さよなら、彼方

緒方あきら

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さよなら、彼方(後編)

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 都子ちゃん、長谷川くん、南雲くん。
 彼らの存在によって、私の学校生活は少しずつ楽しいものへ変わっていった。
 都子ちゃんがバイトを休みな日には、南雲くんの発案で四人で駅前に遊びに行くこともある。誰かと外に遊びに行くなんて、私には想像もしたことがなかった。
 ある放課後は四人でダーツに行った。都子ちゃんはダーツの矢の投げるのが下手で、矢はあらぬ方向に飛んでいく。
「やーん、ぜんぜん的に当たらないー!」
「三島、あんまり腕を振り回さないでもっと肘を固定しろ。肘から先で投げるイメージで」
「そんなこと言われたってわかんないよ南雲くーん!」
 生まれて初めてのダーツ。南雲くんのアドバイスを受けながら私たちは一生懸命的に向かってダーツの矢を投げた。私や長谷川くんはだんだん的に当てられるようになったが、都子ちゃんはいつまでもほとんど的に当たることがない。
 でも、一回だけ的の真ん中に当たったときは、私の手を取って大喜びしていた。
 カラオケにも、初めて行った。
 都子ちゃんはアニメソングなのだろうか、可愛らしい声で可愛い曲を歌う。長谷川くんは緊張しながらぎこちなく、テレビで流れているのを聞いたことがあるような曲を。南雲くんは元気よく声を張っていた。
「ドールちゃん、どうして歌わないの?」
「私歌うのは苦手だから、皆が歌うのを聴いてるだけで楽しいよ」
「そんなん言わないで月城も歌えばいいのになぁ」
 マイクを勧められても、私は苦笑しながらやんわりと断った。私は今時の音楽がまったくわからない。お父さんとお母さんにCDプレイヤーは買ってもらっていたしパソコンもあったけど、ふたりが与えてくれたのは彼方が好きだった曲だけだ。
 つまり、当時最新のものだったとしても私たちが産まれてもいないころの音楽。いやいや何度も聴かされて覚えてしまったので、きっと歌うことは出来るだろうと思う。でもそれを歌うことが楽しいものではないのは、自明だった。
 ほかには長谷川くんの提案で、映画館に行ったりもした。
 都子ちゃんはアニメが見たい、南雲くんはアクションが見たい。長谷川くんは大人のドラマを描いた作品が見たい。
 なかなか見る作品が決まらなくって、三人に迫られて私が適当に見る映画を決めたりもした。それが意外に面白くて、映画を見終わったあと皆で盛り上がったり。そんな経験も楽しい。
「今まで知らなかったけど、なんかこういうのもいいね」
 映画館の帰り道、長谷川くんがポツリと言った。
「そうだね、私も初めてのことばっかりだけど、いいなって思う」
 頷き返し、皆で駅の前まで歩く。電車はそれぞれ乗る方向や路線が違っていたので、駅前で遊ぶときはいつもここで解散だ。皆で手を振り合って別れる。家に帰りたくない。彼方のことではなく、友達と離れる寂しさからそう思うのも新鮮な驚きだった。
 ただ、私たちも遊んでばかりはいられない。何と言ってもお金には限りがある。都子ちゃんは新しいお人形を迎えるために貯金だってしているのだし、私も本の出費は抑えられても診療代はどうにも出来ない。
 予算が乏しくなってきたときは、南雲くんの家にお邪魔して勉強会をしたりもした。
 と言っても学力には大きな差があるので、私と長谷川くんは教師役。都子ちゃんと南雲くんが生徒役である。こういうことは、長谷川くんが活き活きとしてやった。必要とされてることを実感出来るのだろう。
