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始まりの日(2)
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呆然とする俺に、老人は告げた。
「青木家に生まれる禍殃の芽――。それは、人類の未来をものみこむ恐れがある。そこでおぬしには、青木家に何か変事が起きぬか監視し、事態を未然に防いでほしいのじゃ」
その言葉は空虚な夢語りのようにも思えたが、不祥な響きが耳に残り消えなかった。
「人類滅尽だかなんだか知らないが、あの人たちがそんなことに関わるわけないだろう。皆やさしい、普通の人たちなんだ」
「そうか。じゃがなあ、わしには見えるのじゃよ。この青木家から漂う暗い気配が、世界中を覆い尽くすのがな」
老爺は続けた。
「信ずるかはおぬしの自由じゃが、これだけは銘肝しておけ。これは、人類の未来のためだけではない。おぬしや、家族のためでもある。たとえ今は兆候がなくとも、遠くない未来に禍難は発生し、一家の心を喰い荒らすであろう。そうなったとき、家族を守れるのはおぬしだけなのじゃ」
荘厳な声に言葉をなくした俺を見て、老人は面様を和らげた。
「なにかあったら呼んでくれ。すぐに飛んでいくからの」
そう言うや否や、老人の風姿は薄れ霧散した。
俺は、先刻まで老人がいたはずの空間を、ただ呆然と見つめていた。
薄暮になり、ママさんとトシユキくんが帰宅した。
パパさんは今日も仕事で遅くなるそうだ。
二人と一匹で囲む食台には、茄子の味噌炒めの匂いが優雅に漂っていた。
テレビでは、無機質なアナウンサーの声が直近の事件について口述している。所在不明だった小学生の女の子が無事に見つかり、担任の教師が逮捕されたらしい。
それを見てママさんが言った。
「児童誘拐ですって。怖いわねえ」
「犯人、教師かよ」
「他人事じゃないわ。トシユキも気をつけるのよ」
トシユキくんはマッシュヘアの金髪に片手をやり、苦笑した。
「なに言ってるんだよ、俺もう大学生だよ」
「そうじゃなくて。街角でかわいい子供を見かけても、声かけちゃだめよ」
「そっちか」
「大丈夫。心配しなくても、トシユキのよさをわかってくれる人がきっと現れるわ。だからどうか同年代以上の人を――」
「心配せずとも、そんなことしねえって」
トシユキくんはそう言って、ふと視線を俺に向けた。
「あれ、柴太郎。食気ないのか。全然食ってねえじゃねえか」
その言葉に、ママさんも俺を見た。
「あら、本当。具合悪いのかしら」
眼前に置かれた皿には、まだ半分以上残っていた。
先刻の老人の言葉を思い出すと、心臓が鉛を置かれたように重くなり、どうにも食が進まなかったのだ。
トシユキくんは屈んで俺と視線を合わせると、そっと背中を撫でてくれた。
「病院連れて行ったほうがいいのかな」
「そうねえ。明日も同じだったら、行ってみましょうか」
ママさんの瞳子も心配そうに揺れていた。
俺は重い躯を持ち上げて、皿に残った細かい粒子を無理やり口へ流し込む。
この人たちに心配をかけるわけにはいかない。
背中に置かれた掌から体温が伝わり、胸へと沁み渡っていくのを感じた。
翌朝、トシユキくんはいつものリードを取ってきて、俺の首輪に付けた。
逍遥はトシユキくんの担当だ。共働きのパパさん、ママさんに比べて、大学生の彼は家を出るまで少しだけ時間に余裕がある。
「ちゃんと靴履くんだぞ。九月とはいえ、まだ暑いからな。うっかりマンホールでも踏んでみろ。おまえの小さな肉球なんて、すぐに焼けちまうんだからな」
そう言いながら、丁寧な手つきで靴を履かせてくれる。
靴はデニム地のスニーカーのようなデザインで、トシユキくんとお揃いだ。
「よし。じゃあ行くか」
リードを握り直して、トシユキくんが言った。
近所の公園を一巡りするのが、いつもの逍遥コースだ。公園といっても、運動場が複数併設された、比較的大規模な場所。
だが、トシユキくんは逆方向へと歩を向けた。
「今日はいつもと違うところにするぞ、柴太郎」
向かった先は川縁だった。
コンクリートに隔たれた向こう側に、鴨の親子が泳いでいる。遠くに見える橋架、こちらを睨むようにそびえる工場、濁った水面を揺らす少し湿った風――。
ただ水が流れている。それだけの光景だが、見ていると不思議と心が落ち着くのを感じた。それらは鬱屈した心にしのび寄り、鉛をそっと取り除こうとしてくれているようだった。
俺は横目でそっとトシユキくんを見た。
もしかして、元気のない俺を心配して、気晴らしに連れてきてくれたのだろうか。
その予想とは裏腹に、トシユキくんはただ一点を見つめていた。
「……トシユキくん?」
声をかけても、引っ張っても反応しない。
目線をたどると、そこには古びた小学校と、ランドセルを背負った児童の列、そして校門であいさつする教諭らしき女性の姿があった。
トシユキくんは耳朶まで朱に染めて、うるんだ瞳子でそれを見つめていた。――唐紅のランドセルを背負い、友達とはしゃぐ小さな女の子の風姿を。
水音に紛れて消えたはずの心臓の痛みが、再び襲ってきた。昨晩夕餉の際に流れていたアナウンサーの声が脳裏によみがえる。それを聞いた、ママさんの言葉。
