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「こら、こんな遅い時間に来るなよ、危な……?」
アパートの廊下は切れかかった蛍光灯のせいで仄暗い。
それでもひなたの髪がどうなっているのかは分かるだろう。
靴も履かず、扉を開けたまま固まった皐が目の前にいた。まだ着替えては居ない。切れ長の目をいつもよりも見開いて、余計に黒目が小さく見えている。
「どう?」
自分でも見慣れないカーマインレッド。鏡を覗いた時から違和感が先走っている。だが樹里の結婚の衝撃が強かったせいだろうか。染めたことで勇気を貰える気がして、深夜だというのに五分離れた皐のアパートまで来てしまった。
どんな反応が返ってくるだろう、と首のマフラーをいじりながら上目使いに皐を見る。
すると皐は大きな吐息と共に、額に手をやった。
「似合わない」
きっぱりとした否定。
その一言に、ひなたは思っていた以上に強い動揺を受けた。
自分の顔が、手が、痙攣していくのが分かる。
「え……」
「お前には相性が悪いよ、そんな色。言ったよな、お前に似合う色じゃないって」
「……樹里さんは綺麗って言ってくれたのに」
「って、樹里がやったのか。お前なぁ、樹里にさせることないだろ。ったく、樹里にもちゃんと言っておかないと駄目だな」
皐は呆れたように何度も頭を掻いた。
樹里、樹里。
押し寄せてくる不快感。彼の言葉を聞いているうちにひなたは苛立ってきた。
「あ、あたし、お前、なんかじゃないもん! 何よ、樹里さんにはお前なんて言わないのに!」
この叫びに驚いたのか、珍しくあわてた皐が温かい手でひなたの口を押さえる。
「今、時間が時間なんだから大声出すなよ。隣近所はもう寝てるんだから」
「むぐむぐ……!」
「わ、悪かった、お前なんて言い方したのは謝る。でも大人っぽくなりたいならこんなことで怒るな」
確かに大人なら「こんなこと」なんだろう。
だけど。
何で、都合の悪い時だけ大人扱いするの?
ひなたは積もり積もった鬱憤をぶつけるように、強く皐を突き放す。
少し離れた場所から、よろけて室内の壁に手をつく彼を見上げた。
涙でそれ以上はよく見えない。
「ちょ……」
ひなたの泣き顔を見た皐は口を開こうとしたのだろう。
だが、ひなたの方が早い。
「皐ちゃんに樹里さんは似合わないよ!」
言った。言ってしまった。
途端に顔を見られなくなって、後ずさりながらひなたは駆けだした。アパートの階段を駆け足で降り、家への一本道を走る。
しばらくしないうちに、後ろから追いかけてくる気配を感じた。だが振り向けない。ただ前を向いて足を進めるしかできない。
高校時代、彼は陸上部だったと思い出したのはほんの数秒後。
「ひな」
アパートから二〇〇メートルも離れていない駐車場の入り口で、後ろから肩を掴まれる。
「やっ……皐ちゃん、痛い!」
すぐさま振り向かされ、顔の前で両手首が拘束された。振り解こうとするが、今度は全く力が及ばない。
呼吸も整わないひなたに、皐の声が降ってくる。
「本当に染めたいの?」
その声は怒気をはらんでいて、目を合わせるのが怖い。
頭の中が真っ白になったひなたはただ息をするだけで精一杯。
しばらく何も言わず、足元の真っ暗なアスファルトを見つめていると、再び溜息をつかれてしまった。
「……来いよ」
右手首だけ握り締めたまま、皐は歩き出した。方角はアパートとは逆。天野美容室だ。
「ちょ、やだってば。離して」
珍しく、ひなたが痛がるのに力を緩めようともしない。
凄く怒ってる。あたしが皐ちゃんの言うこと聞かなかったから? それとも樹里さんのことを言ったから?