 南雲くんのお母さんは親切な人で、やってきた私たちを歓迎してくれて、ジュースやお菓子を出してくれた。「南雲くんのおうち、暖かいねぇ」都子ちゃんが南雲くんのお母さんが部屋を出ていくのを見て、しみじみ呟いた。
 屈折が呼び合っている、その思いは私の中で今も消えていない。
 だけど、それは決して悪いことではないんじゃないかとも思い始めた自分がいる。
 壊れかけの家が、互いに支え合ってなんとか建っているようでもあった。でもそれが不快じゃない。ふと寄り掛かりたくなるような、安心する暖かさがあるのだ。
 モノクロだった世界に少しずつ色を足していくような充足感が、私を包み込んでいた。

 楽しい四月はあっという間に過ぎ去り、ゴールデンウイークで学校も長期休暇となった。
 私にとっては、家にいる時間が長くなってしまう憂鬱な期間であった。
 それに、ゴールデンウイーク最終日は私の誕生日……つまり彼方の誕生日なのだ。毎年バースデーには彼方の思い出が詰まったアルバムを食卓に広げ、お父さんとお母さんはまるで私がいないかのように彼方の思い出を語り合う、苦しい時間。
 ただ、ほんの少しだけ――期待のようなものがあった。
 私は今度のバースデーで十六歳になる、つまり彼方の年齢を追い越すのだ。
 今までずっと背負ってきた彼方の面影。彼方が到達出来なかった年齢になることで、これまでの置いてけぼりにされるような慣習が、もしかしたら変わってくれるのではないかという淡い思い。
「きっと、今までと何かが違ってくれるよね……」
 休みの間、私は何度も枕を抱えてはそう呟いた。

 誕生日の日がやってきた。
 毎年この日の朝と昼は変わりなく過ごす。夜にお父さんがケーキを買って来て、お母さんが手の込んだ料理を作り、私を、いや彼方のバースデーを祝う習慣になっていた。
「お父さん、お母さん、おはよう」
「あら、おはよう。アンタ早いのね」
「おお、もう起きたのか。休みの日くらいゆっくりしてもいいんだぞ」
 お父さんもお母さんもどこかぎこちない。いつもよりソワソワとしている。ふたりにとっても今日は特別な日なのだろう。私には嬉しい気持ちは微塵もなく、ただ胸の中が緊張で張りつめてしまいそうだった。
 三人揃っての朝食は、いつも大した会話はない。昼食もそうだ。時折彼方がしないようなことをすると、お母さんが目ざとく見つけて注意してくるくらいである。
 今日は、それすらなかった。
 いつまでも終わらないのではないかと思われた昼もすぎ、窓の外は夕暮れに染まっていく。お母さんは料理の準備で忙しくしている。私には手伝うほどの心の余裕はない。やがてお父さんが「ちょっと出かけてくる」と言って外出した。ケーキを買ってくるのだろう。
 そうしてバースデーの夜が訪れた。
 テーブルにはお母さんの自慢の料理たちが並ぶ。お父さんとお母さんが並んで座り、向かい合うように私が座った。左どなりは空いている。彼方の席だ。食器はまるで四人いるかのように、四つの席に揃えられてた。
「いただきます」
 お母さんは料理が上手だ。けれど今の私には味さえろくにわからない。
 これからどうなるのだろうと思いながら過ごす夕食の時間が長かった。食事を終えるとお母さんが「あなた、そろそろ……」とお父さんに声を掛けた。ふたりが席を立ち、お母さんは彼方の写真が詰まったアルバムを持ってきた。
 毎年、この瞬間がとてつもなく嫌いだった。お父さんとお母さんが彼方しか見ていないことを、目の前でありありと実感しなくてはならない。だけど、今年はどうなのか。
 お父さんが冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
「よし、バースデーのお祝いにしよう」
 お父さんが私に向けてニッコリと笑った。お母さんの顔にも笑みが浮かんでいる。
