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ダンジョンの入り口から帰宅する幽鬼
夜に現れる甲冑
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五〇階層。
この階層には、寄生モンスターに植え付けられた種や卵の数々を浄化できる救済薬――〈虫下し〉の調薬に必要な素材が揃っている。
この薬があれば、運の悪い挑戦者達に待ち受けている、身の毛もよだつような凄惨な結果を回避できる。
N級ダンジョンとはいえ、あの狂気の階層を突破した者達への、わずかばかりの配慮はあるのだ。
もっともそこには、冒険者をもっと奥へ呼び込んで、より一層濃い悪夢の中ですり潰してやろうという、邪悪な陰謀が隠されているのだが――。
雷雨だった。
まるで深夜のごとき暗さの中、ザーザーと降り注ぐ雨を、簡易的な天幕で凌いでいる男が二人。
「酷い雨だな」
髭面の男が言った。
「ああ、とてもダンジョンの中とは思えない。これが世にも奇妙な幽世の迷宮というものなのだな……」
不健康そうな男が答えた。
男達は小さな焚き火を囲んでいた。
その炎の揺らめきで照らされた二人の顔には疲労が滲んでいたものの、その目に絶望の色は見えない。
「まさか転びかけて木を触っただけで、棘から寄生植物の種を植え付けられるとはな……ツイてない……。なぁ、マイク。気付いていないだけで、実は俺達以外にも寄生されている奴は他にもいるんじゃあないか?」
マイクと呼ばれた不健康そうな男が顔を上げる。
「だろうな。サクソン、そのための俺達がここに留まっている。デヴォーが追加の〈ベジュガ草〉を取ってきてくれれば、本隊用の虫下しを余分に作って持って行ける。そうすればイルバーンも安心だろう。これで不安要素を払拭して先に進める」
「だな」と言って、サクソンが大きく息を付いて無精髭を撫でた。
ザーザーとやかましく雨が天幕を叩く音。
そんな中、サクソンが焚き火を見つめながら、苦々しく口を開く。
「しかしまぁ、なんだってあんな階層……ひたすら寄生モンスターしかいない階層なんて、ただの嫌がらせだろ。このダンジョン、いかれてるぜ……」
「聞きしに勝る過酷さだ。だが、大事に至る前に寄生に気づけてよかった。古文書様々だ。先人達が残してくれたという、あの攻略の記録がなければ、俺たちはとっくの昔にこのダンジョンに食われていた」
そう言って溜息をついたマイクが、また手を動かし始める。
彼の足元には調薬キットが並んでおり、そこで今も虫下しが作られていた。
マイクのパーティは三人。錬金術師である彼と戦士のサクソン、そして斥候のデヴォーが組むベテランチームだ。全員が寄生植物の種を植え付けられたと思われる。
既に三人分の虫下しは調薬済みで、追加で本隊に持って行く薬の素材を、デヴォーと呼ばれた斥候の男が、この雷雨の中を一人で採集に出ている最中だった。
マイクがこのパーティのリーダーだ。顔についた無数の古傷が、彼の冒険者としての長い経歴を物語っている。
「調薬が済み次第、すぐに出発して急げば、最奥である一〇〇階層を前に余裕を持って本隊に合流できるはずだ。大きな障害は本隊が掃除しておいてくれるはずだから、俺たちだけでも問題なく進めるだろう。道のりはデヴォーの頭に入っている」
「あと半分か。本当にこの絆の深淵を攻略できそうな勢いだな……ここだけの話なんだが、あんな若造、二十階層くらいで根を上げると思っていたぞ。まったく信じられんな……」
サクソンの言に、調薬のために手を動かしていたマイクが、ふっと口を綻ばせた。
「イルバーン、か……飛ぶ鳥を落とす勢いの新規新鋭S級冒険者。ああいう才気あふれる若者が案外、この悪名高いN級ダンジョン――絆の深淵を“攻略”して歴史に名を残す人間になるのかもな」
「昔、ここを“踏破”したっていう冒険者の伝説はあるんだろう?」
マイクが調薬の手を止めた。
「――眉唾だ。もし過去に踏破されているならば、なぜこの絆の深淵が未だに残っている? 本当に踏破した奴らがいたなら、もうこのダンジョンは存在していないはずだ」
ダンジョンの踏破と攻略は区別されている。
ダンジョンの最奥に到達し、宝を持ち帰ることを踏破。ダンジョンマスターを殺害してダンジョンそのものを破壊することを攻略と呼ぶ。
「まぁな。この絆の深淵は危険すぎる。踏破したら誰だってダンジョンマスターを“破壊”して完全攻略するはずだ」
「……俺たちは、たとえ主役じゃなくても、この世紀の攻略隊に参加していることに感謝しないとな。歴史書のすみっこにマイク、サクソン、デヴォーと小さく名前を残せるかも知れんぞ」