ひなたは樹里のことを考えたくなくて、引かれるまま痛さをこらえた。
近づいてくる店の窓が明るい。美容室の入り口には、仁王立ちのはるひが立っている。
「こんな時間に……って、何よその髪は。ひなた、諦めてなかった訳」
「はるは寝てていいから」
皐は怒り出そうとしたはるひを静かに制した。
はるひは言葉を続けようとしていたが、ただならぬ皐の様子に「お手柔らかに」とだけ言うと、欠伸をしつつ二階へと上がっていった。
そしてひなたは何も言われず椅子に座らされ、居心地が悪い。まだ鏡に映る皐の顔を見ることができず、下を向いたままだ。
だが背後で無言の皐が何をしているのか気になって、こっそり姿を窺う。窺おうとした。
「ちょ、皐ちゃん?」
突然視界を白い何かによって遮られる。ケープだった。いつの間にかケープが全身を覆い、皐の手はひなたの髪を触っていた。
「そのまま座ってろ」
あわてるひなたに、一言。
「俺が染めてやるよ、お前の似合う色に」
有無を言わさず、皐は真剣な目で鏡越しにひなたを見つめた。
そんな目で見られたことはなかった。ひなたは気まずさと恥ずかしさで視線を逸らす。
皐に髪をいじられるのは、東京へ行く前の晩が最後だった。
一人前になったらまたしてやるから、と約束したが、今夜まで時間がないからと延ばされていた。
皐のために伸ばしていたから、こんな状況でなければ嬉しかったのに。
皐の手は優しい。この手でどのくらいの人の髪に触れたのだろう。同じように東京で修行していたはるひが以前話していたが、呼び戻さなければそのまま独立し店を開業していたのかもしれなかった。
そのまま戻ってこない、という可能性は最初からあった。皐は元々片親で、高校の時点でひとりになっている。東京には親戚も居たので、ひなたは二度目がないかもしれないと思いもした。
だけど、皐ちゃんは帰ってきてくれた。あたしたちの元に。
現在、ひなたを苦しめていたとしても。
「完成したぞ」
かなりの時間が経った頃、皐の声で現実に戻された。
鏡に映るのは不自然なカーマインレッドではなく、やや明るめの黒髪。髪の長さも最後に切ってくれた時と同じショートだ。
「懐かしいだろ、もう少し長めにしようと思ったけど、何度も染めたから毛先が傷んでてさ」
声からは不機嫌さが大分失われている。
「気に入らないかもしれないけど、この方がひならしいよ」
合わせ鏡を覗き込みながら、ひなたは樹里とは全く違う自分を実感していた。
そうだよね。カーマインはあたしには似合わない。皐ちゃんの言ってた通りだ。
皐ちゃんと並んで似合わないのもあたし。
でも、こうやってうじうじと煮え切らない態度もあたしには似合わないよね。
「皐ちゃん」
振り返って直接顔を見上げた。
「あたし、皐ちゃんのこと――」
皐は黙って、ひなたの唇に人差し指を当てた。そのまま首を振る。
それは傷ついていたひなたの想いを打ち消すには充分だった。
ああ、結局皐ちゃんはあたしを妹としか見てくれてないんだ。
樹里さんが結婚してるとか、そんなこと関係なくて。あたしじゃ元々駄目だってこと。
認めたくないから足掻いてたのにね。
ひなたは、精一杯の笑顔を見せた。
「ありがとう皐ちゃん。この色、あたし気に入ったよ」
アパートの廊下は切れかかった蛍光灯のせいで仄暗い。
それでもひなたの髪がどうなっているのかは分かるだろう。
靴も履かず、扉を開けたまま固まった皐が目の前にいた。まだ着替えては居ない。切れ長の目をいつもよりも見開いて、余計に黒目が小さく見えている。
「どう?」
自分でも見慣れないカーマインレッド。鏡を覗いた時から違和感が先走っている。だが樹里の結婚の衝撃が強かったせいだろうか。染めたことで勇気を貰える気がして、深夜だというのに五分離れた皐のアパートまで来てしまった。
どんな反応が返ってくるだろう、と首のマフラーをいじりながら上目使いに皐を見る。
すると皐は大きな吐息と共に、額に手をやった。
「似合わない」
きっぱりとした否定。
その一言に、ひなたは思っていた以上に強い動揺を受けた。
自分の顔が、手が、痙攣していくのが分かる。
「え……」
「お前には相性が悪いよ、そんな色。言ったよな、お前に似合う色じゃないって」
「……樹里さんは綺麗って言ってくれたのに」
「って、樹里がやったのか。お前なぁ、樹里にさせることないだろ。ったく、樹里にもちゃんと言っておかないと駄目だな」
皐は呆れたように何度も頭を掻いた。
樹里、樹里。
押し寄せてくる不快感。彼の言葉を聞いているうちにひなたは苛立ってきた。
「あ、あたし、お前、なんかじゃないもん! 何よ、樹里さんにはお前なんて言わないのに!」
この叫びに驚いたのか、珍しくあわてた皐が温かい手でひなたの口を押さえる。
「今、時間が時間なんだから大声出すなよ。隣近所はもう寝てるんだから」
「むぐむぐ……!」
「わ、悪かった、お前なんて言い方したのは謝る。でも大人っぽくなりたいならこんなことで怒るな」
確かに大人なら「こんなこと」なんだろう。
だけど。
何で、都合の悪い時だけ大人扱いするの?