 お父さんの手がゆっくりケーキを取り出すのを、私は固唾を飲んで見守った。
 ケーキが取り出される。
 私は、息を飲んで絶句した。
 ケーキの上にはチョコのプレートに『happybirthday 彼方』と書かれていた。
「いやぁ、とうとう彼方も十六歳を迎えることが出来たんだなぁ」
「本当に、本当に長かったですねお父さん。ああ、彼方、おめでとう」
 お父さんとお母さんが目に涙を浮かべ、感極まっている。私の心の中に、今まで経験したことがないほどの凍てつくような冷たい風が吹いた。
 これは、私のバースデーじゃない。
 ずっとずっと十五歳で止まっていた彼方の時間が再び動き出した、祝いの瞬間なのだ。
 ――彼方の年齢を越えれば、お父さんとお母さんは私を見てくれるかもしれない。
 そんな微かな期待は一瞬にして打ち砕かれ、どうしようもない現実がナイフで胸をえぐるように突き刺さってくる。
「ろうそくもな、十六個貰ってきたんだ。一緒に立てよう」
「素敵ね、これからの門出にぴったり。じゃあ、火をつけて……と」
 白いクリームがふんだんに使われたホールケーキに、十六個のろうそくが立てられていく。お父さんがゆっくりと火をつけていった。ろうそくの火が揺らめいている。ううん、私の視界が歪んでいるのかもしれない。
 息が詰まって苦しい。どうしようもない悲しみが今にもあふれ出しそう。
 この場所にいる一刻一刻が、私を彼方という凶器で傷つけていく時間。
 ろうそくに点火を終えたふたりの眼が、いっせいにこちらを向いた。まるで見知らぬ人のような眼だ。あの眼には、私なんか映っていない。見えているのは彼方の幻影だけ。
「ほら、アンタ。ろうそくの火を消しちゃいましょうよ」
「そうだぞお前、早くしないと溶けたろうがケーキについてしまうだろう」
「あ……う、ん……」
 思うように言葉が出ない。うまく呼吸が出来ない。
 心は冷え切っているのに、胸の中を動悸が駆け回る。
 視界が暗くなり、手と足の先が痺れたようになって思うように動かなかった。
 これからずうっと、お父さんとお母さんは彼方を見続けるのだ。十六歳になった彼方、十七歳になった彼方。成人になった彼方。社会に出ていく彼方。
 彼方、彼方、彼方、彼方。
 私は彼方から、一生逃げることは出来ない。
「どうしたんだお前、ほうけた顔をして。はやく火を吹き消さないか」
「もう私たちで消しちゃいましょお父さん。せーっの」
 ふたりが息を揃えてろうそくの火を消していく。ケーキは当たり前のように四つに取り分けられ、誰もいない私のとなりの席にプレートの乗ったケーキが置かれた。ふたりは嬉しそうにアルバムをめくりながら、ケーキを食べ始めた。
 もう、ここには居たくない。
 ふらつく足取りで、私は立ち上がった。
「なんだお前、まだケーキが残ってるだろ」
「そうよ、アンタねぇ。お祝いなんだからしっかり食べなさいよ」
「ご、めん。おなか、いっぱいになっちゃって」
 必死に声を振り絞って答えると、力の入らない身体をなんとか動かしてリビングを出た。壁に手をつきながら階段を昇り自分の部屋に入る。ベッドに横たわると身体中がどうしようもなく震えていた。
「いっそ、私の名前も彼方にすればよかったのに」
 そうすればふたりの歪んだ想い――壊れきった妄想も、愛情と錯覚することが出来たかもしれない。ほんのわずかでも、お父さんとお母さんの視線の先に私を見つけ出せたかもしれないのに。
 この呪縛からは、一生解き放たれることはないだろう。
 淡く微かな期待を込めた大切だったはずの一日は、どうしようもなく苦しい現実を突きつけられて終わろうとしている。
 私は眠ることも動くことも出来ないまま、長い長い夜に震え続けた。

 朝日が昇っても、私の胸に空いた大きな穴は少しも塞がることはなかった。