くっくっと笑ったマイク。
「まさか即物的なお前さんが、報酬抜きで攻略隊に参加するなんて言い出すとはなぁ。俺は今でも信じられんよ。年を取って人間が丸くなったのか? それとも……イルバーンに惚れ込んだとかか?」
サクソンの揶揄にマイクは小さく笑い、また手を動かし始めた。
ザーザーと耳にうるさい雨音。
焚き火が作る光の領域の外は、闇黒だった。
「――それにしてもデヴォーの奴、遅いな……探しに行くか?」
「いや、この天候と視界の悪さでは無理だ……デヴォーの腕を信じろ。あいつはA級の中でもトップクラスの斥候だ。こういうときは、俺たち素人はうろちょろせずに、じっとしている方がいい――」
ふと、ブルブルッと肩をふるわせて顔を上げたマイク。
「――それにしても、なんだか急に寒くなってきたな。ここは気温までこんなに上下するのか……」
「んん? ダンジョンに気候なんてないだろ」
「――ここはN級ダンジョンだぞ。何が起こってもおかしくないんだ。古文書によれば、砂漠の階層が、急に津波に飲まれて海の底に沈んだりもするんだからな」
「ははは……そりゃ大袈裟――」
「お、帰ってきたな」
二人の視線が闇の奥に向いた。
足音が、乱暴な雨音の向こうから聞こえてくる。
ザシュ――ザシュ――ザシュ――。
石の上に座っていた二人の尻くすぐった振動。
重装騎士さながらの、重苦しく硬質な気配だった。
冷気が、スーッと天幕の下を走り抜けていった。
得体の知れない悪寒が二人の背中を駆け上がり、その身体を芯から震わせた。
「――なんだ?」
マイクが調薬の手を止めた。
ほどなくして、それは闇の澱から悠然と歩み出した。
二人が唖然となって見つめる先から姿を現したのは、まるで宵闇を凝縮したかのような漆黒の全身甲冑。
見上げるほど大柄な甲冑騎士が、白い棒を引きずって光の領域に侵入してきた。
よく見ると、その棒は赤く濡れていた。
眉をひそめたサクソンが口を開く。
「あんた――」
その時、パパパッと白光が閃いた。
マイクの総毛がブワリと逆立った。
彼が閃光の中で見たものは、デヴォーの恐怖と苦悶の表情が張り付いた頭部。そしてそこから伸びた、白くゴツゴツとした――血まみれの背骨。
甲冑騎士は、デヴォーの頭部と背骨を引きずって現れた。
次いで到来した雷鳴に、マイクの身体が反射的に跳ねた。
長年の冒険者としての経験が、濃密な死の気配を察知したのだ。
咄嗟に後ろに飛び退くマイク。
直後、闇黒が、焚き火を轟と断ち切ったのが見えた。
「サクソン‼ そいつは――」
マイクが緊張でうわずった警告を発した。
しかし先ほどまで会話していたサクソンが、ぐらりと焚き火に向かって崩れ落ちる場面を見て、彼は途中で口を閉ざした。
胸から上が消失し、断面から鮮血を噴き上げながら炎に突っ伏したサクソン。
吹き上がる火の粉。焚き火にドクドクと血液が掛かった。
ジュウ……という音を残して、炎は鎮火した。
そして訪れたのは闇。
「……幽鬼……だッ‼」
苦々しくその単語を吐き出すと同時に、マイクは無意識の内に腰から取り出した赤く輝く石を投げ付けていた。
〈月煌石〉――様々な効果を発揮する〈魔石〉の中でも、特に強い力を発揮する石だ。その破壊力は上級の冒険者にとっても切り札になり得るほど。
「滅せよ! 迷宮を彷徨う冥き亡霊めッ‼」
気合いの声と共に、月煌紅玉が爆ぜ、周囲が朱色一色に染まった。
強い放射熱がマイクの頬を焼き、ほとんど同時に巻き起こった太い火炎旋風が、漆黒の甲冑騎士の姿を飲み込んだ。
星ひとつない夜空に伸び上がった炎の竜巻。
天幕がその上昇気流に巻き込まれて吹き飛んだ。
真っ赤に色づいた周囲の景色を眺め、ポツリ。
「やったか……?」
マイクの身体から力が抜けかけた。
しかしその直後、驚愕が彼の心臓を鷲づかみにした。
禍々しい戦斧を肩に担いだ漆黒の甲冑が、火炎旋風の中からゆっくりと歩み出してくる姿が見えたからだ。
ゴクリとマイクの喉が鳴った。
「ば、かな……〈アーチデビル〉ですら燃やし尽くす、月の炎だぞ……」
敵は無傷だった。
ダンジョンの最奥で使用しようと密かに隠し持っていた彼の最も鋭い刃は、その紅蓮の竜巻から悠々と歩み出す死の権化には、なんの痛痒も与えられなかったのだ。
ゆらりと竜巻の横に立った幽鬼が、おもむろに小さな棒を取り出した。
小さな白い棒だ。
それを未だに燃え盛る月の炎に近づけると、続いて兜の口元に刺し込む。
マイクにはその行為の意味がまるで理解できない。
(な、なんだ……? なにをしている……?)
