さよなら、彼方

緒方あきら

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さよなら、彼方(中編)

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 翌朝、代わり映えのない朝食を済ませ見飽きたお弁当を持って学校に行く。
 教室に入ると、さっそく長谷川くんがやって来た。
「おはよう、月城さん。あの、調子とかどう?」
 軽く右手で自分の胸を指すようにして、声を潜めて聞いてくる。
「おはよう長谷川くん。私はいつも通りよ、気にしないで」
「ならいいんだけど。何か異変があったらいつでも言ってよね、話聞くし」
「ええ、ありがとう」
 適当に長谷川くんをやり過ごして席に着く。少し面倒な人に知られてしまったなという思いがあった。長谷川くんは私の視線に気付いてもいないようで、ほかの生徒に話しかけている。
 今まで気にしたことはなかったが、長谷川くんは色々な人に話しかけていた。南雲くんのように挨拶をして回るようなものとはちょっと違う。何か問題がないかとか、きちんと宿題はやってきたかなどまめまめしく聞いている。
 ――お節介焼きな人なのかな?
 それならそれでいい。私だけが特別扱いされていないのであればよいのだ。ただ、そのよく動く口が私が通院している場所を誰かに漏らさなければ、だ。一度、きちんと話をする必要があるのかもしれない。
「月城、おはよーさん」
「ドールちゃん、おっはよー!」
 長谷川くんを視ていると、南雲くんや都子ちゃんが登校してきた。南雲くんは挨拶だけして去っていくが、となりの席の都子ちゃんはそうはいかない。都子ちゃんの話の相手をしつつ、その日私は長谷川くんを観察し続けていた。
 彼は常に誰かを気にしているようだ。もっと言えば、困った人を探しているようにも見える。学級委員長としての使命感だろうか。とはいえこれは私が考えたところで答えの出るものではない。
『話したいことがあるから、時間作れる?』
 昼休み、私はメッセージアプリを起動させ、連絡先を交換したばかりの長谷川くんにメッセージを送った。すぐに返信が来る。『わかった、なんとかするね』と書かれていた。
 放課後、都子ちゃんと別れてから長谷川くんに連絡を入れた。資材室に来て欲しいとの返信があったので、校舎の階段を昇り三階の資材室に向かう。
 わずかに日が傾き始めた陽光が、白い廊下にオレンジ色の影を落とす。突き当たりにある資材室に向かいながら、夕暮れ色の地面を歩いて行く。私の影がスイスイと廊下を動いていった。
 資材室のドアに手を掛ける。カギは開いていて、ドアはすぐに開いた。ごちゃごちゃに資材が積み重なった、殺風景な部屋。机に椅子がふたつ並んでいて、その片方に長谷川くんが座っている。私を見ると彼は立ち上がった。
「あっ、月城さん。ごめんね、こんなところに呼び出して。ここなら放課後は誰もいないから、話もしやすいと思ったんだ」
「そう、人がいないのは良いわね。こっちこそ急にごめんなさい」
「とりあえず、座ってよ」
 長谷川くんが椅子を勧める。私が腰を掛けると、向かい合うように彼も座った。
「それで、話って? この間のことかな、あの、精神病院の……」
「半分はそのこと。精神病院じゃなくて、メンタルクリニックね」
「ああ、うん。メンタルクリニック」
 実際のところ、呼称の違いに意味などない。ただなんとなく、精神病院という大げさな響きは余計に長谷川くんを心配させるだけだろうと思い訂正しただけだ。
「あの時もお願いしたけど、メンタルクリニックに通っていることは誰にも言わないで欲しいの」
「それはもちろんだよ、月城さんがそう望むならそうする。約束するよ」
「改めてお願いするわ。それと、長谷川くんも変に心配しないで今まで通りに接してくれると嬉しいんだけど」