 なんとかベッドから身体を引きはがし、よろよろとした足取りで立ち上がる。制服に着替えて、眩暈にこらえながら一階のリビングに降りた。
「ちょっとアンタ! 髪型違うでしょ!」
「リボンも曲がってるぞお前、彼方はそんなことなかったはずだ」
 お母さんの手が私の髪と首元を動く。湧き出してくる怖気をなんとかこらえた。
「朝ごはん、いらないから」
 短く告げて、お弁当も持たずに家を出た。お母さんの何か言っている声が聞こえたが、相手にする余裕はない。電車の中でも目を閉じて、トンネルを通り抜けるのをじっと耐えた。
 いつもより早く到着した教室で、長谷川くんが心配そうに声をかけてきた。
「おはよう月城さん、顔色悪いよ。どうしたの?」
「長谷川くん……、うん、ちょっと体調が優れなくって」
「保健室行く? 連れていくよ」
「平気、ちょっと座ってゆっくりしてるね」
 登校するだけでひどい疲労感に包まれている。学校に来れば少しは気持ちが晴れるかと思ったが、私の心は依然として冷たく重い鉛のようになったままだった。
「よーぅ、月城。なんだぁ、暗い顔してんな」
「おはよ、ドールちゃん! あれ、何かあったの? なんだか辛そうだよ」
 南雲くんや都子ちゃんにも心配されてしまい、私はなんとか微笑みを作って首を振った。
 授業が始まる。今までのように勉強に没頭することが出来なかった。自分の中にいる何かが、いつまでも声をあげ続けているように思える。自分自身のことなのに、その声はどうしても聴きとれない。
 昨夜から、何もかも重苦しい靄に包まれてしまった気がしてならなかった。
「あれ、ドールちゃん今日お昼ご飯は?」
 昼休み、都子ちゃんと机を並べたときに私が何も食べないことに彼女は首を傾げた。
「お弁当、忘れちゃって」
「そうなんだ、じゃああたしのパン半分あげるね!」
 好意を断りきれず、私は味のしないパンをなんとか咀嚼して飲み下した。放課後になると、いつものメンバーが私の席の周りに集まって来た。
「なぁなぁ、今日もどっか遊びに行こうぜ」
「あたしも今日はバイトお休みだから、さんせーい!」
「委員会があるんだけど……まぁいいかな」
「おっ、学級委員長がサボりかぁ」
「たまには息抜きだよ。ね、月城さん」
 長谷川くんに声を掛けられ、私は短く「そうだね」と返した。とても遊びに行けるような心理状態じゃなかったけど、家に帰るよりはずっと良い。
 メンタルクリニックに行くという方法も考えたけれど、昨日の出来事を話せば小園先生は両親を呼べと言うに違いなかった。そういう選択肢が無いわけではないけれど、今の私にお父さんとお母さんを病院まで引っ張っていく気力は無い。
 そして、彼らは先生に何を言われたところで決して変わることもないだろうとも思う。十五年以上、現実から切り離された妄執の中で生きてきた人たちなのだ。
 もうすぐお人形を迎えられそうだという都子ちゃんの予算を考えて、私たちはファーストフード店でおしゃべりをすることにした。
 会話が頭に入ってこなかった。私はほとんど発言はせず、何か意見を求められると曖昧に笑って頷くことを繰り返した。
「やっぱ、なんか元気ないな月城」
「月城さん、まだ体調良くないの?」
「ううん、だいじょうぶ。心配かけてごめんね」
「ドールちゃん、何かあったらいつでも言ってよね、あたし相談に乗るから!」
 私に気を遣ってくれたのか、その日は早めの解散になった。
「俺、月城をチャリで送ってくわ」
 南雲くんの申し出をなんとなく受けて、長谷川くんと都子ちゃんと駅前で別れて自転車に腰掛けた。「いくぞ」という南雲くんの声に合わせて自転車が動き出す。あれほど心が躍ったトンネルの下り坂さえも、今も私には何も感じることが出来ない。
