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第一章
011 夏の想い出─①
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大学一年はあっという間に過ぎ、大学二年の夏を迎えた。
今年も春を押しやり、五月下旬にはすでに夏の香りが漂い始めていた。
学生寮の廊下には、人だかりができていた。ボードにはお知らせと書かれたポスターが貼っている。
昨日の夜、通話アプリでお知らせがきたが、今年の夏期休暇中は寮の工事があり、二か月ほど住めなくなるのだ。
「はあ…………」
味のしないジャーマンポテトをつつきながら、ついため息が漏れてしまう。
このままでは二か月間、家無しで過ごすことになる。実家には帰れない。
「スマホ弄りながらのご飯はお行儀が悪いよ」
零は眉をハの字に曲げながら、隣へ腰掛けた。
「ホテルのサブスクについて調べてたんだ」
「サブスク? お菓子とか花とかの? ホテルもあるんだ」
「お前は二か月間、どうやって過ごすんだ?」
「実家から連絡が来て、帰って来いってさ。キミもね」
「………………ん?」
「彼方の話をしたら、ぜひおいでってさ」
「ちょっと待ってくれ。迷惑がかかる。そんなことできない」
「いいの? 三食ご飯つきだよ?」
「……………………」
「海が近くて泳ぎ放題、サーフィンし放題だよ?」
「うっ………………」
「家賃もタダなのになあ」
「…………零の家族と電話がしたい」
「OK!」
二か月だ。そんな長い間、世話になっていいのだろうか。だが家なしだ。サブスクの利用か実家に帰るか。後者は無理だ。家族にも迷惑がかかるし、一切連絡の取っていない弟にも迷惑が……と思いつめて、自分の正直な気持ちを吐き出したくなった。弟の気持ちより、弟から受けた仕打ちを思い出すのが恐ろしかった。
こうして素直な心を出せるようになったのは、零のおかげだ。
家族に対し、あまりの情の無さに欠落したものがあると冷静に感じた。
零の部屋にお邪魔して、さっそく電話を受けた。
『彼方君、久しぶりだね。元気だったかい?』
「はい。元気です。あの、二か月のお世話になる件なんですが……」
『何も心配しなくていいよ。ふたりで帰っておいで』
「本当に本当に、嬉しいんですが、俺は両親と、その……まったく連絡をとってなくて……。電話の一言の詫びすら何もできなくて」
『キミは何も気にすることはない。頑張ってここまで生きてきたんだから』
「……っ………………」
『人として抱えているものはそれぞれある。彼方君にも、零にも。その重荷は大人が身勝手に与えてはならないんだ。遠慮せずに、着替えだけを持って長崎へ来なさい。海が好きなんだろう? サーフボードを借りられるところがある。たくさん遊ぶといい』
「ありがとうございます。お邪魔させていただきます」
零に端末を返すと、一言、二言話して電話を切った。
「正直、めちゃくちゃ助かる。ホテルがあまりに高かったらテントでも買って野宿しようとか、ずっと思ってたんだ」
「僕に言ってくれたら良かったのに」
「家族水入らずで過ごすんだし、そうもいかないだろ」
「変なところで頑固なんだから。あ、言い忘れてたけど僕のおじさん、学校の勉強についてはかなり厳しいからね。ちゃんと宿題とか持っていかないと怒る人」
「おじさん?」
「うち、お父さんとお母さんはいないから」
心が縮こまった。夏の暑さを吹っ飛ばすほどの衝撃。
「そうだったのか……」
「中二の夏に島で会った人はおじさんだよ」
「だから敬語を使ってたのか?」
「よく覚えてるね。でも今は使ってないよ。歪な家族に見えるかもしれないけど、僕はおじさんやおばさんに会って感謝してる。ここまで育ててくれた人たちだから」
「家族だよ、間違いなく。俺のことも紹介してくれたんだ。俺は……自分の親にお前以外紹介できなかった」
「前のような家族関係に戻りたいって思う?」
そんな質問をしたのは、零が初めてだった。
「どうだろうな。壊れたものって、元通りにはならないだろ。諦めもあるのかも。なんで大学行くお金まで払ってくれてるのか、今も謎」