トシユキくん、もしかして君は――。
かすかに揺れる大きな眸子が、背筋を撫でる冷たい気配にかたちを与えた。
「青木家に生まれる禍殃の芽――。それは、人類の未来をものみこむ恐れがある。そこでおぬしには、青木家に何か変事が起きぬか監視し、事態を未然に防いでほしいのじゃ」
その言葉は空虚な夢語りのようにも思えたが、不祥な響きが耳に残り消えなかった。
「人類滅尽だかなんだか知らないが、あの人たちがそんなことに関わるわけないだろう。皆やさしい、普通の人たちなんだ」
「そうか。じゃがなあ、わしには見えるのじゃよ。この青木家から漂う暗い気配が、世界中を覆い尽くすのがな」
老爺は続けた。
「信ずるかはおぬしの自由じゃが、これだけは銘肝しておけ。これは、人類の未来のためだけではない。おぬしや、家族のためでもある。たとえ今は兆候がなくとも、遠くない未来に禍難は発生し、一家の心を喰い荒らすであろう。そうなったとき、家族を守れるのはおぬしだけなのじゃ」
荘厳な声に言葉をなくした俺を見て、老人は面様を和らげた。
「なにかあったら呼んでくれ。すぐに飛んでいくからの」
そう言うや否や、老人の風姿は薄れ霧散した。
俺は、先刻まで老人がいたはずの空間を、ただ呆然と見つめていた。
薄暮になり、ママさんとトシユキくんが帰宅した。
パパさんは今日も仕事で遅くなるそうだ。
二人と一匹で囲む食台には、茄子の味噌炒めの匂いが優雅に漂っていた。
テレビでは、無機質なアナウンサーの声が直近の事件について口述している。所在不明だった小学生の女の子が無事に見つかり、担任の教師が逮捕されたらしい。
それを見てママさんが言った。
「児童誘拐ですって。怖いわねえ」
「犯人、教師かよ」
「他人事じゃないわ。トシユキも気をつけるのよ」
トシユキくんはマッシュヘアの金髪に片手をやり、苦笑した。
「なに言ってるんだよ、俺もう大学生だよ」
「そうじゃなくて。街角でかわいい子供を見かけても、声かけちゃだめよ」
「そっちか」
「大丈夫。心配しなくても、トシユキのよさをわかってくれる人がきっと現れるわ。だからどうか同年代以上の人を――」
「心配せずとも、そんなことしねえって」
トシユキくんはそう言って、ふと視線を俺に向けた。
「あれ、柴太郎。食気ないのか。全然食ってねえじゃねえか」
その言葉に、ママさんも俺を見た。
「あら、本当。具合悪いのかしら」
眼前に置かれた皿には、まだ半分以上残っていた。
先刻の老人の言葉を思い出すと、心臓が鉛を置かれたように重くなり、どうにも食が進まなかったのだ。
トシユキくんは屈んで俺と視線を合わせると、そっと背中を撫でてくれた。
「病院連れて行ったほうがいいのかな」
「そうねえ。明日も同じだったら、行ってみましょうか」
ママさんの瞳子も心配そうに揺れていた。
俺は重い躯を持ち上げて、皿に残った細かい粒子を無理やり口へ流し込む。
この人たちに心配をかけるわけにはいかない。
背中に置かれた掌から体温が伝わり、胸へと沁み渡っていくのを感じた。
翌朝、トシユキくんはいつものリードを取ってきて、俺の首輪に付けた。
逍遥はトシユキくんの担当だ。共働きのパパさん、ママさんに比べて、大学生の彼は家を出るまで少しだけ時間に余裕がある。
「ちゃんと靴履くんだぞ。九月とはいえ、まだ暑いからな。うっかりマンホールでも踏んでみろ。おまえの小さな肉球なんて、すぐに焼けちまうんだからな」
そう言いながら、丁寧な手つきで靴を履かせてくれる。
靴はデニム地のスニーカーのようなデザインで、トシユキくんとお揃いだ。
「よし。じゃあ行くか」
リードを握り直して、トシユキくんが言った。
近所の公園を一巡りするのが、いつもの逍遥コースだ。公園といっても、運動場が複数併設された、比較的大規模な場所。
だが、トシユキくんは逆方向へと歩を向けた。
「今日はいつもと違うところにするぞ、柴太郎」
向かった先は川縁だった。
コンクリートに隔たれた向こう側に、鴨の親子が泳いでいる。遠くに見える橋架、こちらを睨むようにそびえる工場、濁った水面を揺らす少し湿った風――。
ただ水が流れている。それだけの光景だが、見ていると不思議と心が落ち着くのを感じた。それらは鬱屈した心にしのび寄り、鉛をそっと取り除こうとしてくれているようだった。
俺は横目でそっとトシユキくんを見た。
もしかして、元気のない俺を心配して、気晴らしに連れてきてくれたのだろうか。
その予想とは裏腹に、トシユキくんはただ一点を見つめていた。
「……トシユキくん?」
声をかけても、引っ張っても反応しない。
目線をたどると、そこには古びた小学校と、ランドセルを背負った児童の列、そして校門であいさつする教諭らしき女性の姿があった。
トシユキくんは耳朶まで朱に染めて、うるんだ瞳子でそれを見つめていた。――唐紅のランドセルを背負い、友達とはしゃぐ小さな女の子の風姿を。
水音に紛れて消えたはずの心臓の痛みが、再び襲ってきた。昨晩夕餉の際に流れていたアナウンサーの声が脳裏によみがえる。それを聞いた、ママさんの言葉。
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