 ようやく色付き始めた私の心は、すっかり白黒に――いや真っ黒になってしまった。
 南雲くんと別れ帰宅して、夕食の席につく。なんとか詰め込んだ夕飯を、トイレですべて吐き戻してしまった。身体が何も受け付けようとしない。お風呂を出るとベッドに倒れこみ、昨日飲まなかった分の睡眠薬も併せて飲んで、無理やり眠りの中に逃げ込んだ。

 翌朝、睡眠薬が少し残った重い頭を持ち上げてベッドを出る。制服に着替えて、相変わらず重い気持ちのままリビングに向かった。いつものトーストの香りがしない。
 リビングに入りそのままキッチンを覗いて見ると、冷蔵庫のそばでお母さんがしゃがみこんでいた。
「お母さん、どうしたの?」
「ちょっと……体調が優れなくて……」
「えっ、だいじょうぶ!? お父さん!」
 私がお母さんの背中をさすりながら大きな声でお父さんを呼ぶ。ネクタイを結びかけたままのお父さんが「なんだ、大きな声を出して」と言いながらキッチンを見て顔色を変えた。
「母さん、どうしたんだ? 顔色も悪いし、震えているぞ!」
「あなた、なんだかお腹が痛くて。いつもの腹痛と違うの、捻じれるような痛みで……」
「お父さん、救急車呼んだ方がいいんじゃ……」
「救急車が来るまで待てない。俺が車で運ぶから、お前も来なさい!」
 お父さんが車のキーを持って家の前に駆けていった。私はお母さんを支えながら、玄関に向かう。ドアの前まで車を運んできたお父さんが、後部座席にお母さんを横たえた。
「小さな病院じゃダメだな、総合病院……三十分くらいかかる。母さん、耐えてくれ」
「お母さん、しっかりね!」
 運転席のお父さんと助手席に座った私が言うと、お母さんは力なく言った。
「あなた、彼方……迷惑かけてごめんなさいね」
 一瞬、息が詰まった。
 頭をもたげてくるようなネガティブな感情を抑え込み、頷き返す。
 車が走り出す。お父さんは一刻も早く病院に向かうべくスピードをあげていく。やがて、総合病院に着くと緊急搬送口の近くに車を止めて、お父さんがシートベルトを外した。
「病院の人に事情を話して来てもらう、待ってろ!」
 走っていったお父さんは、すぐに数人の病院スタッフと戻って来た。お母さんが担架に乗せられて運ばれていく。私たちは車を駐車場に止め直してお母さんの後を追った。お母さんはすでに検査を受けているとのことで、私たちは待合室に腰掛ける。
 どれほど待っただろうか、私たちは医師に呼ばれて診察室に入った。
「腸閉塞ですね、緊急の手術が必要です」
 担当の医師は、白い電光板に張り付けた検査写真を指さして言った。
「腸閉塞で、緊急の手術ですか?」
 身を乗り出して聞くお父さんに、医師が写真を指でさしながら説明する。
「はい、腸閉塞です。普通の腸閉塞であれば、絶食後点滴をしてから然るべき処置をして対応していきます。しかし奥様の症状は『絞扼性腸閉塞』と言いまして少々厄介なものなのです」
「厄介、と言いますと?」
「普通の腸閉塞の場合、文字通り腸が閉塞してしまうだけなのです。が、この絞扼性腸閉塞は腸が詰まるのと併せて、腸の血行まで阻害されてしまうのです。放置すると腸が腐ってしまい大変危険なのです」
 医師の言葉に、お父さんはがっくりとうなだれた。
「そんな……妻に限ってなぜそんな病気に……」
「安心してください。すぐに手術が必要な状態ではありますが、手術自体はそれほど難しいものではありません。この写真から見ても開腹する必要はなく、内視鏡手術で対応出来るでしょう」
「では、とにかく一刻も早く手術を! お願いします!」
 お父さんが早口でまくしたてる。医師は落ち着いて書類をいくつか出した。
「手術の同意書と、緊急時の連絡先を書く書面になります。診察室を出たらすぐにこちらにサインを頂き、提出をお願いします。我々も支度を整えて手術室が空き次第オペを開始します。どうかご安心を」