「でも、それで月城さんは平気なの?」
 心配そうに私の顔をのぞき込む長谷川くん。その眼には好奇心とは少し違うと思うけれど、おかしな輝きがあるように思えた。
「私は平気。今までだって普通だったでしょ」
「そうだけど、ああいう場所に通ってるってことはさ」
「もう通い始めて二年になる、安定しているの。変な噂が立っちゃったら、その安定も失いかねないからこうして頼んでいるの」
「なるほど、わかったよ。でも何かあったら言ってね、いつでも力になる!」
 そう言う長谷川くんの表情は、むしろ私に頼られることを願っているように見える。面倒だけど、もう少し彼を安心させたほうが得策かもしれない。
「メンタルクリニックってね、少し特殊な場所なの。長谷川くんだって、風邪くらいひくでしょ?」
「風邪? それはもちろん、たまにはひくよ」
「メンタルクリニックってね、心がちょっと風邪をひいちゃっただけの人から、すごい傷を負っている人まで通う場所なの。普通の病院だと、町医者にかかって手に負えないと大病院に回したりするけれど、それを全部担っている部分がある」
 言葉を切って長谷川くんの顔を見る。彼は続きを促すように頷いて見せた。
「私の場合はただの風邪。しょっちゅう風邪を引いちゃうから時々あそこに通っているだけなの。だから過度の心配はしないで。心配され過ぎる方が、むしろ負担になっちゃう」
「心配し過ぎが、負担に。そっか、そうなんだね、色々ごめん」
 言い繕いはこれで充分だろう。頭を下げた長谷川くんに「いいの、ありがとう」と告げた。私を覆っている彼方という存在の呪いを話す気はなかった。
 もうひとつ、出来れば知っておきたいことがある。長谷川くんの、病的とも取れる心配性とお節介な一面だ。学級委員長だから、と思ってみたけれど、一日彼を観察していると順番が逆かも知れないと感じたのだ。
 お節介をしたいから、学級委員長になった。そう考える方が自然なように思える。
「長谷川くんはさ、なんで誰もやりたがらなかった学級委員長になったの?」
「それは、誰かがやらなきゃいけないかなって思って」
「でも長谷川くんはあの時自分から率先して立候補したよね?」
「新しいクラスだったし、きっと引き受ける人なんていないと思ったんだ」
 メガネの向こう側で、長谷川くんの眼がせわしなく動く。
「新しいクラスでもやりたい人はいたかもよ、長谷川くんみたいにね」
「そう言われても、困っちゃうよ」
「長谷川くんは学級委員長になりたかった、委員長になってクラスの皆の御世話をしたかった。違うかな?」
 長谷川くんは驚いたように息を漏らし、開きかけた口を慌てて閉じた。メガネに手を掛けて、落ち着きなくいじっている。私がじっと見つめると、視線を逸らして手で口を覆う。
「……なんでバレちゃったかな、そんなこと」
「今日一日、長谷川くんのことをよく見ていたから」
「月城さん、観察眼が鋭いんだね。びっくりした」
「自分の秘密を知られた相手のことだからね、注意深く見ていたの」
 カマを掛けてみたつもりだったけれど、やっぱり何かわけがありそうだ。私がこれ以上踏み込むべきかどうか迷っている間に、長谷川くんが口を開いた。
「役に立ちたかったんだ。どんな形でもいいから、誰かに必要とされたかった」
「それで、色んな人に話して歩いていたの?」
「うん。困っている人がいたら、手を差し伸べられるように」
 悪意はないのだろう。けれどそれが良いことだと、私にはどうしても思えない。
「本当に困っている人は、差し伸べられた手を振り払うことも出来ない。そんな人が長谷川くんの手を握ったとき、長谷川くんに何が出来るの? どこまで責任を持てる?」
「出来ることは何でもやるつもりだよ、僕は必要とされたい」
「そう」
 ――あなたが私に何を出来るって言うの?
