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来訪者
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馬車は4人が乗っても、思ったほど狭くはなかった。これだったらもう少し荷物を持って来れたかもしれはい。だからと言って持って来たい物などなかったけれど。
私はペンを一本。リヒャルトは本を数冊。マリーは日記。あとはお金を少々と今身につけている物。持って来た物はそれだけだ。エーリッヒ様は私たちがあまりにも何も持っていないのを見て、顔を顰めていた。
ガタガタと振動の中、私はエーリッヒ様を見た。仏頂面で笑わない。身長が高くて声が低くて威圧感もある。不意に視線が合う。静かな瞳。
「……まさかエーリッヒ様がお国からたった1人しか連れて来ていないとは驚きでした」
「周りに多く置くのは好きではないし必要もない。イェンスは侍従も従者も御者もなんでもできる」
今御者台に乗っているのはイェンスと言うのか。40歳手前くらいの爽やかな人だ。背もたれにもたれ、ぼうっとする。何もしていない時間というのは久しぶりだ。
こんなふうに時間を過ごしていいのだろうか。あちこちに視線を向けたり、体勢を何度か変えていると、リヒャルトが静かな声で言った。
「姉さん、落ち着きなよ」
少し恥ずかしかった。リヒャルトがそう言うほど私はそわそわしていたのだろうか。
「ごめんなさいね、つい気になってしまって」
「何が?」
その責めるような口調にドキッとした。
眼光鋭く私を見るリヒャルトには答えが分かっているのだろうか。何か言っても責められそうな気がする。口を噤む。しかし私が何も言わなくてもリヒャルトは言った。
「家の為に必死に働いて、国の為に死にそうになりながら働いて、それで家や国が姉さんに何をしてくれたんだ!結果はこれだよ。伯爵の身分も王子付きの文官の位もヴァルデの名も、姉さんを苦しめただけだろ?……もういいじゃないか」
最後は絞り出すようだった。
呆然としてリヒャルトを見ていると、リヒャルトはばつが悪そうに「ごめん」と視線を逸らした。
そして気が付いた。恐らくリヒャルトはずっと言いたかったのだと。何度も何度も呑み込んだ言葉がこれなのだと。
「……私だって好きで仕事をしていたわけじゃないの。ただ、家はあなたに渡すまで守らないといけないと思っていたし、仕事を放っておくときっとヴィルヘルム様は今頃過労死されていたわ」
大切なものを守る為にずっと頑張ってきた。その大切なものは今はリヒャルトとマリーしか手の中にいない。それだけしか残らなかったと嘆くべきか、それだけは掬うことができたと喜ぶべきか。
「……もういいと言うのは簡単だけど、そう言ってしまえば動けなくなりそうで怖いのよ」
小さく言ったその言葉。口に出してしっくりした。
同時に心のどこかで思う。もういいのではないか、と。ユルンへ行って全て忘れて生きていけばいい。ヴィルヘルムには他の貴族がたくさんついている、と。だけど今捨てようとしているそれは私の生きる意味だった。
「……今はゆっくり休むことが最優先だ。考えることなど後からいくらでもできる」
エーリッヒ様はこちらへ視線を向けていなかった。その横顔は厳しく、何か考え事をしているように見えた。はい、と頷き、私は再び背もたれにもたれた。手の中のペンを見る。私はどうしてこれを持って来たのだろうか。
少しして馬車の速度が少し落ち、外から声がかかった。
「エーリッヒ様、道に男が立っています。どうしますか?」
エーリッヒ様が窓から顔を出して前方を見る。私ももう一つの窓から外を見た。
……来たのね。
何度かしか見たことのない顔。だけどずっと近くにいた人。とうとうこの時が来たか、と息を吐く。
「知り合いか?」
エーリッヒ様に聞かれ頷く。
「止めるか?」
止める?止めるなんてとんでもない。あれは見送りなんて可愛いものではない。私はきっぱりと言った。
「轢いてください」
リヒャルトがぎょっとして私を見た。エーリッヒ様の「轢け」と言う短い言葉に馬車がまたスピードを上げる。私は座り直す。ガラガラという音だけに意識を向ける。
「うおおぉぉぉ!?」
そんな叫び声が外から聞こえた。だけど衝撃は全くない。
「避けられたわね」
「当たり前だろ!」
リヒャルトが思わずといったふうに腰を浮かして叫んだ。珍しい。
「申し訳ありませんが止めてもらえますか?」
エーリッヒ様が外に指示を出すと馬車が止まった。降りて、来た道を見る。向こうの方に1人の男の姿が見えた。
男は服の汚れをはたき落としている。
「あいつ貴族じゃないよな。誰?」
リヒャルトも降りて来て私の隣に立った。誰と聞かれても私は彼の名前を知らない。
「……私の死神よ」
男がこちらへ歩いて来る。
「あまりよくない雰囲気だな」
エーリッヒ様の声は後ろから聞こえた。もう一つ気配がある。
「リーゼロッテ様……、あの人は……」
振り返るとマリーが青ざめた顔で男を見ていた。そうだった、マリーは面識があったのだった。
大丈夫よ、と囁く。
「ったくよぉ、いきなり轢こうとするなんてひでえな」
声が届く距離。男は愚痴をこぼしていた。じっと見つめる。愚痴が止み、目が合う。男の唇が弧を描いた。笑顔なんてものじゃない。もっと黒い何か。