 医師に促され、私たちは頭を下げて診察室を後にした。待合室の机で、お父さんが手早く書類に手術に同意する旨と名前を記入していく。
「緊急連絡先の二人目は、お前の名前と番号でいいな?」
「うん、もちろん」
 そういうと、お父さんが私の電話番号を書いて、連絡先の空欄に『月城彼方』と書いた。抑え込んでいた気持ちに、いきなり何本も刃物を差し込まれたような衝撃。
 余裕がない時こそ、人の本性が出る。
 車の中で彼方の名を呼んだお母さん。連絡先に彼方の名を記すお父さん。
 これが、現実か。痛みは少しずつ麻痺して行き、失望と諦めが綯い交ぜになった分厚いカーテンが胸の中を覆っていく。
 部分麻酔を受けてどこか虚ろな表情のお母さんが手術室に運ばれていく。私たちは手術室横にある親族の待合室に通され、黙って手術が終わるのを待っていた。いつの間にか、時間はとっくに正午を回っていた。
 やがて手術中と記された赤いランプの光が消え、ベッドに横たわったお母さんが運ばれてきた。
「母さん!」
 お父さんが駆け寄る。私もそれに続いた。お母さんは力なく笑って「あなた、彼方、心配かけたわね」と言うと集中治療室に運ばれていった。
「手術は成功です、あとは数日の経過観察の後、問題なければ退院出来るでしょう」
 オペを終えた担当医がお父さんに告げると、お父さんは医師に何度も頭を下げた。私は自分が自分でなくなってしまったみたいで、なんとか身体を動かすだけで限界だった。
 書類を提出し入院手続きも終え、私とお父さんは家に戻った。車は玄関の前に出したままだ。お母さんの入院中の着替えなどを用意して、お父さんが再び玄関に向かう。
「俺はもう一度病院に行かないといけない。荷物も届けなきゃだし、色々することがあるから。お前は適当に食事を済ませておいてくれ、何かあったら連絡する」
 早口に言ったお父さんが、車に乗って去っていく。
 お母さんの手術が成功したことより、家にお父さんとお母さんがいないことが気楽だった。そんな風に感じてしまう自分に、嫌悪感を覚える。だけど、私の心はもう悲鳴さえあげられないほどに弱り切っていた。
「お父さんの書いた連絡先は月城彼方。お母さんの言葉は彼方に向けられたもの」
 この家に、この家族に、私はどこにもいない。
 どうしてこうなってしまったのか。どうしてここまでに至ってしまったのか。
 ふらつく足取りで部屋に戻ると、ふと姿見に自分の顔があった。疲れ果てた表情をしている、すべてを彼方に似せられた顔。
 髪型から服装、リボンの付け方、喋り方、仕草、習い事、趣味――。
 何もかも、彼方になぞらえて作られたもの。私であり、私ではないもの。
 私は、代替品なのだ。だけど――。
「私はそれを、拒めなかった……」
 幼少のころから、ずっとお父さんとお母さん……あの人たちは彼方を作って来た。私もまた、あの人たちの期待に応えようとどこかで思って、だから反抗することもなく、何もかも受け入れて。
 そのうちに、自分が何者かもわからなくなって。
 私の趣味はなんだろう。私の好きなことって何。私の好物はあっただろうか。
 私の、私の、私の――。
「受け入れたのは、私だ……」
 あの人たちは、彼方の死が受け入れられず彼方の代わりを作った。そして、私は代わりとして作られたことに暗い気持ちを抱きながらも……何一つ拒むことなく受け入れた。
 私に最も彼方の幻想を抱いたのがあの人たちだとすれば。
 私こそが最も彼方に取り憑かれていたのではないか。他の誰でもない、私こそが。
「私は、私は……」
 姿見を、思い切り殴りつける。大きな音を立てて姿見が倒れ、割れた破片がそこらじゅうに飛び散る。手の甲が裂けていたが、痛みなんて感じはしなかった。