ひなたは積もり積もった鬱憤をぶつけるように、強く皐を突き放す。
少し離れた場所から、よろけて室内の壁に手をつく彼を見上げた。
涙でそれ以上はよく見えない。
「ちょ……」
ひなたの泣き顔を見た皐は口を開こうとしたのだろう。
だが、ひなたの方が早い。
「皐ちゃんに樹里さんは似合わないよ!」
言った。言ってしまった。
途端に顔を見られなくなって、後ずさりながらひなたは駆けだした。アパートの階段を駆け足で降り、家への一本道を走る。
しばらくしないうちに、後ろから追いかけてくる気配を感じた。だが振り向けない。ただ前を向いて足を進めるしかできない。
高校時代、彼は陸上部だったと思い出したのはほんの数秒後。
「ひな」
アパートから二〇〇メートルも離れていない駐車場の入り口で、後ろから肩を掴まれる。
「やっ……皐ちゃん、痛い!」
すぐさま振り向かされ、顔の前で両手首が拘束された。振り解こうとするが、今度は全く力が及ばない。
呼吸も整わないひなたに、皐の声が降ってくる。
「本当に染めたいの?」
その声は怒気をはらんでいて、目を合わせるのが怖い。
頭の中が真っ白になったひなたはただ息をするだけで精一杯。
しばらく何も言わず、足元の真っ暗なアスファルトを見つめていると、再び溜息をつかれてしまった。
「……来いよ」
右手首だけ握り締めたまま、皐は歩き出した。方角はアパートとは逆。天野美容室だ。
「ちょ、やだってば。離して」
珍しく、ひなたが痛がるのに力を緩めようともしない。
凄く怒ってる。あたしが皐ちゃんの言うこと聞かなかったから? それとも樹里さんのことを言ったから?
ひなたは樹里のことを考えたくなくて、引かれるまま痛さをこらえた。
近づいてくる店の窓が明るい。美容室の入り口には、仁王立ちのはるひが立っている。
「こんな時間に……って、何よその髪は。ひなた、諦めてなかった訳」
「はるは寝てていいから」
皐は怒り出そうとしたはるひを静かに制した。
はるひは言葉を続けようとしていたが、ただならぬ皐の様子に「お手柔らかに」とだけ言うと、欠伸をしつつ二階へと上がっていった。
そしてひなたは何も言われず椅子に座らされ、居心地が悪い。まだ鏡に映る皐の顔を見ることができず、下を向いたままだ。
だが背後で無言の皐が何をしているのか気になって、こっそり姿を窺う。窺おうとした。
「ちょ、皐ちゃん?」
突然視界を白い何かによって遮られる。ケープだった。いつの間にかケープが全身を覆い、皐の手はひなたの髪を触っていた。
「そのまま座ってろ」
あわてるひなたに、一言。
「俺が染めてやるよ、お前の似合う色に」
有無を言わさず、皐は真剣な目で鏡越しにひなたを見つめた。
そんな目で見られたことはなかった。ひなたは気まずさと恥ずかしさで視線を逸らす。
皐に髪をいじられるのは、東京へ行く前の晩が最後だった。
一人前になったらまたしてやるから、と約束したが、今夜まで時間がないからと延ばされていた。
皐のために伸ばしていたから、こんな状況でなければ嬉しかったのに。
皐の手は優しい。この手でどのくらいの人の髪に触れたのだろう。同じように東京で修行していたはるひが以前話していたが、呼び戻さなければそのまま独立し店を開業していたのかもしれなかった。
そのまま戻ってこない、という可能性は最初からあった。皐は元々片親で、高校の時点でひとりになっている。東京には親戚も居たので、ひなたは二度目がないかもしれないと思いもした。
だけど、皐ちゃんは帰ってきてくれた。あたしたちの元に。
現在、ひなたを苦しめていたとしても。
「完成したぞ」
かなりの時間が経った頃、皐の声で現実に戻された。
鏡に映るのは不自然なカーマインレッドではなく、やや明るめの黒髪。髪の長さも最後に切ってくれた時と同じショートだ。
「懐かしいだろ、もう少し長めにしようと思ったけど、何度も染めたから毛先が傷んでてさ」
声からは不機嫌さが大分失われている。
「気に入らないかもしれないけど、この方がひならしいよ」
合わせ鏡を覗き込みながら、ひなたは樹里とは全く違う自分を実感していた。
そうだよね。カーマインはあたしには似合わない。皐ちゃんの言ってた通りだ。
皐ちゃんと並んで似合わないのもあたし。
でも、こうやってうじうじと煮え切らない態度もあたしには似合わないよね。
「皐ちゃん」
振り返って直接顔を見上げた。
「あたし、皐ちゃんのこと――」
皐は黙って、ひなたの唇に人差し指を当てた。そのまま首を振る。
それは傷ついていたひなたの想いを打ち消すには充分だった。
ああ、結局皐ちゃんはあたしを妹としか見てくれてないんだ。
樹里さんが結婚してるとか、そんなこと関係なくて。あたしじゃ元々駄目だってこと。
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