 その言葉を飲み込んで私は頷いた。彼がやりたいということに水を差す必要もない。それに彼の不思議な使命感は、実際に誰かを救う可能性だってあるのだ。話を切り上げるかと思ったけれど、長谷川くんは動かない。まだ何かあるのだろうか。
「うちはさ、出来の良い姉がいていっつも比較されるんだ。お前はダメだって毎日のように言われている。姉のようになれ、もっと勉強しろって。でも、どんなに僕が頑張っても勉強もスポーツも姉にはかなわない。明るい、愛される性格にもなれない」
 下を向きながら、長谷川くんが呟くように言葉を紡ぐ。堤防が決壊したように、その言葉は流れ続けていく。
「自分の存在がわからなくなったんだ。でも誰かに必要とされれば、こんな僕でも居ていいってことになるんじゃないかって思って。学級委員長になって、皆に頼られ始めたらその思いがもっと大きくなって行って、必要とされることが嬉しくって」
「そうだったんだね。つらいね」
 長谷川くんの病的な世話焼きは、家庭内で置かれた立場からきているものなのか。家に身の置き所がないこと、それに伴う自己肯定感の欠損。その感覚に多少の共感は覚えたけれど、私は出来るだけ寄り添わないようにした。
「話してくれてありがとう。時間も遅いし、私もう帰るわ」
「月城さん、今言ったことは皆には話さないでいてくれる?」
「いいわ、お互い様ってことで。それじゃあ長谷川くん、また明日」
「あの!」
 立ち上がった私の背中を、長谷川くんの声が追って来た。
「言われた通り、月城さんのことを特には心配はしないけど……普通にクラスメイトとして、これからも話しかけて良いかな?」
「ええ、もちろん。これからもよろしくね、長谷川くん」
「うん、ありがとう。こちらこそよろしく」
 弱弱しく微笑んだ長谷川くんに今度こそ背を向けて、私は家路についた。帰り道、何度か資材室で交わした会話を反芻してみる。これからも、長谷川くんは恐らく私を多少は特別扱いして接して来るだろう。
 屈折と屈折が呼び合っている。
 それでも構わなかった。彼が余計なことを言わなければ、それでいい。それだけのことだ。家の前に着いた。私は一度深呼吸をして、憂鬱な気持ちでドアノブに手を伸ばした。

 翌日から、長谷川くんは余計なことは言わなくなった。心配そうな眼は相変わらずだが、挨拶と他愛ないおしゃべり以外は特に言葉も交わさない。周囲には少しだけ仲良くなった、程度にしか映らないだろう。
「ねぇドールちゃん、今日あたしの家に遊びに来ない?」
「都子ちゃんの家に? いいの?」
「うん、ドールちゃんにあたしのコレクションとか見て欲しいし!」
 都子ちゃんの突然の誘いに戸惑ったけれど、結局学校が終わったら彼女の家に行くことにした。帰宅時間さえ遅らせられるなら、することはなんだっていい。それに都子ちゃんの部屋に興味がないこともない。
 いつもふわふわとしていて明るい雰囲気を振りまく都子ちゃんの家だ。きっと楽しいところなのだろう、とも思える。
 授業を受け、都子ちゃんとお昼を一緒にして、長谷川くんや南雲くんとどうでも良い話をしているうちに放課後になった。都子ちゃんはニコニコとしている。
「じゃあ行こうか! あたしの家、学校から一駅だから」
 連れ立って駅まで歩く。電車に短い間乗り、駅からまた歩く。駅前は少し賑やかだったが、少し進めば閑静な住宅地が並んでいた。都子ちゃんが「ここだよ!」と指さした場所は、まだ建てられてそれほど経っていないだろう小奇麗なアパートだ。
 白く塗られた壁面に、銀色の郵便受け。清掃は行き届いているようで清潔に見える。
 階段を昇り、二階にあがって目の前のドアに『三島』と書かれた表札があった。
「ちょっと待っててね」