「いずれまた行きたいって思うよ」
「あの島に? 冗談だろ」
「いつか、ね。キミに勇気が生まれたときかな」
生まれるだろうか。意気地なしの心にあるのは、ぽっつりと途切れた愛情だ。残骸だけが生き埋めになっている。
海の香りはどこも同じではない。故郷、神奈川、そして長崎の潮風。神奈川の海は潮風に人工的な香りが混じっている。人間が作り上げた食べ物だったり、腐敗の臭いだったり。長崎の海は故郷の島の香りに似ていた。自然そのものの磯の香りで、自然がくれた贈り物だ。
零の家は一軒家で、庭には小さな菜園があった。ナスやトマト、スイカもある。
「こんにちは! 零がいつもお世話になっております」
「初めまして。倉本彼方です。二か月間、どうぞお願いします」
「こちらこそ。私のことはおばさんって呼んでね。零もそう呼んでるから」
女性に対して非常に呼びづらい。けれど零もそう呼んでいるが、初対面の女性に言う言葉ではない。
「できれば名前が……。寮母のことも秋子さんってさん付けなんです」
「あらそう? じゃあ莉緒がいいかしら」
「莉緒さんで」
彼方と並ぶと、莉緒はいっそう小さく見える。小さな太陽は零だけではなかった。とにかく眩しくて、目を伏せたくなる。
「彼方君のお部屋は零と一緒でいい?」
「うん、それで」
彼方が返事をするより先に、零が答える。
「今日はお寿司をとったから、たくさん食べてね」
本来であれば彼方の好物だ。だが味覚がおかしくなった今、何も感じない。
「キミの味覚障害の件は聞いてるよ。でも食べなさい。気にせず食べていれば、きっと良くなるから」
おじさんに耳打ちされ、彼方はほっとした。それを知った上で寿司を用意してくれたのだ。
「神奈川でお寿司とか食べに行くの?」
「学生が食べられるものじゃないよ」
「食堂ではどんなご飯が出るの?」
「コロッケとか、生姜焼きとかかな。あとはたまにアイスが出たり。家庭料理より、甘いものが全然出ないから自分で買って食べてる」
「じゃあ明日からはデザートに何か甘いものでも用意しましょうか」
四人前以上ある寿司をたらふく食べた。少しだけ、磯の香りを感じた気がした。
今年も春を押しやり、五月下旬にはすでに夏の香りが漂い始めていた。
学生寮の廊下には、人だかりができていた。ボードにはお知らせと書かれたポスターが貼っている。
昨日の夜、通話アプリでお知らせがきたが、今年の夏期休暇中は寮の工事があり、二か月ほど住めなくなるのだ。
「はあ…………」
味のしないジャーマンポテトをつつきながら、ついため息が漏れてしまう。
このままでは二か月間、家無しで過ごすことになる。実家には帰れない。
「スマホ弄りながらのご飯はお行儀が悪いよ」
零は眉をハの字に曲げながら、隣へ腰掛けた。
「ホテルのサブスクについて調べてたんだ」
「サブスク? お菓子とか花とかの? ホテルもあるんだ」
「お前は二か月間、どうやって過ごすんだ?」
「実家から連絡が来て、帰って来いってさ。キミもね」
「………………ん?」
「彼方の話をしたら、ぜひおいでってさ」
「ちょっと待ってくれ。迷惑がかかる。そんなことできない」
「いいの? 三食ご飯つきだよ?」
「……………………」
「海が近くて泳ぎ放題、サーフィンし放題だよ?」
「うっ………………」
「家賃もタダなのになあ」
「…………零の家族と電話がしたい」
「OK!」
二か月だ。そんな長い間、世話になっていいのだろうか。だが家なしだ。サブスクの利用か実家に帰るか。後者は無理だ。家族にも迷惑がかかるし、一切連絡の取っていない弟にも迷惑が……と思いつめて、自分の正直な気持ちを吐き出したくなった。弟の気持ちより、弟から受けた仕打ちを思い出すのが恐ろしかった。
こうして素直な心を出せるようになったのは、零のおかげだ。
家族に対し、あまりの情の無さに欠落したものがあると冷静に感じた。
零の部屋にお邪魔して、さっそく電話を受けた。
『彼方君、久しぶりだね。元気だったかい?』
「はい。元気です。あの、二か月のお世話になる件なんですが……」
