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第1章「きさらぎ駅」
第3話 次は、きさらぎ
しおりを挟む鷹宮が掴んだ腕は、確かな重みを返していた。
幻覚ではない。噂でもない。人間だ。
だが、その感触の向こうで、世界の手触りが崩れていく。
音が、消える。
線路の金属音も、風も、遠くの街のざわめきも、すべてが一段ずつ削ぎ落とされる。残るのは、低いノイズだけだった。心臓の鼓動に似た、周期的な振動。
「……閉じたな」鷹宮が言った。
久遠は返事をしない。端末を見つめたまま、唇がわずかに動いている。数式を追う癖だ。言葉よりも先に、構造を掴もうとしている。
宮下蓮は、掴まれた腕を振りほどこうともしない。ただ、線路の奥を見つめている。そこには、光とも影とも言えない“次”が口を開けていた。
「……聞こえるんです」
宮下が言った。
「呼び方が、分かるんです」
「誰が呼んでいる」鷹宮は低く問う。
宮下は少し考える素振りを見せたが、すぐに首を振った。「誰でもない。……みんなです」
「“みんな”?」
線路の脇に立つ人影が、同時に一歩、前へ出た。
数人。いや、もっと多い。数えようとした瞬間、数という概念が曖昧になる。彼らは同じ姿勢で、同じ方向を向き、同じ“待機”をしている。
久遠が、喉の奥で息を呑んだ。
「……噂に反応した人間だけが、ここに集められてる」
「選別だな」鷹宮は言う。「信じる準備が整った人間だけ」
宮下が、微かに笑った。「準備、しましたから」
スピーカーが、再び鳴った。
『——お忘れ物は、ありませんか』
その言葉が、直接、脳に触れる。
“忘れ物”という概念が、頭の中を探り始める。後悔、未練、確認しなかった可能性。置いてきた言葉。
鷹宮の視界が、一瞬、歪んだ。
事務所の壁。
コルクボード。
赤い糸で繋がれなかった資料。
切り捨てたデータ。
無意味だと判断したログ。
合理の名の下に、見なかったことにした異常。
——ノイズ。
「……っ」
歯を食いしばる。
腕の力を強める。
「久遠!」鷹宮が叫んだ。
久遠は顔を上げた。目に、恐怖と興奮が同時に宿っている。
「分かった……!」
彼は早口で言う。「これ、都市放送網じゃない。研究用のプロトコルだ。噂を“信号”として扱う設計……」
「いつの話だ」
「十年前」
久遠は、一瞬、視線を逸らした。「封印されたはずの」
線路の奥で、“次”が拡張する。
人影たちが、同時に歩き出した。
宮下も、前へ進もうとする。
「行くな!」
鷹宮は引き戻そうとするが、足元が揺れる。空間が、選択を迫ってくる。
『——次は、きさらぎ』
アナウンスが、完全な宣告として響いた。
久遠の端末が、赤い警告で埋まった。
同期率、上昇。
都市システムの複数レイヤーが、一瞬だけ重なる。
「……午前3時33分だ」
久遠の声が震える。「都市が、一斉に“隙間”を作る」
鷹宮は即断した。
「切れ」
「でも、完全に遮断したら——」
「今だ!」
久遠は唇を噛み、操作を叩き込んだ。
ノイズが、悲鳴のように跳ね上がる。
瞬間、光が反転した。
世界が、巻き戻される。
——
衝撃。
鷹宮は硬い地面に叩きつけられ、息を吐いた。
次に聞こえたのは、現実の音だった。車の走行音。遠くのサイレン。風に鳴るフェンス。
高架下。
仮設階段はない。
看板も、白線も、消えている。
「……成功、したか?」
久遠が荒い息で言った。
鷹宮は、空になった手を見る。
掴んでいたはずの腕は、そこにない。
「……いや」
地面に、スマホが落ちていた。
画面は割れているが、通知が表示されている。
未送信のメッセージ。
《3:33 きさらぎ
次は——》
鷹宮は、静かに言った。
「事件は終わった。
だが——」
久遠が、言葉を継ぐ。
「“駅”は、消えてない」
——
翌日、宮下蓮は行方不明者として処理された。
事故の可能性。自発的失踪。事件性なし。
噂の話は、記録に残らない。
⸻
数日後。
鷹宮探偵事務所。
久遠は新しい端末を机に置き、解析結果を表示していた。
「確定したことがある」
彼は言う。「“3時33分”は、時刻じゃない」
鷹宮は椅子に座る。「続けろ」
「都市システムの更新サイクルだ。通信、放送、電力……全部が一瞬だけ同期する“隙間”」
「そこに、噂が割り込む」
「そう」
久遠は画面を拡大した。「噂が“信号”として扱われる」
鷹宮は机を指で叩いた。「誰が、そんな設計を知っている」
久遠は答えない。
沈黙が、過去を連れてくる。
「……十年前の関係者だ」
ようやく、そう言った。
鷹宮は否定しなかった。
その時、端末が震えた。
新着通知。差出人不明。
《次は、くねくね》
鷹宮は画面を見つめ、短く言った。
「……続き物だな」
久遠は、わずかに笑った。
「歓迎するよ。
“ノイズ”は、まだ山ほどある」
窓の外で、街は何事もなかったかのように動き続けている。
人を運ぶ装置として、正しく。
だが、その隙間で。
噂は、次の行き先を準備していた。
——第1章・了。
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