 都子ちゃんはドアにカギを差し入れ回し、奥にひとりで入っていった。少ししてドアから顔を覗かせた都子ちゃんが、口元に人差し指を当てながら私を手招きする。
 首を傾げながら玄関に入る。静かにするように言われているので、お邪魔しますとも言えず無言で上がり込むことがちょっと気になった。
 都子ちゃんの家に入ると、右手側に廊下が、左手側にバスルームに続くであろうすりガラスの戸が見えた。真正面はリビングとキッチンで、リビングの机の上にはアルコールの缶が錯乱していた。缶に埋もれるようにして、テーブルに突っ伏して女性が寝ている。
 都子ちゃんに袖を掴まれた。手を引かれるような形で廊下をそろりと歩き、奥の部屋に通される。部屋に入りガチャンと内カギを閉めると、都子ちゃんがふぅっと息を吐いた。
「ごめんね、びっくりしたでしょ。うちのお母さん、お酒が好きでさ」
「ちょっとびっくりしたけど、平気だよ」
 お酒好き……とてもそう言うレベルのものには見えなかったけれど。
 人の家の事情を深く考えるのはやめにして、都子ちゃんの部屋を見渡した。四方にぬいぐるみが並べられており、壁紙も可愛らしい薄ピンク色。いかにも女の子らしい部屋だ。高校生の部屋と考えれば、少しだけ幼い印象かもしれない。
「人形やぬいぐるみが好きとは聞いていたけど、こんなにいっぱいあるんだね」
「えへへ、いいでしょ。あたしはいつもこの子たちと一緒なんだよ」
 白い歯を覗かせて、都子ちゃんが微笑んだ。
「この子たちが居れば、あたし家でひとりでも寂しくない、怖いこともない」
「ひとりって、さっきの人、お母さんなんだよね?」
「うん。でもお母さんは家に居る時はお酒を飲んでることが多いし、しょっちゅう出かけてるんだ。もちろん仕事もしてくれてるんだけど、それ以外も」
「そう、このぬいぐるみたちが都子ちゃんを守ってくれるのね」
「そういうこと!」
 彼女がいつも昼食はコンビニのパンだったことを思い出す。お母さんが買ってくるのか、自分で買って来ているのか。手料理とは無縁そうなキッチンとリビングを思い出し、私のお弁当を羨んでいた彼女の気持ちがわかった気がした。
 都子ちゃんは私を部屋に呼ぶことが出来て喜んでいるようだった。いつも以上にニコニコしている。ただ、目にはどこか怯えの色があるように思える。
「あ、いけない。あたしったら飲み物も出さないで。ちょっと待ってて」
「まだ学校に来るときに買ったペットボトル残ってるから、気にしないで」
 立ち上がろうとした都子ちゃんを手で制する。なんとなく、あのリビングに都子ちゃんを行かせたくなかった。
「気が利かなくて、ごめんね」
「そんなことないよ。それより、コレクションを見せてくれるんじゃないの?」
「そうだったね、あたしのグッズたち、ドールちゃんに自慢しちゃおっと!」
 それから、都子ちゃんのぬいぐるみ紹介が始まった。ゲームのキャラクターであったり、ゆるキャラのマスコットであったり、私にはぜんぜんわからないものも多くある。それでも、目を輝かせながら話す都子ちゃんが楽しそうで、見ているこっちも気持ちが和む。
 この子の周囲を癒してくれるような空気は、いったいどこから来るのだろう。
「それでそれで、とっておきはこれです! じゃーん!」
「これは、お人形? ずいぶんキレイに作られているみたいだけど」
 都子ちゃんが抱えるように持ちだした人形は非常に精巧な作りのものであった。眼こそ人形らしく大きく作られているが、滑らかな髪に通った鼻筋、小さな唇。今までのぬいぐるみとは違う、人を思わせるものだ。
「球体関節人形って言ってね、手も動かせるんだよ。ほらミヤコ、ドールちゃんですよ、握手握手」
 そう言って都子ちゃんが人形を動かしてその手を差し出してくる。私は苦笑しながら小さな手を握った。人形の大きさは都子ちゃんが抱えて丁度良いくらい、60センチはあるだろうか。