 私は抜け殻だ、彼方を詰め込まれた抜け殻に成り下がっていたんだ。
 それを、受け入れてしまっていた。十六年の間ずっと、ずっと。
 そしてもう、どこにも元の私が生きれる余地なんてないのだ。
 不意に、ベッドの枕元に置きっぱなしであったスマートフォンから振動音が聞こえた。
 歩み寄り、手を伸ばす。着信画面には、都子ちゃんの名前があった。
「もしもし」
『もしもし、ドールちゃん! 今日は学校来なかったけど何かあったの?』
「ううん、なんでもない。なんでもないの。ちょっと、サボっちゃった」
『ホントに? ドールちゃんでもサボっちゃったりするの?』
「うん、たまにはね。心配かけてごめんね」
 良かったぁ、と呟いた都子ちゃんの声色が、明るいものに変わる。
『サボっただけだったらさ、ちょっと聞いて欲しいことがあるの!』
「どうしたの都子ちゃん、なんでも言って」
『えへへ、あのね! あたしついに新しい子をうちにお迎えしちゃったの!』
「新しいお人形を? よかったね都子ちゃん」
『うん、これから新しい我が家の一員だよー! はやく名前も考えてあげなくちゃ!』
 家族。一員。名前。羨望が、乾ききった胸をよぎる。
「ねぇ、都子ちゃん。良かったらそのお人形、『ハルカ』って名前にしてくれない?」
 思った時には、言葉に出していた。止めがたい思いが、あふれ出している。
『えっ、ドールちゃんの名前を? いいの!?』
「私がお願いしているの。よかったらで、いいんだけど……」
『もちろんだよ! ドールちゃんの名前、嬉しいなぁ! あなたに名前が出来たよ、ハルカ! あたしのとっても大切な友達の名前! よろしくねハルカ!』
「ありがとう、都子ちゃん」
『こっちこそありがとう! すぐにハルカの写真送るから、待っててね』
 通話が切れる。ほとんど待つこともなく、メッセージアプリに写真が送られれてきた。
 黒く長い髪の、整った鼻筋のお人形だ。目が大きくて可愛らしい。人形を抱きしめる、都子ちゃんも一緒に写っていた。
 この子なら、きっといつまでも大切にハルカを愛してくれるだろう。
 ――良かったね、ハルカ。あなたをきちんと見てくれる人が出来たんだよ。
 ――良かったね、ハルカ。あなたにも、素敵で大切な家族が出来たんだよ。
 それならもう……こんな抜け殻とはお別れしてもいいよね。
 両親の部屋に行き、裁縫箱の中から大きな裁ちばさみを取り出した。彼方の思い出が詰まったアルバムが、ふたりの枕の間に置かれている。それも手に取った。
「こんなもの、もう必要ない」
 部屋に戻ると、私は彼方のために与えられて来た衣服をすべてバラバラに切り裂いた。
 様々な模様や彩りのあった服は、次々とただの布切れに変わっていく。
 ハサミとアルバムを持ったままキッチンに降りる。ガスコンロの前に立ち元栓を開けて、火力を最大にしてコンロを点火した。
 熱が私の頬にまで感じられる。アルバムを掲げ、そっと燃え盛る火にかざした。
 ゆっくりと、アルバムの隅っこが黒ずんでいく。やがて端から火があがると、見る間にアルバムが炎に包まれていった。ガスコンロの上に、炎をあげているアルバムを置いた。
 裁ちばさみをとり、私は自分の後ろ髪を思い切り掴み上げ、切り捨てた。
「お父さんお母さん。私もう、彼方を終わりにするね」
 彼方そっくりに作り上げられた髪型の残滓を、アルバムの上から炎にくべる。
 黒煙が立ち上る。目と喉が痛む。頭も軽くなってしまったようにふらついた。
 それでも私はじっと、アルバムと髪の毛が灰になるのを見届ける。
 これでもう、終わり。だから――
「さよなら、彼方」 
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