり蔑まれたり、迫害されたりとかないから。うちの会社、いい奴ばっかだなって思うよ」
「俺とかね」
 すかさず原田さんが言って、加賀さんが「うん」と同意する。原田さんは頭を掻いて、一瞬照れた微笑みを浮かべた。
「会社の奴らがいい奴っていうか、加賀の人徳じゃない?」
 隣の人が言って、「みんな助けられてるからね、この人に」と別の人が言う。
「なんか言う奴がいたら俺らが守ってやるけど、そんな奴いる?」
「いないいない」
 全員がわははと声を出して笑い、腕を伸ばして「カンパーイ」と缶をぶつけ合う。加賀さんが、「ありがとうございます、ありがとうございます」と一人ずつ、軽く缶を触れ合わせ、最後に俺を見た。にこ、と笑って肩をすくめる。
 感動が押し寄せた。歯を食いしばって泣くのを堪えていると、原田さんが「ていうか」と肉を頬張りながら言った。
「なんか罪でも犯して逮捕されたとかならともかく、付き合ってるのが男ってだけだろ」
 その一言で、堪えていたものがぷつりと切れて、ついに、泣いてしまった。
 加賀さんとの関係がバレたとき、父が似たようなことを言って、頭を撫でてくれた。
 どれだけ年月が経とうと、忘れない。一生、覚えている。
 何も悪いことはしていない。人を殺したわけでもない。たかが男に惚れただけ。
 そう言ってくれた。
「お父さん……」
 泣きながらつぶやくと、原田さんが「やっぱり俺はお父さんなのかよ!」とわめいて、穏やかな複数の笑い声に包まれる。
 加賀さんがこの会社の一員でよかった。いや、加賀さんなら、きっとどの会社にいっても大丈夫だっただろう。
 誰もが、愛さずにはいられない。
「泣かせてごめんね」
 高木印刷をあとにして、マンションに帰ってきた。ソファに並んで座ると、開口一番に加賀さんが訊いた。運転中、無言だった俺を上手に放置してくれた。口を開けばまた泣いてしまいそうで、きっと加賀さんは、それをわかっていた。
「泣いてすいません」
「倉知君が泣かなかったら、俺が泣いてたかもしれないから。助かった」
 加賀さんを見た。顔を寄せ、キスをして、抱き合った。
「煙草の匂い」
「臭い?」
「加賀さんの匂いがわからないのが嫌です。お風呂、行きましょう」
 首に抱きついてくる加賀さんを抱き上げて、風呂場へ向かう。
 脱衣所の壁に押しつけて、深く唇を重ね合わせたまま、ネクタイを解く。ワイシャツのボタンを外し、中に指を滑り込ませた。温かな肌を、撫でる。
「加賀さん、俺、まだ取り乱してます」
「ん、……うん」
 加賀さんが、俺の背中に両手を回してぴったりとくっついてくる。
「どうしてバレたんでしょうか」
「そりゃ、だだ漏れだからじゃない?」
「だだ漏れ……」
「お前が俺を好きってのと、俺がお前を好きってのは、見てたらわかるみたい」
 そんなにもわかりやすいだろうか。会社の運動会で、イチャイチャしようもない。離れた場所に座って、昼休憩以外はほとんど会話もない。ただリレーでバトンを渡して受け取るだけだ。
 でも俺は、運動会の間ずっと加賀さんを見ている。加賀さんだけを、見ている。それが俗にいう「だだ漏れ」なのだろうか。
「俺、運動会に行かないほうがよかったですよね」
「こらこら、ネガティブやめろ」
 笑って両手で尻を揉んでくる。
「とにかく、大丈夫だから。会社が社会から守ってくれる」
「それは……、すごいです」
「だろ。大丈夫だから、安心しろ。な?」
 尻を揉んでくる手が、エスカレートしてきた。指先が、股の下に潜り込んでくる。
「倉知君は俺のこと、誰にも見せたくなくて隠したい派だよな」
「え、はい、そうです、けど、あの、指……」
「知ってるだろうけど、俺は倉知君の可愛さを自慢したい派」
 ズボンの布越しに下腹部を擦られて、不意に「あっ」と声が漏れる。指の動きは止まらない。息が上がって、腰が揺れそうになる。抱き合った体は心臓の鼓動が、どくどくとやかましい。俺のか、加賀さんのか、わからない。
「会社の奴らにかわゆいかわゆい倉知君、見せびらかしたらめっちゃ気持ちよくてさ。勃起しそうだった」
「加賀さん、あの、酔ってます?」
 飛びのいて、おずおずと訊いた。加賀さんは壁に寄りかかったままで、ベルトを外し、前をくつろげ、怒張したおのれをつかみだすと、「どう思う?」と訊いた。
 酔っていると思う。
 今から、俺は、抱かれる。
 熱くなった体が、疼き始めた。

〈つづく〉
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