「可愛いね、この子もミヤコって言うの?」
「えへへ、宝物なんだ。名前はずっと迷ってたんだけど、つい自分の名前にしちゃった」
「いいじゃない。都子ちゃんもミヤコも可愛らしい。姉妹みたいで」
「そう見える? 嬉しいな。あたしにとっては妹、ううん子供? お友達……どれにも当てはまるような子なの。ドールちゃんにも紹介したかったんだー!」
 人形を抱いてにっこりと笑う都子ちゃんに、私も微笑み返した。
「大切なものを見せてくれて、ありがとう。それに素敵なお部屋でいいなって思う」
「ドールちゃんの部屋も、いつか見てみたいなぁ。すごい整頓されてそう!」
「私の部屋は、きっと見てもつまらないよ」
 彼方の残影が残されているだけの、本当につまらない部屋である。私自身の趣味を入れ込むことを、お父さんとお母さんは良しとしていない。彼方の面影が崩れるからだろう。
「都子ぉ! 帰ってるのぉ!?」
 不意に部屋の外から、呂律の回っていない大きな声がした。都子ちゃんの顔色が途端に曇る。
「ドールちゃん、ちょっと待ってて」
 そう言って都子ちゃんは足早に部屋を出た。何やら言い争う、いや女性が一方的にまくし立てる声が聞こえる。聞き耳を立てる気はなかったが、何度も同じことを繰り返し言っているようであった。お父さんが泥酔した時のような、酔っぱらい特有のくどさがある。
「友達が来ているから!」
 都子ちゃんのその言葉で、相手の声のトーンが落ちた。しばらくして、都子ちゃんが部屋に戻ってくる。無言でさっきまで座っていた場所に座りなおすと、ミヤコと名付けた人形を抱きしめて何度も深呼吸をした。
「驚いたでしょ、ごめんねドールちゃん。お母さん寝起きがちょっと、悪くてさ」
「ううん、私は気にしない。でも都子ちゃんは平気?」
「あたしは、うん、だいじょうぶ。あたしには、この子たちがいるから」
 都子ちゃんが抱いている人形の髪はサラサラで、着ているオシャレな洋服にも皺ひとつない。肌もきちんと掃除されているようで、本当に大切にしているのだろうなと思われた。
 この部屋は、いわば都子ちゃんのお城なのであろう。都子ちゃんが自分を守るために作り上げたお城。彼女にとって人形やぬいぐるみは特別な存在に違いない。
 ドールちゃん。私につけた謎めいたニックネームも、今ならなんとなく納得出来るものがある。それだけ慕ってくれているのかと思うと、嬉しい気持ちにもなった。
「騒がしくしちゃったね、ドールちゃん、もう帰る?」
「どうしようかな」
 束の間、私は迷った。都子ちゃんの眼には怯えのようなものが浮かんでいる。
 私がここに長居することが、彼女にとってプラスに働くのかマイナスに作用してしまうのか、判断出来ない。
「そうだね、そろそろ帰ろうかな。また遊びに来ても良い?」
「もちろん! いつでも来て。あたしひとりでお留守番している日も多いからさ」
 結局、私は帰ることに決めた。遅かれ早かれ、都子ちゃんはお母さんとふたりきりにはなってしまうのだ。それは私にはどうしようも出来ない。ただ、不安と心配が募るだけである。
「家についたらメッセージ送るから」
「うん。ていうか、駅まで送って行くよ!」
「平気。一本道だったし、ひとりで帰れる」
「でも」
「今日は楽しかった、ありがとうね。キミも、ありがとう」
 私は都子ちゃんが抱えている人形を一度撫で、都子ちゃんに頷いてカバンを持って部屋を出る。リビングで、目がとろんとした都子ちゃんのお母さんが座っている。都子ちゃんのお母さんだけあって、キレイな顔立ちをしていた。
「お邪魔しました」
 私が頭を下げると、都子ちゃんのお母さんは含み笑いを漏らした。
「都子にお人形以外の友達がいたなんてねぇ、あの子をよろしくねぇ」
「こちらこそ、いつも都子ちゃんにお世話になっております。失礼します」
