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第一章 学生時代

021 優しい家族3

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 腕を掴まれ、顔を上げた。
「ひとりでどうにかしようと思わないように」
 腕が震える。震えているのは僕じゃなくて、アーサーさんだ。
「大丈夫です。警察にお任せしますから」
「本当に?」
 嘘です、と心の中で謝罪をする。
 これは僕の問題だ。また祖母やアーサーさんに迷惑をかけるかもしれない。ならば僕ひとりで出向いた方がいい。
 パトカーの中ではいろいろ思い出したようで、祖母は電話の話を語った。確かに声が義理の息子に似ていたという。
 今はどこで何をしているのか。食べていくためにはお金は必要だし、誰かに養ってもらうか、働くしかない。
 だがあの男の働く姿は見たことがない。悪に手を染めたりしていないだろうか。
 翌日はどんよりした天気の中、寝坊した。祖母も寝坊して、ふたりで笑った。
 簡単にお茶漬けで朝食を済ませた後、友達と遊びにいくと口実を添えて家を出た。大好きな人に嘘をつくのは胸が張り裂ける。
 僕の記憶が正しければ、一度だけ父に連れていってもらった場所がある。思い出した。唯一父と笑顔になれた思い出だ。
 新しいところへ行くのは勇気がいるし、心が躍る。
 記憶に鞭を打ちながら電車を乗り継ぐ。電車の窓から見える景色は、懐かしさの欠片もない。変わってしまった。十年以上経つのだ。人も景色も変わっていく。
 駅から出ると、曖昧な記憶であっても道を覚えていて、不思議と足が動いた。
 荒れ地だった場所はコンビニができ、車が数台停車している。
 人の手がしばらく入っていないせいか、公園のブランコは錆びていて、大人が乗ったら簡単に割れてしまいそうなシーソーもあのときのままだ。子供の自分が乗っても、痛々しい悲鳴を上げていた。
「ここだ……」
 人が住んでいるようには思えない、平屋の家だ。黴で壁が黒く染まり、茂った庭からは猫の鳴き声がする。飼える環境ではないし、おそらく野良猫だ。
 インターホンを押すが、音は鳴らなかった。
 怒りのこもった手で引き戸を開けると、埃が舞う。
 玄関には、泥や汚れでくすんだスニーカーが一足あった。
 蓋をしていた記憶が蘇る。父の家だ。当時はなかった蜘蛛の巣も床を這う何かの虫も、記憶を食べてしまっている。
 人の気配がした。嗚咽と独り言が聞こえ、僕は軋む床板を踏む。
「…………彼方か?」
 丸い背中を伸ばし、嗄れた声で名を呼ぶ。
 父だ、間違いなく。風貌はまるっきり変わっているが、面影がある。
 酒瓶が転がり、畳は焦げている。煙草の灰が落ちていて、眉間に皺が寄った。
「大きくなったな……髪はそのままか」
「血からは逃れられないって、本当なんだね。だったら僕が責任を取るしかないんだ」
 割れた写真立てが目に映る。太陽の光りが当たり、何が映っているのか見えない。
 手に一切馴染まない物を取り出した。突起に触れると、銀色に光る鋭い刃物が現れる。
 切っ先を父に向けると、咆哮を上げて壁際まで這いつくばった。
「し……信じられねえ……何を……」
「おばあちゃんを傷つけようとした」
「違う! ちょっと金を借りようと思ったんだ! そしたら邪魔が入って」
「孫を使って呼び出して、あんな汗だくになるまで走らせて……。腰痛いの知らなかった?」
 後ずさる男を追い、一歩前に出た。
 外がやけに騒がしくなり、玄関が開いた。
 背後から来た男は大声で何か叫ぶと、僕の右手を捻ってナイフをはたき落とす。
「止めなさい」
 ナイフを足で押さえる男は、怒りと悲しみで声が震えていた。
「悲しむ人がいます。私は悲しい」
「どうして……ここに」
 乱れた髪をそのままに、アーサーさんはナイフを拾った。
 次々と雪崩のように入ってきたのは、警察だ。
「そいつに殺されそうになったんだ! ナイフを持ってる!」
 父は僕を見て叫んだ。
「オーバードーズのようですね。手の震え、目の動き、幻覚が見えている」
 しれっと言うアーサーさんを二度見した。
 父はまたしても雄叫びを上げた。
 掴みかかろうとするが、アーサーさんは僕を引き寄せ抱きしめる。息ができないほど苦しかった。
 手が届く前に警察官が身体に乗る。僕を掴み損なった手は空気を掴んだ。
 父が僕の名前を叫んだ。反射的に、僕はアーサーさんの服を掴む。
 やがて声が遠のいていき、外では車が走る音がした。
「いろいろと言いたいことがあります」
「怒ってますよね」
「怒っていないように見えますか?」
 顔を上げると、碧眼が色濃く光っていた。ほっとしたような、泣きそうな顔だ。
 アーサーさんは、僕の背中を抱きしめる。
「あなたが無事で、本当に良かった」
 語尾が震えていて、聞いていられなかった。
「あなたの様子がおかしいと、おばあさまから連絡がきました。思い当たる場所はここしかないと言われて、警察にもあなたが行方不明だと伝え、応援を頼みました」
「いろんな方面に迷惑をかけていますね……僕」
「自分の人生や命を捨てようとしたことは、一生許しません」
「どうしたら許してくれますか?」
「一生かけて、償うしかないでしょう。どれだけ心配をかければ気が済むんですか。詳しい話は後で聞きます。外で待つ警察官と話をしに参りましょう」
 いつの間にか解けていた髪を、アーサーさんが結んでくれた。
 他人から髪に触れてもらうなど、呪いが解けた気持ちになる。
 アーサーさんは写真立てに気づくと、手に取った。
「これは……」
 飾られているのは、僕の写真だった。
 子供の頃の写真で、今よりも髪が長い。ワンピースを着て、母親の手を掴んでいる。
 肝心の母は映っていない。
 アーサーさんは、じっと見つめたまま動かない。
「……………………」
「持って帰っちゃだめですかね」
「元はあなたの家では?」
「一回しか来たことないんですよ。でもたどり着けるくらいには覚えていました。楽しい思い出も残っていたみたいです」
「いいのではないですか? またここに来られるとは限りませんから」
 悩んだ結果、中の写真だけを持って帰ることにした。
 入れ物を外すと、写真以外にも入っていたようで、紙切れが畳に落ちた。
「なんですか? それ」
「誰かの電話番号みたいですね。どうします?」
「僕はいらないです」
「分かりました」
 アーサーさんは写真立てを組み立て、元の位置に置いた。



 一つの物語が終わりを迎えた。
 あっという間で、ちっぽけで、一億分の一の儚い物語だ。
 酒や賭博に溺れて家族に暴力を振るった理由は分からないが、指紋がべたべたの写真立ては、涙を流すのに充分だった。
 刃物を持ち出した罪は、僕自身で一生背負っていく。
 うまく言い表せない感情だけれど、ずっと側にいてくれた人がいる。
 もし、彼が人生の岐路に立ったとき、僕は何かできるだろうか。
 何かできる、ではなく、全力で彼を支えたい。
 彼への感情が、あまりに膨らみすぎている。
 苦しくて、切ない。そして、ささやかな幸せが心地いい。
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