『何も心配しなくていいよ。ふたりで帰っておいで』
「本当に本当に、嬉しいんですが、俺は両親と、その……まったく連絡をとってなくて……。電話の一言の詫びすら何もできなくて」
『キミは何も気にすることはない。頑張ってここまで生きてきたんだから』
「……っ………………」
『人として抱えているものはそれぞれある。彼方君にも、零にも。その重荷は大人が身勝手に与えてはならないんだ。遠慮せずに、着替えだけを持って長崎へ来なさい。海が好きなんだろう? サーフボードを借りられるところがある。たくさん遊ぶといい』
「ありがとうございます。お邪魔させていただきます」
零に端末を返すと、一言、二言話して電話を切った。
「正直、めちゃくちゃ助かる。ホテルがあまりに高かったらテントでも買って野宿しようとか、ずっと思ってたんだ」
「僕に言ってくれたら良かったのに」
「家族水入らずで過ごすんだし、そうもいかないだろ」
「変なところで頑固なんだから。あ、言い忘れてたけど僕のおじさん、学校の勉強についてはかなり厳しいからね。ちゃんと宿題とか持っていかないと怒る人」
「おじさん?」
「うち、お父さんとお母さんはいないから」
心が縮こまった。夏の暑さを吹っ飛ばすほどの衝撃。
「そうだったのか……」
「中二の夏に島で会った人はおじさんだよ」
「だから敬語を使ってたのか?」
「よく覚えてるね。でも今は使ってないよ。歪な家族に見えるかもしれないけど、僕はおじさんやおばさんに会って感謝してる。ここまで育ててくれた人たちだから」
「家族だよ、間違いなく。俺のことも紹介してくれたんだ。俺は……自分の親にお前以外紹介できなかった」
「前のような家族関係に戻りたいって思う?」
そんな質問をしたのは、零が初めてだった。
「どうだろうな。壊れたものって、元通りにはならないだろ。諦めもあるのかも。なんで大学行くお金まで払ってくれてるのか、今も謎」
「いずれまた行きたいって思うよ」
「あの島に? 冗談だろ」
「いつか、ね。キミに勇気が生まれたときかな」
生まれるだろうか。意気地なしの心にあるのは、ぽっつりと途切れた愛情だ。残骸だけが生き埋めになっている。
海の香りはどこも同じではない。故郷、神奈川、そして長崎の潮風。神奈川の海は潮風に人工的な香りが混じっている。人間が作り上げた食べ物だったり、腐敗の臭いだったり。長崎の海は故郷の島の香りに似ていた。自然そのものの磯の香りで、自然がくれた贈り物だ。
零の家は一軒家で、庭には小さな菜園があった。ナスやトマト、スイカもある。
「こんにちは! 零がいつもお世話になっております」
「初めまして。倉本彼方です。二か月間、どうぞお願いします」
「こちらこそ。私のことはおばさんって呼んでね。零もそう呼んでるから」
女性に対して非常に呼びづらい。けれど零もそう呼んでいるが、初対面の女性に言う言葉ではない。
「できれば名前が……。寮母のことも秋子さんってさん付けなんです」
「あらそう? じゃあ莉緒がいいかしら」
「莉緒さんで」
彼方と並ぶと、莉緒はいっそう小さく見える。小さな太陽は零だけではなかった。とにかく眩しくて、目を伏せたくなる。
「彼方君のお部屋は零と一緒でいい?」
「うん、それで」
彼方が返事をするより先に、零が答える。
「今日はお寿司をとったから、たくさん食べてね」
本来であれば彼方の好物だ。だが味覚がおかしくなった今、何も感じない。
「キミの味覚障害の件は聞いてるよ。でも食べなさい。気にせず食べていれば、きっと良くなるから」
おじさんに耳打ちされ、彼方はほっとした。それを知った上で寿司を用意してくれたのだ。
「神奈川でお寿司とか食べに行くの?」
「学生が食べられるものじゃないよ」
「食堂ではどんなご飯が出るの?」
「コロッケとか、生姜焼きとかかな。あとはたまにアイスが出たり。家庭料理より、甘いものが全然出ないから自分で買って食べてる」
「じゃあ明日からはデザートに何か甘いものでも用意しましょうか」
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