 ざらつく気持ちを抑えながら、玄関を出てアパートを後にする。
 都子ちゃんは強いな、と思った。彼女は苦しい環境に置かれても、自分の場所を自分で作り上げたのだ。そしてそれを大切に慈しんでいる。
 電車に乗った。トンネルを通過するとき、列車の窓ガラスは彩度を落とした鏡のように私の姿を映し出す。彼方そっくりに作られた姿を。私は、都子ちゃんのようには出来なかった。自分の場所など作ることもせず、ただ彼方の呪縛に捕らわれたまま。
 私は眼を閉じて、電車がトンネルを通過するのを待った。トンネル特有のくぐもった音がいつまでも終わらないような気がして、息苦しい気持ちに包まれた。
 家に帰るといつものように呼吸を整えてからドアを開け、『アンタ』『お前』と口々に言うお父さんとお母さんをやり過ごす。少し帰りが遅くなり過ぎたせいか、彼らの追及は執拗だった。友達の家に遊びに行っていたとは言えない。彼方にふさわしい友達がどうかという、くだらない詮索が始まるに違いないのだ。
「部室で読書に熱中してしまったの、ごめんなさい」
 気の重い夕食を早々に終え、自室のベッドに横たわると都子ちゃんにメッセージを送った。すぐに都子ちゃんはスタンプ付きで元気いっぱいの返信をくれる。
「私の居場所、か」
 何をすれば、それを得ることが出来るのだろう。答えの見つからないまま、時間だけが過ぎ去っていった。

 家で過ごす時間は鬱々と、学校生活はそれなりに動き出した。最近、都子ちゃんはバイトを始めたようだ。
「ミヤコはあたしが居ない間ひとりぼっちでしょ、姉妹が欲しいなって思って」
「そっか、あの子に姉妹が出来るのね。そしたら寂しくないね」
 都子ちゃんらしい動機に、思わず笑みがこぼれる。長谷川くんも相変わらずの様子で、今では話しかけられるのも慣れていた。ちょこちょこと色んな生徒の間を動き回るのは、もの悲しさと健気さを感じさせる。
 都子ちゃんが忙しくなり、私は放課後の時間を文学部で過ごすことが多くなった。
 その日も夕方まで読書をして、部室を出た。帰宅するのは気が重いが、帰らないわけにはいかない。校舎を出てグラウンドと校門に面したところまで歩いていると、スマートフォンが振動した。
 ほとんど都子ちゃんとしか連絡は取り合っていない。彼女はバイトのはずだ。なんだろうと思いスマートフォンを取り出してみると、ニュース速報が入っていた。
『京浜東北線、人身事故のため上り線下り線ともに運転休止、運転再開の時刻は未定』
 えっ、と短い声が出た。私が普段使っている路線である。これでは帰りが遅くなってしまう。電車が止まっていたという理由をお父さんとお母さんが受け入れるかはわからなかった。とはいえバスの振替運転だってそんなにすぐには対応しないだろうし、線路沿いの道を徒歩で帰るしかない。
「困ったな、どれくらい時間がかかるだろう」
「よー、月城! なぁに暗い顔してんだー?」
 名前を呼ばれ振り返ると、自転車に乗った南雲くんが手を振っていた。すぐそばに来ると自転車を降り、私の顔をうかがうように見る。
「南雲くんこそ、こんな時間まで何をしているの? 南雲くん、帰宅部だよね?」
「補習だよ、補習。宿題もやらねーし小テストの点数も悪いからってさ」
「そうなんだ。宿題くらいやればいいのに」
 腰に手を当てて大げさにため息をつく南雲くんに、私が言った。
「宿題もやろうとは思うんだけどさぁ、ぜんぜんわかんなくって結局サボっちまうんだよな」
「わかる範囲でやればいいじゃない。間違えてたっていいから」
「俺、こうみえて完璧主義者ってゆーの? やるなら満点取りたいし」
「でもその結果が補習でしょ、意味ないじゃん」
 南雲くんは「まぁな!」と答えて元気に笑った。補習なんて彼には大して問題ではないのだろう。