茫然と彼が見守る、その視線の先で、幽鬼の兜から突き出した白い棒の先端が赤く光った。
「いったい……何の儀式だ。冒険者を食い荒らす忌まわしき闇黒の亡霊め――」
マイクが絞り出した言葉の終わりを待たずして、漆黒の兜から白い煙が勢いよく吹き出した。
それは空中をゆっくりと拡散し、やがてマイクの顔を包み込む。
「まさか、デヴォーとサクソンの魂を食っている――⁉」
マイクは自身の妄想に慄いた。しかしその直後、彼の鼻が嗅いだのは煙たい匂い。彼もよく知るその匂いは――。
「……タバコ?」
度しがたい恐怖に囚われた。
マイクの戦意はその瞬間、喪失していた。
彼は弾かれたように後方に走った。
夜よりも暗い闇黒の中を、がむしゃらに走った。
デヴォーは背骨を引き抜かれ、サクソンは真っ二つに輪切りにされた。
赤子をひねるように殺された二人。彼らはベテランのA級冒険者だった。
(いくら幽鬼とはいえ、強すぎる!)
マイクは冒険者を二十年近く続けている。その長いキャリアの中で、一度だけ、別のダンジョンで幽鬼と対峙したこともあった。十人を超える冒険者で囲み、死闘の末に、かの亡霊をあの世に送り返したことさえも――。
しかし、先ほどの幽鬼は、何かが根本的に違う。
姿を見た瞬間に、心臓が縮み上がるほどのプレッシャーを感じた経験など、これまで一度もなかった。
(しかも月煌紅玉の効果が無いなんて事が……ありえん……!)
月煌石は上位の魔物や怪物に対しても有効打になり得る威力がある。即死は無理にしても、ダメージが入らないなどという話は聞いたことがなかった。
(月の炎を受けた後に、その火で悠然とタバコを吸うだと……? そんな馬鹿なこと……)
幽鬼は自我のない殺人鬼だ。
対峙したこの世の存在を全てを抹殺し、その魂を食らってダンジョンの中を徘徊するだけのモンスター。そのはずだった。
マイクの足が、濡れた地面の上で滑った。
無様に泥の上を這いつくばる。
しかし歯を食いしばり、顔を上げる。
(……奴はただの幽鬼ではない‼)
彼は経験豊富なベテランだ。冒険者という粗暴な印象に見合わず、マイクは長年にわたってモンスターに関する知識も地道に積み重ねていた。その知識量は並のダンジョン学者をも上回るほどだ。
そんな彼の豊富な脳内ライブラリから引き出されたのは、吟遊詩人が詠うおとぎ話や、英雄譚でしかその存在を知られていない、畏怖と共に語られる存在すら不確かな怪物の名前。
「まさか……まさか……」
彼の心は恐怖で凍えかけていたが、足だけは止めなかった。彼の中のベテランの矜持が怖じ気づきかけた肉体を鼓舞し続けている。
この事件を、自分が殺される前に本隊に伝えなければならないという、生粋のプロ根性だ。
死に物狂いで逃げながら、道具袋から震える手で巻き物を取り出す。大事な調薬道具が雨と泥で汚れてしまったが、もはやどうでもいいことだった。
どうせこれきりだ。
自分は生き残れない。
(知らせなくては)
(イルバーンに――)
不意にマイクの身体が浮いた。
ふわりと平衡感覚が失われ、直後に全身を襲った衝撃と共に息が詰まる。
胸を蹴り飛ばされた。
ゴロゴロと泥の上を転がされながらも、彼は灼熱の痛酷の中を藻掻き、巻物に記し続けた。
(統べる幽鬼が出たと、イルバーン達に……‼)
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