「殺しに来たぜ、お嬢さん」
男ははっきりとそう言った。
私はペンを一本。リヒャルトは本を数冊。マリーは日記。あとはお金を少々と今身につけている物。持って来た物はそれだけだ。エーリッヒ様は私たちがあまりにも何も持っていないのを見て、顔を顰めていた。
ガタガタと振動の中、私はエーリッヒ様を見た。仏頂面で笑わない。身長が高くて声が低くて威圧感もある。不意に視線が合う。静かな瞳。
「……まさかエーリッヒ様がお国からたった1人しか連れて来ていないとは驚きでした」
「周りに多く置くのは好きではないし必要もない。イェンスは侍従も従者も御者もなんでもできる」
今御者台に乗っているのはイェンスと言うのか。40歳手前くらいの爽やかな人だ。背もたれにもたれ、ぼうっとする。何もしていない時間というのは久しぶりだ。
こんなふうに時間を過ごしていいのだろうか。あちこちに視線を向けたり、体勢を何度か変えていると、リヒャルトが静かな声で言った。
「姉さん、落ち着きなよ」
少し恥ずかしかった。リヒャルトがそう言うほど私はそわそわしていたのだろうか。
「ごめんなさいね、つい気になってしまって」
「何が?」
その責めるような口調にドキッとした。
眼光鋭く私を見るリヒャルトには答えが分かっているのだろうか。何か言っても責められそうな気がする。口を噤む。しかし私が何も言わなくてもリヒャルトは言った。
「家の為に必死に働いて、国の為に死にそうになりながら働いて、それで家や国が姉さんに何をしてくれたんだ!結果はこれだよ。伯爵の身分も王子付きの文官の位もヴァルデの名も、姉さんを苦しめただけだろ?……もういいじゃないか」
最後は絞り出すようだった。
呆然としてリヒャルトを見ていると、リヒャルトはばつが悪そうに「ごめん」と視線を逸らした。
そして気が付いた。恐らくリヒャルトはずっと言いたかったのだと。何度も何度も呑み込んだ言葉がこれなのだと。
「……私だって好きで仕事をしていたわけじゃないの。ただ、家はあなたに渡すまで守らないといけないと思っていたし、仕事を放っておくときっとヴィルヘルム様は今頃過労死されていたわ」
大切なものを守る為にずっと頑張ってきた。その大切なものは今はリヒャルトとマリーしか手の中にいない。それだけしか残らなかったと嘆くべきか、それだけは掬うことができたと喜ぶべきか。
「……もういいと言うのは簡単だけど、そう言ってしまえば動けなくなりそうで怖いのよ」
小さく言ったその言葉。口に出してしっくりした。
同時に心のどこかで思う。もういいのではないか、と。ユルンへ行って全て忘れて生きていけばいい。ヴィルヘルムには他の貴族がたくさんついている、と。だけど今捨てようとしているそれは私の生きる意味だった。
「……今はゆっくり休むことが最優先だ。考えることなど後からいくらでもできる」
エーリッヒ様はこちらへ視線を向けていなかった。その横顔は厳しく、何か考え事をしているように見えた。はい、と頷き、私は再び背もたれにもたれた。手の中のペンを見る。私はどうしてこれを持って来たのだろうか。
少しして馬車の速度が少し落ち、外から声がかかった。
「エーリッヒ様、道に男が立っています。どうしますか?」
エーリッヒ様が窓から顔を出して前方を見る。私ももう一つの窓から外を見た。
……来たのね。
何度かしか見たことのない顔。だけどずっと近くにいた人。とうとうこの時が来たか、と息を吐く。
「知り合いか?」
エーリッヒ様に聞かれ頷く。
「止めるか?」
止める?止めるなんてとんでもない。あれは見送りなんて可愛いものではない。私はきっぱりと言った。
「轢いてください」
リヒャルトがぎょっとして私を見た。エーリッヒ様の「轢け」と言う短い言葉に馬車がまたスピードを上げる。私は座り直す。ガラガラという音だけに意識を向ける。
「うおおぉぉぉ!?」
そんな叫び声が外から聞こえた。だけど衝撃は全くない。
「避けられたわね」
「当たり前だろ!」
リヒャルトが思わずといったふうに腰を浮かして叫んだ。珍しい。
「申し訳ありませんが止めてもらえますか?」
エーリッヒ様が外に指示を出すと馬車が止まった。降りて、来た道を見る。向こうの方に1人の男の姿が見えた。
男は服の汚れをはたき落としている。
「あいつ貴族じゃないよな。誰?」
リヒャルトも降りて来て私の隣に立った。誰と聞かれても私は彼の名前を知らない。
「……私の死神よ」
男がこちらへ歩いて来る。
「あまりよくない雰囲気だな」
エーリッヒ様の声は後ろから聞こえた。もう一つ気配がある。
「リーゼロッテ様……、あの人は……」
振り返るとマリーが青ざめた顔で男を見ていた。そうだった、マリーは面識があったのだった。
大丈夫よ、と囁く。
「ったくよぉ、いきなり轢こうとするなんてひでえな」
声が届く距離。男は愚痴をこぼしていた。じっと見つめる。愚痴が止み、目が合う。男の唇が弧を描いた。笑顔なんてものじゃない。もっと黒い何か。
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男ははっきりとそう言った。
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