「で、月城は何してんの?」
「部活帰り……なんだけど電車が止まってるみたいで。歩いて帰ろうかなって」
「へーっ、そりゃ大変だ。……そうだ!」
 南雲くんが手を叩いて私の顔を見る。
「俺のチャリ、二人乗り出来るから。良かったら送ってってやるよ」
「え? でも、私の住んでる場所と南雲くんの家、同じ方向かもわからないのに」
 戸惑う私に、南雲くんが「あー、やっぱり」と言って口をへの字に曲げる。
「お前覚えてないんだな、俺と月城、幼稚園同じだったんだぜ。クラスは違ったけど」
「そうだったっけ? ごめん、まったく覚えてなかった」
 幼稚園のころ、私はお父さんとお母さんに一刻も早く彼方の代わりとなるべく様々な習い事や勉強をさせられていた。だから、きっと南雲くんが同じクラスであっても覚えていなかっただろう。そんな余裕は、あのころの私にはなかったから。
「まぁそういうワケだ。月城の家は知らないけど、住所は結構近いはずだから。どっか家の近くまで連れてってやるよ」
「うーん、それじゃあお言葉に甘えて」
 少し人目も気になったけれど、家で愚痴愚痴言われないで済むと思えば気が楽だ。
 私は南雲くんの自転車の後ろに腰掛けるようにして座った。
「おいおい、そんな座り方じゃ危ないぞ。ちゃんとチャリまたげよ」
「私スカートだから。またぐのはさすがに恥ずかしいの」
「そんなもんか? じゃあ、せめてしっかりつかまってろよな。いくぞ」
 南雲くんが自転車を走らせる。自分が何もしなくても運ばれていくのはなんだか不思議な感覚がした。見慣れた通学路も、いつもとは違って見える。やがて自転車は舗装もされていない土手道に入った。
「結構揺れるね、ここ」
「河原を走るのが一番近道なんだよ、車も走ってないし信号もないからな」
「なるほど。この辺りに川が流れてるのは知ってたけど、そういえば見るのは初めて」
 都会にありがちな、ちょっと汚れた川。だけど、夕日を照り返してキラキラと輝く水面はとても美しくて、私はしばしその光景に目を奪われた。
「こっから先はトンネルくぐるからな。ちゃんとつかまってろよ」
「トンネル?」
 前方に目を向けると、確かに大きなトンネルが見える。トンネルの上を自動車が走っているから、おそらく道路を作るために後から設置されたものなのだろう。坂はかなり急勾配に見えた。
「ようっし、いくぞー!」
 南雲くんの掛け声とともにトンネルに入る。トンネルは舗装されており、自転車もスムーズに進む。目の前に、急な下り坂が迫って来た。
 自転車が長い坂を下っていく――初めて感じる心地良い浮遊感に、私の全身が包まれた。
「きゃっ……ふ、ふふ、あはははは!」
 自転車が猛スピードで坂を走り抜ける。
 景色が見た事ない早さで移動して、風が気持ちよく全身をうつ。
 今まで味わったことの無い思いがけない解放感に、私の口からは自然と笑い声があふれ出した。
「あはは、何これすごい、あっははは!」
「おっ、月城が声あげて笑ってるのなんて初めて見たわ。どんどんいくぜ」
「はやーい、すごーい。これ楽しいかも」
 やがて道は平坦になったが、加速した自転車はすごい早さで道を走り続ける。
 そして上を走る道路を通過するとともに、今度は上り坂になった。勢いをつけて自転車が昇っていくが、さすがに二人乗りの自転車の勢いは坂の途中で止まった。南雲くんが一生懸命ペダルを漕いでいる。私は降りて自転車を押すのを手伝った。
「サンキュー月城、楽しかったみたいだな」
「うん、なんだか新鮮だった。すごいはしゃいじゃったよね、ちょっと恥ずかしいや」
「ジェットコースターみたいだろ、毎回ここを通る時はテンション上がるんだ」
 坂を登り終えたところで、南雲くんが歯を見せて笑った。私は彼方が行った遊園地以外に行ったことがないので、こういう体験は初めてだった。こんな、ほんの一瞬でも何もかも忘れさせてくれるようなことがあるなんて。
「ジェットコースターは乗ったことないからわからないけど、すごかった」
「月城、ジェットコースター乗ったことないの? ガキのころ家族で遊園地とか行かなかった?」
「行ったような気もするけど……ジェットコースターはないかな」
 彼方はあまりこういう乗り物を好まなかったのだろう。私は遊園地に行っても、彼方が好きだった乗り物にしか乗せてもらうことは出来なかった。
「ふーん……まぁ人それぞれか。でもめっちゃ楽しかっただろ?」
「うん、とっても楽しかった」
「そんじゃ、もう一回行くか!」
 そういうと南雲くんは自転車の向きを変え、再びトンネルに向けた。
「えっ、でも南雲くん疲れちゃうでしょ。悪いよ」
「いいって。月城の笑い声とかめっちゃレアだし、俺も一緒に大声で笑うから」
「じゃ、じゃあもう一回だけ」
 再び自転車に腰を掛ける。南雲くんが自転車をこぎ出すとすぐに今昇って来た坂道に入った。自転車はどんどん加速していく。南雲くんがペダルを回すように漕いで、さっきよりも早いくらい。
 私はまた笑い声をあげて自転車に揺られた。私があんまり楽しがるものだから、結局南雲くんは二往復半もトンネルを走ってくれた。二人で笑い声をあげながらトンネルをくぐり抜け、私たちは地元のほうへ走っていく。
 見覚えのある小学校が見えてきた。ここから私の家まで徒歩で十分もかからない。
「南雲くん、ここでだいじょうぶ。あとは歩いて帰れる」
「そっか。んじゃこの辺で止めて、と」
 自転車を降りた私は、南雲くんに軽く頭を下げた。
「今日は本当にありがとう、送ってくれたのもだけどあの坂道……本当に楽しかった」
「いいってことよ。ただ、そのー、あのな。俺もお願いしたいことがあって」
「南雲くんが、私にお願いしたいこと?」
「うん、あれだよ。あのー……」
 南雲くんは気まずそうに頭をかいたあと、彼にしては小さな声で言った。
「宿題とかな、今度見せてくれたら嬉しいかなーって……ダメ?」
「ふふっ、それを頼むために私を自転車で送ってくれたの?」
「そういうわけじゃないけど、ほらせっかくの良い機会かなーって思っちゃったり」
 南雲くんの気まずそうな様に、私は噴き出してしまった。なんてシンプルで可愛らしいお願いなのだろう。いつごろから、彼はこんなことを考えながら自転車を漕いでいたのであろうか。無邪気過ぎる下心が、いっそ快い。
「いいよ、宿題くらい見せてあげる」
「ホントに? やったぁ、めっちゃ助かるわ、月城よろしくな!」
「だけど。宿題を写したって、南雲くんの学力があがるわけじゃないんだよ。自分のペースでいいから、ちゃんと勉強はしといたほうがいいよ」
「うっ……気を付け、ます」
 宿題を写させることの是非は、あまり考えなかった。南雲くんが望むのなら、まぁアリかなと思うくらいだ。それで今日の借りを少しでも返せるならそれでいい。
 どうしても成績が振るわなければ、長谷川くんあたりに勉強を指導するように言うという手もある。役目を与えられれば長谷川くんも喜ぶだろう。南雲くんだって、毎回の補習よりはクラスメイトとの勉強会を選ぶ気がした。
「じゃあ、俺はあっちの方なんでこれで。月城、気を付けて帰れよ」
「うん、またね南雲くん。宿題は明日持っていくから」
「おう、そしたらまた明日学校で!」
 大きく手を振って、南雲くんが走り去っていく。私も家に向かい歩き出す。心なしか、いつもより家に進む足取りが軽い。こんな日もあるんだな。小さく微笑んだ私は、深呼吸をせずに家のドアを開けることが出来た。 
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